10 夜明け-1-

 何度も深呼吸をする。

 ここの空気はプラトウよりも少し濁っていて、人工物の味がする。

 床も壁も天井も、触れたことのない手触りで、見たことのない色合いで、嗅いだことのない匂いがする。

 土や草に囲まれていた故郷での生活を彼は懐かしく思った。

 不思議な感覚だ。

 プラトウを離れてまだ5日も経っていないのに、望郷の念にかられてしまう。

 帰ったところで住む家はおろか町そのものがなくなっているというのに、ここは自分の居場所ではないという後ろめたさを抱かずにはいられない。

 それは単純に場所だけの問題ではなく、全てが彼にとって場違いだったからだ。

 たとえばこの部屋などは最も強くそれを自覚させられる。

 まず足元に広がるように敷かれた豪奢なカーペットだ。

 値打ちのあるものらしく、踏む度に足を優しく押し戻してくる感覚がある。

 シェイドはこの柔らかさが苦手だった。

 天井から吊り下がっているガラス細工の照明も、目が痛くなるほどの純白の壁紙も、彼には居心地が悪い。

 それなりの生活を知っていれば、これがどれほどの贅沢であり、手放したくない恵まれた環境であるかを実感できるが、シェイドが欲しいのはそれではない。

「失礼します」

 ドアの向こうで男の声がし、シェイドは慌てて立ち上がった。

「えっと、どれを押すんでしたっけ?」

「下の方に青く光っている部分がありますから、そこに触れてください」

「これですね」

 来訪者との会話やドアの開閉、施錠等は壁面のタッチパネルを操作することで行なう。

 シェイドがそれに触れるとドアがゆっくりと開いた。

「何かお手伝いできることがあればと」

 現れた男は恭しく頭を下げて柔和な笑みを浮かべた。

 制服からして一目で文官だと分かったシェイドは室内へ通した。

「すみません、少しお願いが――」

「なんなりと」

「この服じゃないとダメですか……?」

 シェイドは衣服の裾をつまんだ。

 富と権威の象徴を寄せ集めたような正装は、子どもが着るには荘厳過ぎた。

 意匠は大邸宅の豪奢な内装を貼り付けたような燦爛さを放ち、見目麗しい華々しさがある。

 この衣装は元々あったものだが小柄なシェイドに合わせて急遽、作り直したものである。

 そのため彼に合う寸法にはなっておらず、動きにくいことこの上ない。

「それが式典での正装なのですが……装飾が重いのでしたら、いくつか外しましょうか? 内側にも珠玉をちりばめていますから、それらを除けば――」

「あ、いえ、そうじゃなくて……できれば別の服を着たいんです」

 シェイドは申し訳なさそうに言った。

「こんなのにみんなのお金を遣いたくないですし……」

 男は少し考えてから、

「それがあなたのご意思ならそのようにいたしましょう。すぐに手配します」

 手にした通信機で世話役を呼び出した。

「ごめんなさい、勝手なことばかり言って……せっかく用意してくれたのに……」

「正直、驚きました。人は誰しも、手に入れた力は使ってみたいと思うものです。重鎮が最も民に近い皇帝だと言われましたが、疑いようがありませんね」

 役人にとってこれほど楽な環境はないだろう。

 ペルガモンに仕えていた頃は自分の言動で怒りを買いはしないかと戦々恐々としていた。

 常に威勢を誇示しなければ気が済まない暴君が相手では一時も気は休まらない。

 この少年にはそれがない。

 誰よりも高位にありながら誰よりも低姿勢で、ともすれば卑屈にすら見える。

 周囲にはそれが可笑しく、かえって恭順に振る舞いたくなってしまう。

 男は無意識に微笑した。

 前皇帝とちがい、笑顔を見せても不敬だと怒鳴られることはない。

「あの、それから、文字も教えてほしいんです。難しい言葉が多くて……」

 恥ずかしそうに言ってからシェイドはテーブルに置いてあった原稿を見せた。

 この後の即位式で使うもので、皇帝として万民に初めてかける言葉が記されている。

 典礼に則った内容だが、正統の手順による即位ではないため大部分は書き改められていた。

 原稿は尊厳性を保つためシェイドの直筆によっているが、祭儀官が作った手本を丸写ししただけなので、彼自身は言葉の意味も読み方も分かっていない。

「これは大人でも難しいですね。儀礼用の文言ばかりですから無理もありません。しかし写させて終わりとは祭儀官も不親切ですね。後で文句を言っておきましょう」

 彼は冗談めかして言うと、横に座って読み方を教えた。

 第三者の手が加えられることは許されないので、シェイドはひとつひとつ聞いたとおりに書き足していく。

