月夜叉

猫柳蝉丸

本編



・雪



 月光。

 夜の灯火の下、彼女は駆ける。

 当てのある旅路ではない。ただ夜の中を彼女は駆ける。

 彼女に名はない。

 彼女は斯様な存在だ。

 彼女を敢えて呼称するならば、人が何時しか彼女に与えていた通称で呼ぶとしよう。

 月夜叉。

 月夜を往く夜叉。いつの頃からか彼女は人から斯様に呼称されていた。

 彼女は人ではない。

 彼女が何者であるかは、彼女自身も知る事ではない。

 彼女は彼女として存在し、思考し、行動している。

 月夜叉は夜を往く。

 月夜叉は朝を知らない。

 月出と共に月夜叉は発生し、朝焼けと共に消失する。

 その繰り返しだ。その繰り返しを、月夜叉は渺茫たる時の中で続けている。

 それが彼女の全てであり、彼女もそれでいいのだろうと思考している。

 されど月夜叉は駆ける。駆けるのは急いでいるからだ。

 久遠に等しい時を生きてきた彼女だろうと急いでしまう事態はある。

 駆けるのは少女と再会する為。知り合った少女と戯れたいが故だ。

 月夜叉は通常人間に視認される事はない。月を駆ける夜叉の姿は人々にとって蜃気楼の如き存在であり、万一視認されたとしても気のせいで片付けられる事が常だ。

 月夜叉は構わない。

 人間には人間の生活があり、月夜叉には月夜叉の生きる途がある。

 月夜叉を視認できるのは、極一部の才能を持っている者だけだ。

 人間に自分の姿が認められなかったとしても、月夜叉に不満はない。

 されど、運命の悪戯というべきか、極稀にだが月夜叉と関わってしまう人間が現れてしまう事も決して少なくはない。その人間の一人こそ、月夜叉が知り合った少女。まだ幼子に過ぎぬ少女。偶さか月夜叉を視認した少女だ。

 故に月夜叉は駆けるのだ。少女と邂逅を果たすために。

 数分駆けたか、月夜叉は常時待ち合わせ場所としている遊戯場に辿りついた。

 時間より幾分かは早いはずだったが、少女は既に遊戯場の長椅子に腰掛けていた。

「すまない。我が遅れたか」

 月夜叉も遊戯場の長椅子に漫然と腰掛け、自らを待っていた少女に声を掛けた。

 少女は多少喜悦の表情を浮かべ、小さく舌を出した。

「ううん。あたしがちょっと早く来ただけだから」

「左様か」

 月夜叉は呟きながら、少女の顔を無表情に覗き込んでみる。少女の名は真崎雪と過去に聞いた事がある。雪は三つ編みの童顔であり、贔屓目に見ても月夜叉には幼子にしか見えなかったのだが、彼女は既に十五を超えていると語っていた。

 雪と月夜叉が邂逅したのは、全く偶然の黎明からだ。

 食糧不足により少々消耗していた月夜叉が遊戯場で暫し休息を取ろうとした際、雪が長椅子に腰掛けて涙していたのだ。通常ならば月夜叉も斯様な小娘には関心を寄せないのだが、その日に限って彼女を気に掛けてしまい、声を掛けてしまっていた。

 それが始まりだ。

 雪は泣いていた理由を語りはしなかったが、月夜叉が己を人外の物怪である事を語っても気にする様子はなかった。雪はただ只管に己の傍に在る何者かを求めていたのかもしれない。月夜叉は何故かそれを懐かしく感じ、雪と友となった。

「どうしたの?」

 珍しく感慨深くなっている月夜叉を訝しんだらしく、雪は俯いた視線で訊ねる。

「否、少しな」

 答えながら、本当に己らしくないと月夜叉は苦笑した。

 己は人が呼ぶ通り夜叉だ。夜の淵を歩く者だ。感慨深くなるなど柄にもない。月夜叉は永久に等しい時を生きている。退屈な時間を永久に、だ。故に感慨深くなるなど、本来あってはならないはずだった。

