僕と彼女

抹茶

Q「家事してください」 A「や!」




「ミーンミンミンミンミン……」

「……」

「ミー「わかりました」……やったっ!」


 セミの声をとても可愛らしい声で真似する彼女の、「私、諦めないから!」といった表情に、僕は大人しく負けることにした。


 未だ残夏ざんか猛暑もうしょを運びよせる中でも、僕と彼女にその暑さはまったく届かない。近年、地球温暖化が進むと言われている中で革新的な事はそう――


「やっぱり24度が一番かな」

「電気代を考えるともう少し上にしたか……なんでもないですよ」


 僕が言葉を言い切る前に、切なそうな瞳。ズルい。

 勿論、技術的な面でも進化したクーラーだけれど僕の家はさらに進化している。彼女――もとい売れっ子作家である小説家さんのご希望によって最新技術のクーラーが取り付けられているのだ。


「むー! 納得してない顔してるね?」

「まぁ…はい。そうですね。僕としては、あまり涼しくしたくないですね」


 電気代を気にしていると言えば聞こえが良くなる。けれど実際の所は僕の恥ずかし過ぎる個人的な意見だ。

 あまり涼しい場所に長時間居れば彼女の体に支障ししょうきたすかもしれない。その可能性があるからこそ、僕はあまり乗り気では無いのだけれど、彼女の場合はどうしようもない。


 だれかに束縛そくばくされるのは極度きょくどに嫌うし、何よりも僕がこうして涼しいクーラーの室内に居られるのも彼女の努力のお蔭。

 だから、この想いは胸の中にしまって――


「何か隠してるよね?」


――しまって置けたら良かったのかもしれない。


 彼女の頬がリスのようにふくらみ、「私、怒ってます!」とでも言いたげな表情で僕をにら――見つめてくる姿は可愛い。じゃなくて、半端はんぱな回答じゃ許してくれないと思う。


 実際、


「電気代を安くしたいんですよ」


 と言っても


「嘘ね」


 ばっちり見抜かれている。彼女が嘘を吐くときは僕も何となくわかるから、僕たちは互いの嘘を見抜く力があるのかもしれない。

 そんな事を考えるとニヤけてしまいそうだったので、僕は少し困った顔をしながら正直に話すことにした。


「……君の体が、クーラーで冷えたりして風邪でも引いたら嫌なんですよ。ただでさえ外に出たらすぐにバテてしまう君が、涼しい空間に居るのは何だか嫌なんです。それにに関してだって、君は自然の環境の方が良いでしょう?」


 そうやって、想っていたことを全部打ち明けていく。


 最初の一文だけで顔を赤くしていた彼女は、僕の独白どくはくが終わるころには沸騰ふっとうしたように真っ赤になっていた。とっても可愛らしい。

 でもそれ以上に、何だか心配になってくる。彼女は僕の言葉を聞いて、どう答えるのかわからないから。


 そんな僕のことなどお構いなしに、彼女はトマトみたいに真っ赤で可憐な顔で囁く。


「そんな事言われたら、私が抵抗ていこうできる訳ないじゃない……!」

「……僕は僕の気持ちを余す事なく伝えただけです」

「うぅ……!」


 良かった。彼女を大好きな気持ちであふれると同時に、安心する自分も居る。ここ最近、彼女は仕事が多くてあまり構えなかった。

 だからこそ、何だか心配だったのだけれど、この様子なら平気だと思う。


 ピ、ピ、ピ、ピ――。


 室内には無言で無機質むきしつな音が響き、やがて機械質きかいしつな声が聞こえてくる。


――温度を27度に設定しました。


「ありがとうございます」

「……ん」


 僕の言い分をしっかり聞いてくれた彼女は、無言で頭を僕の胸に押し付ける。手は僕の背中をしっかりと抱きしめてきた。


 だからもう一度、僕は彼女の言う。


「ありがとうございます」

「……」


 今度は頭を撫でながら。彼女のきめ細やかな髪はつやつやしていて、触っていて中毒性ちゅうどくせいがある。前に一日中触っていたことがあって、その時の彼女の表情はとろけていた。


 左手を彼女の背中に回して、右手で髪を撫でる。そうすれば、彼女は静かに僕へと体重を預けてきた。

 その可愛らしさに少しばかり理性が焼き切れそうだけれど、まだ昼間。それも午前中だ。


 全神経で抑え込み、僕は彼女の体を少しずつ離していく。


「あっ……」


(な、なにも聞こえてない何も聞こえてない……)


