june 2
そんなこんながあって、浮かれたりヘコんだりした6月最初の日の夕方、例によって、酒井がクラブ連絡帳と授業のプリントを持って、病室にやってきた。
彼女もやっぱり、夏の制服に変わっている。
チョコレート色とモスグリーンのチェックのプリーツスカートはいつもと同じ柄だが、開襟ブラウスは半袖で、薄いベージュ色のベストを羽織っている。
今日の酒井はこないだと打っては変わって、明らかに不機嫌そうな顔をしていた。
またイヤな気分にさせられるのかなぁ。
ふたりの間に流れる空気を少しでもよくしたいと思い、ぼくは努めて明るい声で彼女に訊いた。
「酒井さんも夏服かぁ。もう衣替えのシーズンなんだね」
「ええ…」
「…今日もまたジャンケンで負けたのかい?」
「まあ…」
ノリが悪い。
酒井はぼくをチラッと一瞥すると、『ふぅ』とため息をもらし、ひとりごとの様につぶやいた。
「この病院に家がいちばん近いのってあたしじゃないですか。
なので、先輩の所に連絡帳を持って行くのは、結局あたしの係になったんです。
あたし1年生だし… しかたないですよね」
言い終えるとと彼女はまたこれみよがしに、『ふぅ』とため息をついた。
なんだかヤな感じ。
どうしてこいつとは、うまくやれないのかなぁ・・・
「先輩、あたしが来るの、イヤでしょ?」
落胆したようなぼくの顔色を素早く察知したのか、酒井はいきなり訊いてきた。
「そ、そんな事はないけど… 酒井さんの方が、イヤなんじゃないかと…」
「ん… まあ、いいんですけど…」
そう言いながら彼女はいつもの様に鞄をモソモソ探り、億劫そうに連絡帳とプリントを取り出した。
なんか、すっごく気まずい雰囲気。
焦りながらぼくは、適当な話題を探す様に、あたりを見回した。
梅雨前の明るい日差しを浴びて、窓辺で綺麗に咲いているバラが目に入る。
「そっ、そう言えば… 先週はバラの花をありがと。あの時お礼言いそびれて…
今度酒井さんが来た時に言おうと思ってたんだよ。おかげで殺風景な病室が明るくなったよ」
先週、彼女がそれを持ってきてくれた事を思い出し、ぼくはお世辞半分でお礼を言った。
『ふうん。どういたしまして』
どうせ、そんな薄~い反応しか返ってこないだろうと思っていたが、意外にも酒井はその言葉にパッと顔をほころばせて、満面の笑みを見せて言った。
「そうですか? よかったです」
あ。
こいつ…
笑うと意外に可愛いじゃん。
先週の私服に引き続き、また意外な面を見た感じ。
「うちの庭にたくさん咲いてるのを持ってきたんですよ。おばあちゃんがバラが好きで、お見舞いに行くって言ったら、咲いたばかりのを切ってくれたんです。
イングリッシュローズの『グラハム・トーマス』って言う品種なんです」
「へえ。おばあちゃん、バラが好きなんだ」
「あたしも好きです。今の時期は庭のバラが綺麗で、朝、学校に行く時とか、とってもいい香りがして、気持ちいいんですよ。おばあちゃんみたいに種類とかは詳しくないけど」
「そう言えば、うちにもバラの木が植えてあるよ。ぼくも名前なんて知らないけど。バラって120種類以上もあって、今でも新種が開発されてるんだって。それだけ全部の種類を覚えてる人って、『バラオタク』くらいしかいないだろうけど」
そう言うと、酒井はまた『クスッ』と笑う。うん。可愛いぞ!
「おばあちゃんも『バラオタク』かもですね。バラの花びらを乾燥させて、いろんなもの調合して、ローズティーなんかも作っちゃうんですよ。あたし、お茶とかも全然わかんないけど、それがまた美味しくて、いい香りがして、すっごく癒されるんです」
「へえ~。まるで魔法使いみたいだな。ヒーリングの魔法」
「あははは。そんな感じです」
ぼくの言葉に、酒井は声を出して笑った。
ますます可愛いじゃないか。
こいつは一応、可愛い部類の女の子だから、笑顔を見せてくれるとすごく魅力的だ。
バラの話題はよっぽどツボだったらしく、今までぼくを避ける様にしていた酒井が、今日は会話も弾んで、親しげに笑顔を向けてくれた。
やっぱり女の子の笑顔って、特別な効果があるらしい。
あれだけ苦手だった酒井亜希子が、今日はちょっぴり好ましく感じられる様になったもんな。
『コペルニクス的転回』
と言うんだろうか。
物事はちょっと見方を変えれば、まったく別の面が見えてくる。
今までぼくは酒井の事を、『苦手なヤツ』『イヤなヤツ』っていう方向からしか、見てこなかった。
だけど、ちょっと角度を変えて見てみれば、酒井は気が強くて口も悪いけど、素直で気配りできて、女の子っぽい面もあるのに気づいた。
彼女はぼくにクラブ日誌を届ける係になったらしいから、これからは毎週の様にここに来る事になる。
今までは彼女に会うのはなんとなく鬱だったけど、次からは少しは楽しくなるかもしれない。
つづく
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