 だが、まあ、いいのかもしれない、稀にならば。

「閑話休題。雪、昨日我は何処まで話したか?」

「あ、えっと……、お月さんがずっと前に逢った男の人の話かな?」

「雪……。何度も言うようだが、その『お月さん』という呼称はどうにかならぬか?」

「だって『月夜叉』なんて、何か悪そうな名前じゃない。そんな名前よりも『お月さん』って名前の方が、とっても似合ってるよ」

「……左様か」

 似合っていると言われたところで、『お月さん』という呼称はどうも慣れない。月夜叉は少々度し難い複雑な心境になったが、それも酔狂として小波の如き感情を在るが儘に受け容れた。悪くはない、何故だか斯様にも感じられた。

 雪の言葉は強ち間違いとも言えない。

 月夜叉の外見は人によって区々の印象を感じるようだが、共通している見解もあった。彼女は夜叉という呼称に似合わず、妖艶で耽美であり、纏っている白の羽衣が天女の如き印象を人々に与えるのだという。故に月夜叉という呼称よりはお月さんの方が似合っているのかもしれない。

 無論、実際は月夜叉には分からない。月夜叉は人間ではなく、生物ですらない。故に姿見に己の姿が映る事は決してない。姿見にも、水面にも、彼女の姿は顕現しない。光の反射は、彼女を照らさない。月夜叉は自らの姿を客観的に判断する事が出来ない。

 天女か、と月夜叉は微苦笑して、昨日雪に語った自らの過去の続きを語り始める。

 それは取り立てて特別な話ではなかった。

 過去……、遥かなる過去……、月夜叉が出会った珍妙な男との出来事の話だ。男の話の全てを語り終わった後、雪は目を丸くして感嘆の嘆息を洩らしていた。それほどまでに感嘆する話ではないだろうが、されど雪は感嘆していたようだった。

「どんな人にも……、何かは……起こるんだよね……」

 感嘆した儘、雪は呟いた。

 様々な意味を含んでいる言葉ではあったが、月夜叉は敢えて問わなかった。

 雪は続ける。

「お月さん……」

「何だ?」

「お月さんはその男の人の事が好きだったの?」

「好き……か」

 雪の言葉に月夜叉は呟いたきり押し黙る。

 その姿を不安に思ったのだろう。雪は少々声色を小さくして呟いた。

「あたし、何か変なこと言ったかな?」

「否、そうではない」

 そうではないが、月夜叉に答えられる質問でもなかった。

 好意という感情とは如何様なものなのか?

 月夜叉がこれまで悠久の時間を掛け、己に問い続けてきた疑問でもある。

 人間が人間に好意を持ち、深い関係性を築いていく生物だとは知っている。『好き』という感情は、人間にとって恐らくは非常に大切な事象なのだろう。月夜叉にも長い時間を掛けてそれが分かり始めている。

