6 悲劇的-7-
二人はしばらく見つめ合っていた。
だが涙を流したのはひとりだけだった。
彼の母は死んだ。
この事実はけっして覆らないから、
「母さん…………」
彼は彼女の頬をそっと撫でた。
血の通っていない、冷たく、固い感触だけが返ってくる。
「どう、して……」
背後から足音が近づいてくる。
それがソーマだと分かっていた彼は振り向かなかった。
「母さんたちは後でちゃんと弔おう」
彼はかすれるような声で言った。
「僕たちが何をしたっていうんだ! 母さんが何をしたっていうんだ!」
止まりかけた涙が再び溢れ出す。
唯一の肉親との死別を冷静に受け容れられるだけの精神力は、まだこの少年には備わっていなかった。
「気持ちは分かるけど時間がないんだ。いつまでもこうしてはいられない」
ソーマは自分でも恐ろしくなるほど冷たく言った。
母の死が悲しくないハズがない。
だがこの惨状を目の当たりにして死への恐怖と生への執着が芽吹くと、涙は自然と止まった。
涙は視界をゆがませる邪魔な分泌液でしかなく、悲しみも動作を鈍らせる足枷でしかない。
「いやだ! 僕はここにいる! 母さんと一緒にいるんだっ!」
彼は亡骸にすがりついた。
たとえ指先ひとつ動かさなくなっても、これは母親にはちがいないから、
彼は傍にいることを選んだ。
ソーマは遺体が見つかってよかった、と思った。
もし見つからなかったら、シェイドは生きていると信じて永遠に母を捜し続けただろう。
「………………」
幼馴染として、これまで面倒を見ていた身として彼の意思を尊重して、ここに残したほうが幸せなのかもしれないと一瞬だけ迷う。
「ぐずぐずしてたら、あいつらが来ちまう。どこかに隠れるぞ」
躊躇ったあと、はっきりとした口調で言う。
やはり彼を置いてはいけない。
それは見殺しにするのと同じだ。
それに彼女はいつも言っていたではないか。
“シェイドのこと、よろしくね”
ソーマは結論に達した。
自分は彼女に任されているのだ、と。
彼の命を預かっているのだ、と。
その言葉は今なお生きている。
「どこにも行きたくない!」
ソーマはシェイドの肩を掴んで無理やり振り向かせた。
「…………ッ!」
そして涙でぐしゃぐしゃになった顔を力いっぱい殴りつけた。
予想すらできなかった一撃に小さな体躯は、受け身もとれずに倒れ込む。
「いい加減にしろ! ここにいたら殺されちまうんだぞ! 俺も、お前も!」
今だけは情を捨て、ソーマは胸倉を掴みあげた。
「逃げるんだよ! 逃げて生き延びろって、おばさんが言ってるんだよ! ここでお前が死んだって何にもならないだろうが!」
シェイドは頬を走る痛みに気がついた。
じわりと熱い。
それこそが生きている証だと。
死んでしまえば痛みすら感じられなくなることに、しばらくしてから思い至る。
「逃げる……?」
「そうだ! 生きるんだ! こんなことで死ぬために俺たちは生まれてきたんじゃない! おばさんに産んでもらった命を――粗末にするんじゃねえ!」
冷静になれと自分に言い聞かせていたソーマだったが、結局はそうなれなかった。
「…………ソーマ」
頬に帯びた熱が引いていくのと同時に、彼の感情も落ち着きを取り戻しはじめる。
なかば意地になって亡骸にしがみついていた自分を思い返し、シェイドはソーマの手を払った。
「分かったよ……」
彼はやっとそれだけ言った。
視線は母に向けて落とされていたが、瞳の輝きは悲嘆の涙が反射してできたものではない。
「でも、危なくなくなったら戻ってくる。それからお墓を作るんだ」
「ああ、俺もそのつもりだ」
二人はもう歩き出していた。
「殴って悪かったな。痛かっただろ?」
かろうじて全焼を免れた家屋に隠れながらこの場を離れる。
採掘場や洞窟に潜むとドールが来た時に逃げ道がなくなるという理由から、二人はプラトウを出てどこか別の町にまぎれこむことにした。
「痛かったよ」
シェイドはぶっきらぼうに答えた。
物理的な痛みならとうに魔法で消している。
「それよりどこに行くの?」
「西は国境だから近づかないほうがいい。南に下りたほうが安全かもしれないな。小さな村があったハズだ」
「でも僕たち、お金持ってないよ。どうするの?」
「2、3日分の宿代くらい持ってる。それまでに連中が引き上げたら、例の洞窟で石をかき集めて売りさばく。それでしのげる」
場当たり的だが悪い手ではない。
「うん……」
保護者を喪ったことによる不安は計り知れない。
自分を守ってくれる人も、帰りを待ってくれる人も、そもそも帰るべき家さえも、今はない。
(とはいえ、いずれはもっと遠くに行かなきゃならねえよな……)
漠然とだがソーマにも懸念はある。