 そうこうしている間に使いの者たちがやって来た。

「すみません。さっき着せてもらったんですけど、やっぱりいつものほうがよくて」

 式典用の正装は縫製が複雑すぎてひとりでは脱着できない。

「いつもの、とはあの黒いコートのことでございましょうか?」

「はい。母さんが作ってくれたものなんです」

 世話役は困ったように顔を見合わせた。

 なぜ式典にあんなみすぼらしい恰好を、と言いたげな表情である。

「かしこまりました。すぐにお持ちいたしましょう」

 しかし間もなく皇帝となるお方の要望である。

 彼らはすぐに手配した。

 重苦しい衣装を脱ぎ、馴染んだコートに袖を通したシェイドはようやく落ち着いた。

「他にもご要望があればなんなりと仰ってください。お望みなら式典そのものを無くしてしまってもかまわないのですよ?」

「そ、そんなことできないですよ! 今日のためにたくさんの人が準備してくれたのに」

 妙な冗談を言わないでほしい、とシェイドは抗議した。

「今のは例えですよ。ただ、これからのあなたはそういうことも簡単にできます」

「簡単に……?」

 男は急に真顔になって、

「何もかも手に入れることも、何もかも消してしまうことも。たった一声で――」

 囁くように言った。

 シェイドは首をかしげた。

 この少年はまだ自分が手にした力の強大さを理解していない。

 きょとんとする彼の仕草に微笑み、男は再び文字の読み方を教えた。

「ありがとうございました。これで何とか読めると思います」

 原稿を何度も見返し、読めない文字がないことを確認する。

「まだ時間がありますね。私はこれで失礼しますが、いかがなさいますか?」

「もう少しここにいます。遅れないようにしますから」

 男が退室するのを待ってからため息をつく。

 狭い町で見知った顔とばかり過ごしてきたから、次から次へと人の出入りがあるとそれだけで疲れてしまう。

 同じ国のハズなのに、言語も文化も何もかもちがう世界に飛ばされたような感覚になる。

 ならば独りで部屋にこもっていれば落ち着くかと思いきや、内装に息苦しさを感じて結局、数分もしないうちに廊下に出る。

 しかしドアの向こうの光景も大差はない。

 十数メートル上の天井と、それを支える柱の列が、崩れ落ちてはこないかと彼は思わず頭を低くした。

「もしかしてその恰好で出るつもり?」

 車椅子に乗ったフェルノーラが声をかけてきた。

 車椅子といっても車輪は非常時に使用するためのもので、通常はAGSによって浮遊している。

「式典用のは重くて……」

「ふふ、あなたらしいわね」

 シェイドが恥ずかしそうに言うと彼女は微苦笑した。

「それより怪我は大丈夫? お医者さんは心配ないって言ってたけど……」

 彼が言うとフェルノーラは顔を伏せた。

「見てのとおりよ。足が動くことはもう――」

「ウ、ウソ……っ!?」

 血相を変えたシェイドを見て、彼女は肩を揺すって笑った。

「冗談よ。半月もすれば歩けるようになるわ。傷自体は治ってるから」

「びっくりさせないでよ! 僕を庇ってそんな怪我をしたんじゃ、責任がとれないよ!」

「勘違いしないで。あれはあなたを庇ったんじゃない。あいつを殺す機会をあなたに奪られたくなかっただけ」

 フェルノーラはふいと余所を向いた。

 相変わらず難しい子だ、とシェイドは思った。

「それより、もうすぐこんな風に話すこともできなくなるわね」

「なんで?」

「だってあなた、皇帝になるのよ。私はただの一般市民。本来ならこんな話し方してること自体、許されないんだから」

「よく分からないよ。みんな同じようなこと言うけど、実感がないっていうか……」

 この話を引き受けた時、彼は重鎮に、何もしなくていいと言われた。

 ただ、いてくれるだけでいいと。

 実際、ペルガモンを倒してから今日まで、彼は本当に何もしていない。

 周囲の大人たちが右往左往して混乱を鎮めるために腐心し、同時に彼が皇帝として認められるように国中に働きかけ、入念にその下準備をしてきた。

 煩雑な手続き等もあり、その実は何もしなかったというより、何もできなかったと言ったほうが正確だ。

「怪我が治ったらどうするの?」

「自治長に誘われてる。落ち着いたら他の人たちとプラトウの復興を手伝うつもりよ」

「そう、なんだ……」

「いま、寂しいって思ったでしょ?」

「ええっ? お、思ってないよ……!」

「こんなに頼りない指導者なんて、きっと他にはいないわね」

 呆れるように言われると彼は何も返せない。