 されど、月夜叉は己の中の感情が理解出来ない。

 否、感情すら存在しないかも知れない。

 月夜叉は人間ではなく、生物ですらない。

 故に人間の尺度で彼女を測ろうとする自体、無理な行為だ。

「お月さん?」

「逆に問おう。雪には好きな男はいるのか?」

「え……?」

「我には好意という感情が理解出来ぬ。故に雪に指導願いたいな」

「あたしの……好きな人かぁ……」

 雪は不意に遠くを見つめた。何かを思案している。

「雪?」

「あたしだって好きな人はいるよ? ……面と向かっては、言えないけどね」

「左様か。確かに人間は、好意を正直に表現できない生物と聞く。雪もそうか?」

「うん……。まぁ、確かにそうなんだけどね。あたしはどちらかと言えば、自分から告白する方だよ?」

「ならば、何故言わぬ?」

 突然、雪は長椅子から立ち上がった。

 その場で伸びをし、少々悲哀に暮れている眼光で月夜叉を見つめた。

「……哀しませたくないから」

「何故哀しむ? 好意を他人に持たれる事は、人間には嬉しい事であろう?」

「あたしだって好きだって言いたいよ? でも、駄目なの。あたしは多分駄目なの」

「何故?」

「……お月さんと初めて逢ったのは、二ヶ月くらい前だったよね?」

 突然話題を変えられて月夜叉は面喰ったが、彼女の意思を尊重して頷いた。

「左様だ。主がこの長椅子にて、涙しておった」

「あの日ね……。あたし、好きな人に逢おうと思ってたの。告白しようとも思ってた。だけど行けなくなっちゃって、それで泣いてたのよ」

「行けなくなったのか?」

「うん……」

 雪が長椅子の上に立って月を仰いだ。

 月夜叉も同じように月を仰ぐ。

 今宵は半月。自分と同じ名の星。

 月光が。

 月の中で生きる月夜叉。彼女は月の光しか知らない。

 星の光は眩しく、彼女には合わない。太陽の光を見る事は叶わない。

 月夜叉は、夜を生きる者だから。

 雪も月光を浴びている。

 月夜叉は月光の下の雪しか知らない。

 もしも太陽光の下で雪を見たのならば、彼女は一体どの姿を月夜叉に見せるだろう。

 月光が。

 何故雪は月の時間に外を出歩くのだろう。

 月夜叉に出逢うためでもあろうが、彼女は夜空の向こうに何かを望んでいるのだ。

 故に雪も月の中で生きている。

「ねえ、お月さん……」

 月光の下の雪。その横顔は幼いながらに力強い。

 雪。幼い雪。小さな雪。されど強い雪。

 そして月光が。

「あたし、もうすぐ死ぬんだって」

 月光が。

 その名の通り儚い雪に。

 降り注いでいる。

 死ぬ、と雪は。

 もうすぐ死ぬ、と雪は言った。

 月夜叉は何も言えない。何を言う事も出来ない。

 月夜叉に死はない。死がないからこそ、久遠に等しい時を生きている。

 死が何なのか月夜叉は知らない。

 月夜叉は死を体験する事が出来ない。死を恐怖する事すら出来ない。

 彼女は、夜叉だ。生物ではない。ただそこに存在するだけの、夜叉なのだ。

「死……か」

 月夜叉はただ事実を淡々と呟く。

 雪は死ぬ。もうすぐ死ぬ。

 故に月夜叉は、もう雪と邂逅出来ない。

 何度も体験してきた。何万回と久遠の時の中で繰り返してきた。

 人は、死ぬ。

 月夜叉は、死なない。

 それが事実であり、現実であり、真実なのだ。単純な真実なのだ。

「死ぬのか、雪」

 何故に死ぬのか、月夜叉は問わなかった。

「うん。残念だけどね。まだ少ししか生きてないのに、もう死ぬんだって」

「そうか……」

「お月さん、あたしがいないと寂しい?」

「多少な」

 事実だった。

 感情を持たない月夜叉だったが、感傷程度は持ち合わせている。

 雪は少し笑みを浮かべて続ける。

「ねえ、お月さんって死なないんだよね?」

「恐らくは。試した事はないが」

「……羨ましいな」

「羨ましいか。そうか……、そうだな……」

 確かに人間には羨ましいかもしれない。

 人間は、生物は、生まれ、いずれ消えていく。志半ばで斃れる者も少なくあるまい。

 されど、月夜叉は雪に言わねばならない。

「確かに我は絶えない。死という呪縛にも縛られていない。しかし、雪。我は偶さか思うのだ。我はただ海岸越しに生物の旅を傍観しているだけなのではないかと。生物には時間がある。生物は限られた時間の中を生きる。では死のない我は? 死のない我には逆に時間そのものがないのではないだろうかと、偶さか思うのだ」

 雪は複雑に微笑した。雪のように、儚い微笑だった。

 そうかも知れないね、と雪は呟いた。

「でも……」

「何だ?」

「やっぱり……、死ぬのは厭だな……」

 それもそうかも知れない。

 月夜叉には分からない。月夜叉は人間ではないから。月夜叉は夜叉だから。

 月光が。

 きっと雪は月光を求めていたのだ。死を目前とし月光を無性に求めてしまったのだ。

 月光は人に死を与えるものだから。月光は人の死を司るものなのだから。

 だからこそ、月夜叉を視認する事が可能だったのだろう。

 月夜叉も、死を司るものだから。

 己に死が存在しないため、他人に死を与える夜叉だから。

 月光が。

 雪と月夜叉を包み込んでいる。


 その日以来、月夜叉は雪に逢っていない。

 雪は消失したのだ。この世界から、欠片一つ残さず。

 月夜叉が雪を喰らったためだ。

 月夜叉は、夜叉だ。人を喰らう鬼だ。

 あの日、雪が月夜叉の食糧となる事を望んだ。

 雪も知っていた。夜叉は人を喰らい、人と共に存在しなければならないものだと。

 夜叉は餓えている。人を欲している。それは生まれ付いての衝動。それが夜叉だ。捕食せずとも死に至るわけではないが、長期間人を喰らわなければ、夜叉は無意識的に人を襲ってしまう猛獣と化す。故に夜叉は人を喰らわなくてはならない。