虐殺のあった町から流れ着いた少年二人……となれば、相当に目立つ。
田舎であれば噂がすぐに広まるから、いずれ知れ渡ることになるだろう。
その時、政府が生き残った自分たちを探し出したら、ご機嫌とりに必ず通報する輩が現れる。
となれば孤児として施設の世話になることもできず、出自を隠して各地を転々とするしかない。
(その場合、金はどうすりゃいい? あまり離れすぎるのも……)
銀行に口座を持つこともできないから、資金調達のためにはそのつど例の洞窟に潜らなければならない。
(問題は山積みだな……)
二人は慎重に歩を進めた。
目指す南の村までは身を隠せるような場所がほとんどない。
荒地と大きな川が行く手に平行に流れている以外は目につくものはない。
「ここで出くわすのはまずいな。慎重に――」
その先を言うのは無駄だった。
視線の先には細い影がいくつも見える。
姿だけは人間の、ぎこちない歩き方で向かってくる人形だ。
型が古いおかげでまだ二人を認識できていないが、このままでは真正面からぶつかることになる。
「くそ! 引き返すぞ!」
ソーマが慌ててシェイドの腕をつかみ、来た道を戻ろうとした。
しかしそれはできなかった。
「マジかよ……!」
この見通しのよい一帯のどこに隠れていたのか、背後にも数体のドールの姿があった。
挟撃に遭った恰好だが、右手は川で塞がれている。
深く、流れも速いために渡河はできそうにない。
残る一方の退路は遮蔽物がないからドールたちの的になってしまう。
「走ろう」
シェイドが小声で言った。
「このまま……前に向かって走るんだよ」
「あいつらの中に突っ込むつもりかよ?」
「後ろの奴らはまだずっと向こうにいるから大丈夫。それよりここでじっとしてたら挟み撃ちにされちゃうよ」
「だからって……」
「いいから、ソーマは僕についてきて!」
返事も聞かずにシェイドは走り出した。
「バ、バカ! なにを考えて――」
引き留めようとソーマは手を伸ばしたが、一瞬だけ遅かった。
彼は勇気と無謀とを履き違えたように、真っ直ぐにドールの一団に向かっていく。
「ああ、クソ! あとでぶん殴ってやる!」
どうにもならないと思ったソーマは彼を追って走った。
旧型の彼らは連続するわずかな起伏のせいで、まだ二人を視認できていない。
シェイドは力強く地を蹴り、飛ぶようにして躍り出た。
ドールたちの動きが一瞬止まり、ようやく彼の姿を捉える。
『プラトウの人間を確認、排除す――』
無機質な声とともに、一斉に銃口を向ける、その数瞬前に、
「うああああっっっ!!」
シェイドが左手を突き出した。
指先がアメジスト色に輝いたと思った刹那、五指から伸びた閃電がヘビのようにうねりながらドール目がけて走った。
稲妻は鎌首をもたげ、ドールの装甲を内部機関ごと焼き尽くす。
光と熱は彼が指先をわずかに動かすと、それに合わせて蛇行する進路を変えた。
銃が火花を散らして砕け散る。
バラバラになった金属の筒が落下する頃には、それを持っていたドールの腕も地に転がっていた。
『ハイ、ジョ……』
目も眩む光に包まれながら装甲を焦がされ、頭部と胴体の連結部を焼き切られたドールたちは、数秒後には無数のガラクタとなってそこに積み重なっていた。
「………………」
それを眺めていたソーマは自分が見たものを信じられないでいた。
人を傷つけたことのない、物を壊したことすらないような彼が、魔法という誰もが当たり前に持っている力を使い、ドールを破壊した。
ただ壊したのではない。
残骸をつなぎ直しても、元が何であったか分からないほどの――文字どおり粉砕だ。
彼がよく知っているシェイドには、けっしてできないハズのことだった。
「はあ…………」
緊張から弛緩へ。
下手を打てば逆に殺されていたかもしれない状況に、シェイドは全身の力が抜け落ちてしまったようによろめいた。
「お、おい! 大丈夫かよ!?」
慌てて支えようと差し出した手に微弱な電流が走り、反射的にソーマは手を引いた。
彼の全身は電気を帯びて、ほのかに輝いている。
「お前、いつの間にそんな魔法を……?」
ソーマは少しだけシェイドが怖くなった。
力を隠していたことには何も感じなかったが、隠していた力の大きさは想像以上だ。
たしかにこれなら徴兵されても不思議ではない。
「いつかは覚えてないよ。使うなって言われてたから使わないようにしてただけ」
息を切らしながら彼は立ち上がった。
「それより……後ろからも…………」
危険はまだ去っていない。
ドールは背後からも迫っている。
「走れるか?」
「うん、うん……大丈夫。これくらいなら」
残骸を踏み越え、二人が走り出した時だった。