 その切なそうな瞳と、うるんだ表情。この世に天使は存在したらしい。いや女神か。

 若干じゃっかん変になりつつある思考を感じつつ、僕は世界一可愛い僕の彼女をしっかりと見つめる。


――本題に入らないと。


 そう、小説の締め切りが近付くこの時期に彼女の時間を分けてもらったのには訳がある。もちろん、最近さびしかったという理由もあるのだけれど、それ以上に重要なこと。


 それは――


「せめて、自分の部屋くらいは掃除してくれませんか?」

「や!」

「……はぁ」


 清々すがすがしいまでの即答そくとうだった。彼女の部屋は作家としての作業に集中できるように、特殊とくしゅな造りになっている。

 本人の希望もあって、仕事中は部屋の中に入ることは無い。そして最近、毎日部屋の中でずっと書き続けている。


 それが指し示すところはつまり汚いのだ。彼女の部屋が、今。


 もともと僕と彼女が知り合ったのは高校の同級生という随分昔な時なのだが、その少し後から僕は諸事情しょじじょうによって彼女の家に入り浸ることが多かった。

 その時に気付いたのだけれど彼女――家事全般がまったく出来ないのだ。


 まさか皿洗いすら出来ない、部屋の掃除すら出来ない程とは思っても無く、当時の僕は何だかすごく複雑な感情を覚えた。


 そういった経緯けいいで、彼女は今でさえ家事が出来ない。僕が出来るからと甘やかしているのもダメだとは思うけれど、彼女も社会人だ。

 この家だけでなく、友人の家に泊まりに出かけることもあるかもしれない。そんな時に、家事の手伝いすら出来ないのはまずいだろう。


 そういう趣旨しゅしを、随分ずいぶん丁寧ていねいにかみ砕いて説明した。


「いいもん。私はずっと貴方の家に居るから」

「……」


 不覚にも気絶するところだった。少しばかり恥ずかしそうに服の裾を掴んで小さく呟いている姿を見て、これは僕に対する特効とっこうだと理解できる。

 危ない、危うく同情するところだった。


 出会ってから今までの全ての時間をかけて、僕が磨いたのは彼女のこの可愛すぎる言動に対して理性を保つこと。

 悲し過ぎる努力の結晶だけれど、けっこう満足してる。


「……家事、してみませんか?」

「やぁあ!」


 幼児退行してしまった僕の彼女。いつまでもその子供らしさは物凄く可愛くて堪らないのだけれど、時に面倒ではある。

 こうなった彼女は自分の意見をのだ。


――恥ずかしくて。


 可愛い。最高。天使、女神!

 でも僕もここは我慢がまんだ。彼女の部屋がほこりまみれる日が来たら僕は正気で居られない自身がある。


 彼女の近くに埃やゴミなどといった天敵は存在してはならないのだ。


 そんな執念しゅうねんにも私怨しえんにも似た感情だけれど、後悔は無い。彼女の可愛さに対するモノは全て排除はいじょするべきだと思う。

 だから、僕は彼女にどうにか意見を聞き入れてもらいたいのだ……けれど。


「べ、別に汚くないから……」

「さっき見ましたよ。原稿の下書き、部屋の中に小さな山ができてたじゃないですか。それに、夜食用おにぎりのアルミもそのまま捨てるんですから……」


 彼女の掃除に対する見解は低い。だからこそ、僕が何とかしないといけないのだ。


「む、その顔、変な使命感抱いてるでしょ?」

「バレましたか」

「良いよ……私は貴方が居ないと何も出来ないくらいが良い」


 9割の打算の中にある1割の本音に、僕は少なからずドキリとしてしまった。心臓に悪い。彼女は自分が女神だと、天使であると自覚は無いのか。

 

 ホントに、愛おしくて――


「……ふぅ、しょうがないですね。しばらくは僕が担当しますよ」


 彼女の、おどろいたような顔が、とても印象的だった。とても可愛らしい、小さな照れ。あの顔が見れただけでも、僕にとっては充分に幸せだと思う。


「……でも、またちゃんと話し合いましょうね?」

「……やぁあ」

「ダメです」


 「ね?」と笑って言ってあげれば、彼女は不貞腐ふてくされたように机に突っ伏した。

 そのさらさらの髪と程よい温かさの頭を静かに撫でつつ、僕は最愛の彼女を見つめる。


 暫くすれば、小さな寝息がしてきた。

 家事は担当させられなかったけれど、彼女の疲れが取れていることを祈って、僕は今日も家事に取り掛かる。



 そんな毎日幸せ幸せ毎日だと思う。



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