 人を喰らい、存在し続ける事を義務付けられた存在、月夜叉。

 雪も、気付いていた。

 人を喰らう鬼が自分のような者を望んでいる事を。

 故に雪は月夜叉の食糧となる事を望んだのだ。

 雪を喰らわねば、月夜叉はいつか獰猛な野獣と化してしまう。

 雪はそれを見たくはなかったに、違いない。

 短い時間とはいえ、邂逅し、友として生きてきたのだから。

 すぐ消えてしまう命であるならば、いっそ友人の為に使ってしまおうと。

 ……死ぬのは、厭だな。

 雪はそう言っていた。

 だのに何故自分に命を捧げたのか、月夜叉には理解できない。

 月夜叉は人ではない。感情など持ち合わせていない。

「……雪」

 月夜叉は、夜叉だ。人を喰らって生きる。斯様な存在だ。

 されど、稀には自分の糧となった幼子に、思いを馳せてみるのもいいだろう。

 時間は悠久だ。

 恐らくは月夜叉は無限に考え続ける。夜を往き、自分の糧となる人々の事を。

 彼女は夜を往く。月光の中で生きる。

 彼女は月夜叉。

 月光の下の夜叉だ。



・昴



 少女が夜叉と邂逅したのは、死を望んでいたためだろう。

 夜叉は何人もの人間と邂逅し、別離してきた。

 少女は幾つもの裏切りに失望し、死を望んでいた。

 彼女らが邂逅するのは必然。

 必然であり、運命であり、矮小な出来事だった。


 森下昴は月の下を放浪していた。

 昴は死を望んでいる。

 月光に魅せられている。

 蒼白く、蒼白な月光に惹かれ、昴は月の下で生きる。

 昴が死に魅せられたのは、人間である事にすら耐えられなくなったためだ。自然を破壊し、動植物を絶滅させ、同属を裏切り、殺し合い、斯様な生命体であることに、耐え切れなくなっていたためだ。

 人間にどれだけの価値がある?

 地上で最大に醜く、醜悪な生物。それが人間だ。

 人間など滅んでしまえばいい。人間である自分など消えてしまえばいい。

 思っていたから、きっと死にたかった。

 昴が一体の夜叉と邂逅したのは、ほんの数日前の事だ。

 天女の如き容姿ながら、自らを夜叉と呼ぶ者。昴は彼女と邂逅してしまった。

 名を月夜叉。月の下を往く夜叉という。

 昴は人間ではなく、知的生命体として存在している月夜叉に興味を惹かれた。人間という醜い生物を超越した、超生命体(月夜叉が仮に生物であったとして)。昴はその月夜叉にひどく惹きつけられてしまっていた。

「月夜叉」

 月光の下のある巨大な建造物の屋上で、昴は月夜叉に漫然と声を掛けた。

「何用だ?」

 ひどく澄んだ声、透き通る天使の如き声色で月夜叉は応じる。天女の如き存在と自らが近い位置にいる現実に気分を良くし、昴は唇を微笑に歪めながら続けた。

「君は何のために存在している?」

「その質問の意図を訊きたい」

「夜叉としてこの世界に存在する以上、君にはやらねばならない事があるはずだ。生命体として存在しているのなら、確固とした存在理由を所有しているべきだろう?」

「我は生命体ではないぞ、昴。ただの夜叉だ」

 月夜叉の言葉に微苦笑し、昴は肩をすくめる。

「分かっていないね、月夜叉。君は人間を超越したものなんだ。人間を超越して存在している以上、生命体にあらじといえども何かを成さねばならないんだ」

「……相も変わらず度し難い思考を所有しておるな、昴」

「そうかい?」

 言った昴は屋上の柵に寄り掛かるようにして、月を見上げた。

 月は蒼白く灯っている。

 自分は蒼白く光る月に叫ぶ哀れな犬なのだ。不意に昴は思った。

 自分は自分に存在理由がない事を分かっている。人間自体、存在していてはいけない事を知っている。周囲の享楽的な生命体とは違う。真に世界の未来を案じているのは、自分なのだ。故にどうも自分は死なねばならない。