「でも――私がこうして生きているのはあなたのお陰なのよね……そのことには本当に感謝してるわ。もちろん、彼にも――」

 感慨深そうに言い、彼女は肘掛けにあるパネルに指を置いた。

 車椅子が滑らかに方向を変える。

「彼……?」

「――あなたの友だち。乱暴そうなあの子のことよ」

 不機嫌そうな笑みを浮かべてフェルノーラは車椅子をゆっくりと前進させた。

「実は私も式典で呼ばれるらしいの。準備してくるわ」

「プラトウの出身だから?」

「次期皇帝の窮地を救ったから、らしいわ。そんなの、戦ったみんながそうなのにね」

 何と返そうかと考えているうちに彼女は廊下の向こうに消えた。

「彼女は強く、そして賢い子だ」

 振り向いたシェイドにグランが頷く。

「声をかけてくれればよかったのに……」

「お邪魔はできないよ。割って入るのは無粋だからね」

「邪魔……?」

 純朴なシェイドには言葉の意味が理解できなかった。

「あの……ありがとうございます。母さんとソーマを弔ってくれて――」

 弔う、という言葉はレイーズたちが使っているのを聞いて覚えたものだ。

 二人の亡骸は丁重に火葬に付された。

 プラトウを発つ際に造られた簡易の墓は、専門の職人によってシェイドの家があった場所に建て直され、遺骨もその下に納められている。

「私たちにできるのはそれくらいしかないからね。ペルガモン政権下、数えきれないほどの命が理不尽に奪われた。先の叛乱でも両勢に多くの死傷者が出ている。彼に仕えていた身としては、死者を悼む気持ちはいつも持っているよ」

 それに後悔も、と彼は小さく付け加える。

「僕に何ができますか?」

 彼は自分が指導者と担ぎ上げられた時からずっと抱いていた疑問を口にした。

「きみなら何でもできるよ」

「そうじゃないんです。その、死んでしまった人たちに対して――」

 この言葉には母や幼馴染みももちろん含まれている。

 近しい者も、顔も名前も知らないどこかの誰かも、シェイドは同じように死んでしまった人たちと表現した。

「その人たちが生きたかった国を造ること、ではないかな」

 彼は少しも迷わずに答えた。

「今でもペルガモンのやり方を支持している者はいる。だけど死んでいった人たちの多くは虐げられていた側だ。彼らがそれまで生きてきたことを意味のあるものにするには、彼らが生きたいと思う国にすること――だと私は思う。何も変わらないのでは死んだ者たちが報われない、というのが私の考えだよ」

 難しいことを考えるのは苦手だったが、シェイドにはその意見は理解できた。

 ただ、彼は何をすべきかを問うたのではない。

 グランの考えには賛成しているが、それが実際に実現可能かといえば別問題だ。

「心配はいらないよ。きみはもっと単純に、こんな国にしたい、と言ってくれればいい。私たちが、この国の民がその実現のために動くからね」

「それは……僕の言うことを聞いてくれる、ということですか……?」

「そうだよ」

「僕がクライダードだから……?」

「たしかに政府と戦うためにも、叛乱軍をまとめ上げるためにも、きみの強い力が必要不可欠だった。いや……ごまかすのはよくないな。正直に言おう。私たちはきみの体の中に流れる血を……利用したんだ。そのことは否定しない」

「………………?」

「しかし自分では気付いていないかもしれないが、きみは魅力に溢れている。血統や魔法の力なんてものは、その一部でしかないんだよ」

「よく、分かりません……」

「将来性――というのは難しいかな……きみの優しい気持ち、争いを嫌う平和的な心、だが他人のために敢然と立ち向かう強さ。多くはそうした内面に惹かれたんだ」

 こう言われるとますます分からなくなる。

 そんな人間はどこにでもいる。

 母だってそうだったし、ソーマも言葉は乱暴だったが望むことは同じだったハズだ。

 反旗を翻した重鎮もレイーズも、叛乱軍の一兵に至るまで、その気持ちに差異はない。

(僕が……本当に…………?)

 なぜ自分なのか。

 誰も明確な答えをくれない。

 母なら微笑みながら優しく教えてくれただろうか。

 ソーマなら呆れながらも答えてくれただろうか。

「こんな国にしたい、と思いついたことを言ってくれればいい。きみが住みたい国なら、きっとみんなにとっても住みたい国になるだろうからね」

 グランは本心からそう言った。

「そういうものなんでしょうか……?」

 と問うシェイドに、

「そういうものなんだよ」

 彼は微苦笑して言った。




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