may 2

 高校2年に上がった春。ぼくはいきなりツイてなかった。

新学期早々の健康診断のあと、『結核菌が見つかった』とかで、いきなり郊外のサナトリウムに強制入院させられるハメになってしまったのだ。


言われてみれば、部活でハードな練習をした時とかに、たまに息切れとかめまいを起こす事もあったけど、『疲れがたまってるんだろうな』くらいにしか感じてなくて、入院なんて大事おおごとになるなんて、思ってもいなかった。

ぼくの青春のすべてをかけて頑張ってきたテニスも、もうちょっとでレギュラーの座を掴みかけていたっていうのに、その努力もすべてパァ。

結核が完治するまでは、三ヶ月位は入院してなきゃいけないらしく、『このままじゃ進級も危ない』って担任は言うし、クラスのみんなからは『寄るなバイキン!』とからかわれては避けられるし、人生初の入院生活にしても、食事は美味しくないし物足りないし、退屈だし、おまけに担当の看護師はデブでブスだった。


だけど、そんなアンハッピーも、すべて今日のこの『初恋』のための伏線。前フリだったんだ。


テニスに情熱を傾けすぎたせいで、ぼくは今まで、女の子の事を意識することもあまりなかった。

家のなかでは女は母だけで、親戚にも従兄弟にも幼馴染の友達さえも、ぼくと同年代の女子はいなくて、接する機会が少なかったせいか、女の子とのコミュニケーションは、テニスのフォーメーションのようにはうまくはいかなくて、苦手なジャンルだ。

だけど、このサナトリウムには、こんなに甘美で、胸がうずうずする様な、素晴らしい初恋との出逢いが待っていたなんて。

たまたまとは言え、朝の散歩コースを変えた自分、偉い!

これからは毎朝、このコースをこの時間に通ることにしよう。


『中谷2丁目』バス停、8時10分。


それが、これからのぼくの日課だ。

まだ名前もなんにも知らない、手の届かない君だけど、きっといつかは君に振り向いてもらい、ぼくのこの切ない気持ちを知ってもらうんだ。

『甲斐ちひろ』というぼくの存在を、君に知ってもらえるだけで、ぼくは幸せなんだ。

それ以上のものは、なんにも望まない。

君は絶対不可侵領域に住む、ぼくの天使で、美の女神で、君を守るためなら、ぼくはこの命さえも捧げる覚悟ができている。

この想いは永遠に、ぼくの魂に深く刻みつけられるだろう。

君はぼくにとって、気高く美しい至高の存在なんだ!




「…輩。先輩。先輩っ? 聞こえてますかっ?!」

その時、耳元で荒々しい女の子の声がして、ぼくはハッと我に返った。


そうだ。

ここはサナトリウムの病室。

ぼくはずっと、初恋の妄想に浸っていたのか。

隣を見ると声の主… 酒井亜希子が、見るからに不機嫌そうな様子で、ベッドの前に立っていた。


「さっきから何回も呼んでるのに、シカトしないで下さい!

まったく… ニヤけた顔でぼけ~っとするの、やめてくれませんか。気持ち悪いです!」


しまった!


初恋の人の事を想っている顔を、よりによってこいつに見られるとは…

ってかこいつ、いつのまに入ってきたんだ?


酒井亜希子はバッグの中をモソモソ探っていたと思うと、いきなり数枚のプリントとノートを、無造作にぼくの目の前に放り出した。

「はいっ。クラブ日誌と連絡帳。それからいつもの授業のプリントです。まあ、勉強なんてしてなさそうだけど」


ぼくから顔を背けるようにしながら言った彼女は、テーブルに置いていた先週のクラブ連絡帳を、まるでバイ菌でも触るかの様に、指の端でイヤそうにつまみ上げた。


「どうして酒井さんが…」


そう言いかけたぼくを遮る様に、彼女は言い放った。


「ジャンケンで負けたんです」

「え?」

「先輩、結核じゃないですか。伝染うつる病気じゃないですか。だからクラブの誰もここに来たがらなくて、仕方ないから、ジャンケンで負けた人が行くって決めてるんです。

授業のプリントも、『ついでに持っていって』って押しつけられちゃって。

もうイヤんなっちゃう。なんであたしがいっつもいっつも、先輩の面倒見なきゃいけないんですか。

ったく、やってられないですよ。はぁ〜っ…」


ため息交じりにボヤいた彼女は、連絡帳を自分のバッグにしまって、プイと背を向け、部屋を後にする。

そしてぼくの視界から消える瞬間、捨て台詞のように言った。


「なにかほしいものないですか? 買ってくるものありますか? あたし、いつまでもこんな役目イヤなんですから、先輩も早く治して下さいね!」


“バタン”


言い終わらないうちに、ガサツにドアを閉める音が響き渡り、彼女の姿は消えた。

あっという間の出来事。

まったく… こいつはいつもそうだ。

用件だけ終わらせると、逃げる様に去っていく。

部活の時だって、用事があって話しかけても不機嫌そうに応えるし、たまに目が合った時だって、『イヤなもの見てしまった』という顔をしたあと、プイと視線を逸らす。

どうやらぼくは、嫌われているらしい。


それにしても、だ…


『ほしい物は?』なんて訊いておきながら、答えも聞かずに帰るのか?

もっとも、怖くてなにも頼めないけど…

ドアをぼんやりと見つめながら、ぼくは彼女の事を考えた。


つづく

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