 昴が初めて手首を切ったのは、中学一年生の頃だ。

 虐めとか、虚無感とか、斯様な下らない動機ではない。人間が地球上に存在している事を、人間である自分が地球上に存在している事を、ただただ哀しんだからなのだ。必要のない生命体は淘汰されねばならない。それが分かっていたからだ。

 以来、五年の間に三十回以上手首を切った。

 自分の血と共に、人類の汚濁が流されればいいと思っていた。斯様な自分だから月夜叉と邂逅できたのだと、昴は信じている。人間の罪悪を理解している自分だからこそ、月夜叉という存在を認められたのだと。それだけで自分が犠牲になった甲斐がある。

「昴。逆に訊いてよいか?」

 月夜叉は悠然とその場に存在し、超然と昴に訊ねていた。

 微苦笑して髪をかき上げ、昴は応じる。

「どうしたの?」

「昴は何故ゆえに存在している? 何の為に存在しているのか?」

「私? 私はね……、死ぬために存在している。死こそが浄化なんだ」

「死ぬためにか?」

「そう。死は罪悪を浄化してくれる。だから、私は人間を死で浄化させたい」

 自分の答えに満足して、昴は頷く。

 そうだ。自分は浄化を望んでいる。

 死によって、全ての罪悪を消失させてしまいたいのだ。

 されど、月夜叉は昴の予想もしていなかった言葉を返した。

「それならば、何故生きておる?」

「……え?」

「死ぬために存在しているのならば、今すぐ死ねばよいだろう?」

「死のうとした。何度もリストカットしてね」

「……リストカット? 何だ、それは?」

「手首を切る事よ。手首を切る人の事をリストカッターと呼ぶんだ」

「手首切り……か。左様ならば昴も手首切りなのだな」

 月夜叉に言い換えられてしまうと、昴は何故か途轍もなく厭な気分に陥った。手首切りなど間抜けな言葉に言い換えられると、己の行為がひどく矮小で卑小な出来事に思えてしまう。己の行為は遥かに偉大なる事象なのだから。

「その呼称はやめてもらいたい。私のしている事は、もっと違う事なんだから」

 されども、月夜叉は言う。まるでまさしく彼女こそ夜叉だと思わされる一言を言う。

「呼称が何であろうと何も変わらぬ。単に耳に良いか、悪いか、それのみだ。とどのつまり、昴のしている行為は手首切りに違いなかろう?」

 月夜叉の淡々とした言葉。

 瞬間、昴は月夜叉がやはり夜叉なのだと思い知らされた。

 感情もなく事実の渦の中にのみ存在し、感情がない故に最も真実に近い存在なのだ。

 昴はそれを認めようとはしなかった。認めたくはなかった。

 黙りこんでいる昴を意に介さず、月夜叉は続けた。

「加えて言わせて貰えるならば、真に死にたいのであれば手首切りなどより切腹の方が良い。若しくは斬首だ。斬首ならば確実だ。頸を刎ねられた生物は例外なく、死ぬ」

 昴は髪を手に纏わり付かせるようにしてから、顔に手を当てていた。

 何だ。何なんだ、こいつは。感情も同情もなく、残酷な真実のみを突きつけてくる。

 他者の存在など意に介さず、自らの思う事のみを真実だと思っている。

 思いながら昴は月光を浴びる。

 月光は全ての生物に平等に降り注ぐ。

 例外なく、淡々と、柔らかく、優しく、そして残酷に。

 月光が。

 月光が月夜叉の肌に当たって、彼女を蒼白な化物のように見せている。

 瞬間、昴は説明し難き動悸に襲われた。

 眼前の夜叉が、醜悪な怪物にしか見えない。

 昴は己の左腕に巻いてある包帯を解き、月夜叉の眼前に差し出した。

 痙攣のように小刻みに震えつつ、昴は慟哭した。

 その瞬間の昴は先刻彼女が考えていたように、蒼白く光る月に叫ぶ哀れな犬だった。

「私は何度も手首を切ってきた! 世界を終わらせるために! 世界の罪の浄化のために! 罪深き人類の浄化のために! こんな事が月夜叉! 君に出来るか、出来るのか! 月夜叉ッ!」