風を斬る音がし、ソーマの腹部から青白い光が突き出した。
「…………?」
視野に一瞬だけ光が見え、遅れて音が聞こえ、続いて彼の体が前のめりに倒れる。
閃光を追いかけるように飛び散った赤が、中空で静止したようにシェイドには見えた。
「…………ソーマ?」
瞬きをひとつする間に起きた全ての出来事が、シェイドに自覚を促す。
ただちに理解し、ただちに適切な行動をとれ、と彼に教え諭す。
「…………ッ!」
彼はそれに従った。
理性も思考も、感情も本能さえも追いつけないほど素早く。
彼は振り向きざまに左手を伸ばし、五指から閃電を
シェイドが狙う敵を視認する前から、アメジスト色の光は焼き払うべきものを理解していた。
ドールが銃口をシェイドに向け引き金を引いた瞬間に、鎌首がその銃ごと腕を跳ね飛ばした。
レーザー光の狙いは逸れ、シェイドの足をかすめた。
細枝のようだった稲妻は大樹のように膨れ上がり、輝きを増していく。
左手にはめた腕輪が悲鳴を上げる。
コーティングが剥がれ落ち、装飾にひびが入った。
濁流を思わせる魔力の波が機械じかけの人形を残らず灰にしたところで、シェイドは我に返った。
視線の向こうにはもう何者の姿もなかった。
「ソーマ……ソーマ!」
急いで彼を抱き起こす。
背後からの攻撃は彼の腹部を突き破り、紺色のケープを赤黒く染めていた。
「シェイド…………」
彼は中空に向かって呟いた。
「怪我、は……ないか……?」
そして最も不釣り合いな言葉を紡ぐ。
「なに言ってるんだよ!」
きみの台詞じゃないだろう、とシェイドは笑い飛ばそうとして不自然な笑みを作った。
ここまで飽きるほど嗅いだ血と土埃と何かの焼けたにおいが、ソーマから漂ってくることが彼には耐え難かった。
すぐさま展開した治癒の魔法は正しく機能しているハズだが、母やミンの時と同じく傷口が塞がる様子はなかった。
(血が…………!)
せめて今も続いている出血を止めようと、シェイドは魔法に集中する。
光の粒子はこれまで以上に強く、明るく輝く。
(死ぬ……の、か……俺…………?)
ソーマの喉から空気が漏れた。
出血は止まった。
だが魔法が効き目を示したのはそれだけだった。
呼吸はだんだんと荒くなり、瞳からは輝きが失われていく。
「ソーマ! ダメだよ! 死んじゃダメだっ!」
必死の叫びも彼はほとんど聞き取れない。
「しっかりしてよ! ねえ……ソーマ! ねえ!」
抱きしめる手に力を込め、彼の目を見る。
しかし視線は交わらない。
力を失ったソーマはゆっくりと目を閉じ、暗闇の中に残り少ない人生を生きる。
まず視覚がなくなり、聴覚が奪われた。
撃たれた直後に感じていた高熱と激痛も、今はもうない。
誰かに抱きとめられている感覚だけはあったが、それもやがて麻痺したように何も感じなくなった。
「おまえ……だけ……で……」
最後に残されたのは声だった。
もう何も感じなくなっても、薄れていく意識の中には、臆病で世間知らずで、勇敢な幼馴染の姿がある。
相変わらずのお人好しで、何かあるとすぐ泣き言を漏らす、守るべき弟のような存在が。
彼が最後に見た彼は涙を流していたから。
不安そうに自分を見下ろしていたから。
「――逃げ、…………」
今の彼に必要なことを言おうとし、ソーマは眠りについた。
「やめてよ! ソーマ! イヤだ……! 置いていかないでよ!」
シェイドは叫んだ。
声の限り叫んだ。
「ぼく……ひとりじゃ……生きていけない! ソーマ! ねえ、ソーマ!」
頼りとする幼馴染はいつも呼べば駆けつけてくれたのだ。
だから今だって、その名を呼び続ければ応えてくれるだろう、と。
「………………」
魔法は――怪我や病から人を助ける治癒の魔法は無意味になった。
彼がどれほど手を尽くしても、優しい光はソーマの体内に浸透するのを拒んだ。
行き場を失った魔力の発光はふらりと中空をただよった後、空気に溶けて見えなくなった。
シェイドにとっての長い数分が過ぎた。
彼はもう、閉じた目を開くことはなかった。
ソーマは死んだのだ。
希望を抱くのはやめよう、とシェイドは思った。
死んだ者は生き返らない。
死に向かう人を救うこともできない。
彼はもう数えきれないくらいの亡骸を見た。
親しい、掛け替えのない人の死に触れた。
だが最も近くにいながら、何もできなかったのだ。
(母さんも、ソーマも、ミンおばさんも……死んじゃった……)
プラトウは死んだ。
彼の生まれ育った町は死んだ。
彼はそれを今なら理解できた。
“死”が指し示すものが永遠の別れであることを、世間知らずの少年は学んだ。
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