 見事な理屈だった。昴自身、自分でよく出来たと褒めてやりたいくらいだった。

 だのに月夜叉は惚けた顔で返すのだ。無論、何の感動もないままに。

「手首切りなど、我には出来ぬ。否、手首切りなどに何らかの意味を見つけることが出来ぬ。結局、手首を切り、何がしたいのだ、昴?」

「聞いてなかったの? 私は薄汚れた人間の世界なんて真っ平なんだよ!」

 そうだ。その通りだ。と昴は思った。

 人間など滅亡してしまえばいい。皆、死の浄化に至ればいい。

 されども何故人間を超越した月夜叉にそれが分からないのか、その理不尽だけが昴を苛立たせていた。人類の真の姿を知っている自分。まさしく人類を超越したといえる。ならば何故、同じく人類を超越している月夜叉にそれが分からないのか。

 昴はやはり認めたくないのだ。月夜叉には感情など微塵も存在していないと。月夜叉には感情がない。夜叉故に感情などない。昴の苛立ちも理解不能なものだろう。故にどれだけ昴が月夜叉を説得しようと、理解する事など不可能なのだと。

「昴。人間はそれほどまでに薄汚れているのか?」

 月夜叉は問う。

「そうだ。自然を破壊し、動物を虐殺し、地球を破壊している!」

 昴は叫ぶ。

「斯様なことが薄汚いのか? 生命体は生存の為に全事象を利用するものであろう?」

 月夜叉は罪の意識もなく訊ねる。彼女の中にあるのは、淡々とした事実のみだ。

「じゃあ人間とは何なんだッ! 同族で殺し合う人間に存在価値などあるのかッ?」

 昴は絶叫する。自分は幾度もこの理論で周囲の愚鈍共を説き伏せてきた。正しいのは自分なのだ。死を望んでいる自分だけが正しく、周囲の愚鈍共はそれに気付かない醜悪な生命体なのだ。彼女は思って絶叫する。

「ならば死ねばよいだろう」

 月夜叉は昴が初めて見る表情で、冷徹に呟いた。

 否、実際には月夜叉の表情は微塵も変わっていないのだが、昴の心情が月夜叉を冷徹な存在に見せていた。月夜叉には感情がない故に、人間の感情を丸ごと呑み込む。人間の感情の持ち様によって、月夜叉は如何様な姿にでも変貌するのだ。

 当然、それは月夜叉の特殊な能力ではない。月夜叉は真白な赤子の如き存在であり、感情を他者に伝える事など決してしない。故に人間は月夜叉に自分の姿を投影する。姿見の如く、月夜叉は人間の感情をそのままに写すのだ。昂ぶる者が見れば月夜叉は昂ぶっており、優しき者が見れば月夜叉は優しく見える。

 それだけの事なのだ。

 昴も分かっている。痛いほど分かっている。認めたくないだけだ。

「昴。真に死を望むとあれば、何時如何様にでも死ねたはずだ」

「何が言いたい……?」

「昴は真に死を望んでいるのか?」

「当然だ」

「生きる価値もない、死にたいと昴に限らず人間は言うが、実際に死ぬ者は極少だ。我は過去より思考しているのだが、ならば何故死なぬ? 死にたいのであれば、何時如何様にでも死ねばよいだろう?」

 昴ははっとしたように目を剥いた。

 死を望みながら、未だ存在している矛盾。

 人間の知人はそれを知っていながら、敢えて昴には問わなかった。

 それは恐らく昴への思いやりだった。哀れなる昴を傷つけないための。

 されど、月夜叉は異なる。

 月夜叉に同情を求める行為自体がそもそもの誤りで、非人間に人間の理論を通そうとしたところでそれは完全無欠に無意味なものなのだ。幼稚な理論武装は月夜叉に意味を成さない。紙細工のように稚拙な理屈など、渺茫たる事実の渦の中に生きる月夜叉には、興味を示す価値もないものなのだ。

 昴は反論できない儘にその場に蹲った。

 自分は何をしている?

 死を望み、浄化を望んでいるというのに、何故自分は死ねない?

 全てが混沌としていた。自らの心情すら理解出来はしなかった。

 月光が。

 今宵は三日月。

 三日月から降り注ぐ月光は残酷で、昴は息をする事すら苦しいほどだった。

 唐突に月夜叉は言った。

「昴。真に死にたいのであれば手伝おう。生きる価値もないというのであれば」

 月夜叉は何処までも事実の中にあり、昴にとって理論武装されない事実は残酷なものに過ぎなかった。何もかもが偽りと思いたかった。されど残酷な事実こそが彼女の求めた真実でもあり、偽りとして考える行為は許される現実ではなかった。

 最期に一つだけ、昴は呟いた。

「必要ない。私は自分で死ぬ」

 柵から身を乗り出す。

 月光が。

 自分を誘っているのか、妖しく照り輝いている。

 死を望んでいる自分。

 死こそ真に真実であり、行わねばならない真実だった。

 漸く死の浄化に至る事が出来る。

 その思いは昴を非常に嬉しくさせた。

 されども、何故か空に踏み出そうとする脚は震えて止まらないのだ。

 後方では。

 何の感情もなく、月夜叉が彼女を見つめていた。



・暁



 空には相も変わらず月が浮かび、星が照らしていた。

 星は小さく照る。

 月は猟奇的な茜色。茜色に輝く、猟奇的な月だ。

 草加暁。

 彼は何時からか夜空の下を歩く行為を日常としていた。

「好き」でも、「愛している」でも、「貴方と一緒にいたい」でも、彼に斯様な想いを与えてくれる者が世界に存在しないと確信する出来事があって以来、彼は夜空の下、月光を浴びて生きていく事を選択していた。

 単なる若い感傷だと思って貰えれば相違ない。

 暁は少年の時分、己の存在が人よりも劣っている事に気付いた。

 自分には何もない。生まれ付いての才能など微塵も身につけてはいない。故に自分を愛してくれる者が存在などするはずもない。ただ存在しているのみで、生きていようが死んでいようが誰にも関係がない。斯様な存在だと、自分の身の程を自覚していた。

 故に暁は夜を往く。

 夜は暁を包み込んでくれる。何もない暁を消失させてくれる。

 故に暁は夜を歩く。陽の当たる場所よりも、月光の下を選択したのだ。


 暁が自分の如く夜を往くものと邂逅したのは七年前。

 自分の力で成長したと断言して憚らない反抗の時分に、暁は夜を往くものと邂逅した。

 月夜叉。

 月の下を往く夜叉と彼女は名乗った。

 その時分、暁は旅という名の反抗を実行していて、偶さか彼女と巡り合った。

 彼女と出逢えた理由を、暁は深くは考えなかった。

 天女のような夜叉。美しき魑魅魍魎。魍魎跋扈する非人間。

 暁は未だ十三の少年ではあったが、自らが取るに足らない存在でしかない事を深く理解しており、むしろ人よりも幾分にも劣った存在である事すらも自覚していた。故に、故にこそ、偶さか出逢えた月夜叉という非人間を離したくはなかったのだ。二度とは来ない街だと思うことで、気が大きくなっていたのもあったかもしれない。

「月夜叉」

 未だ声変わりもしていない澄んだ声で、しばしば暁は彼女に問い掛けていたものだ。

「……どうした、暁?」

 人喰いの獣だというのに、月夜叉は常時穏やかに応じてくれていた。

 彼女は月の下でしか姿を現さなかった。

 月光の黄昏時。

 月夜叉と暁は邂逅していたのだ。

 月光が。

 少年と夜叉を包んでいた。

 少年は何処までも少年でしかなく、夜叉は何処までも夜叉だった。

「ねえ、月夜叉。誰かを好きになった事ってあるか?」

 少年は常時斯様な事を思考し続けているものだ。決まり切った約束事だ。

 分かっている。月夜叉には分かり切っているのだろう。

 故に月夜叉は苦笑する。否、苦笑するという表現には語弊があるか。歳を経て、大人への道を歩んでしまった今の暁には分かる。暁は人間の論理を月夜叉に当て嵌めていた。何分、少年の時分だ。無理もない。

 されど、今の暁には分かってしまう。月夜叉は苦笑などしない。感情を動かす事などない。自分がそうあって欲しいと思っているだけに過ぎず、無表情な月夜叉に期待してしまっていたのだと。

 暁が思うに過去の暁は他人の表情を恐れていた。他人の表情ばかり気に掛けていた。

 自らの劣等性を他人に感じ取られたくはなかった。自らの才能が皆無である事実を他人に知られたくはなかった。例え知られたとしても、他人がその事で自らを軽蔑する表情だけはどうしても見たくはなかった。それを見たくはなかった。

 故に無表情な月夜叉に期待を掛けていたのだ。

「好き……か。斯様な感情、我には理解出来ぬ」

 月夜叉がそう答えるのも、恐らく暁にも承知だった。

 承知の上で、何度も月夜叉に問い掛けていたのだ。

「俺は……、月夜叉の事が好きだよ」

 周囲の同級生や、家族にすら言った事がない言葉。

『好きだ』という言葉。

 本気でそう感じていたのか否かは、現在の暁にも分かってはいない。

 一つ言えるのは暁が月夜叉だけを信頼しており、月夜叉を生きていく最後の砦の如きものとして考えていたという事だ。斯様な意味では、確かに暁は月夜叉を好きであったし、愛してもいたのだろう。

 月夜叉はそれを分かっていたのだろうか。

 無表情に、ただ無表情に、月夜叉は淡々と呟く。何もかもに無感動に。

「好き……? 我と交尾したいのか、暁?」

 月夜叉の言葉に暁は確かに微笑していた。暁には分かっていたのだ。自分が月夜叉に好きだと言えば月夜叉はそう言うだろうと。そして暁を拒む事は決してないだろうと。それは醜悪な打算に満ちた愚かな行為だった。

「そうだよ、月夜叉……」

 かくも暁は計算高く、思春期の少年であり過ぎた。

 月光が。

 月光が降り注ぐ中、暁は月夜叉と共にあった。

 失ったものを取り戻すように、暁は月夜叉を幾度も幾度も求め続けていた。

 無論、何の意味もない行為。

 されどその時分の暁は、そのようにしか生きられなかった。

 それが少年であるという事だ。


 それから七年。

 旅先での月夜叉との邂逅を支えに、暁は七年間を生き続けてきた。

 月光が降り注ぐたび、暁は月夜叉のことを思い出し、過去に思いを馳せていた。

 もう一度月夜叉に逢おう、と決心したのは、三年来の恋人と別れてからだった。

「貴方の見ているものは私じゃない」

 恋人は言って暁の元から去っていった。

 故に暁は決心した。月夜叉と再会しようと。

 理解した。自分の求めているものは月夜叉だったのだと。

 漸くに三年前に出来た恋人。暁は確実に彼女の事を愛しており、彼女も自分を愛してくれていたはずだと暁は思っている。されど、暁は彼女に本気になれなかった。彼女を愛してはいた。だのに、それは求めていたものではないと思えてしまえる。愛されるはずがない自分に恋人が出来、別離した現在になって暁は分かったような気がしていた。

 自分は月夜叉をこそ求めていたのだと。

 無表情で自分のことを受け止めてくれた月夜叉をこそ、求めているのだと。

 月光が。

 茜色の月光が降り注ぐ。

 暁は茜色の時分、月夜叉を捜し歩く。

 親を捜し求める迷子の如く、暁は月夜叉を求めていた。


 偶然と言えるのか、或いは必然と呼ぶべきなのか。

 七年前の旅先で、七年前の姿の儘の月夜叉と暁は再会していた。

 彼女は夢なのか、幻なのか、非人間なのか、とにかく暁の目の前に存在していた。

「月夜叉、俺は……」

 久々に邂逅した月夜叉は暁のことなど何も知らない他人だという風に、冷たく見下ろしていた。仕方がなかった。七年ぶりの再会なのだ。暁はそう思おうとしていた。

「……誰だ?」

「俺だよ、草加。草加暁……」

「暁……?」

 暫し月夜叉が思案するように押し黙った。

 祈るような気分で、暁は月夜叉の言葉を待っていた。

「……思い出した。久しいな、あの暁か」

「そうだよ、あの暁だ。俺は月夜叉に逢いたくなって、それで……」

 久しく逢っていなかったというのに、月夜叉は無表情を崩さなかった。再会の涙など存在するはずもない。されど、それが月夜叉なのだった。暁の求めた月夜叉だ。暁は過去に月夜叉がそうしてくれたように、月夜叉の胸に飛び込んでいた。自分の求めていたものがそこにあると思うだけで、自分を律する事が出来なかった。

「……何をしている」

 月夜叉が呟く。感情を持たない彼女にこれだけの行為では伝わるまい。

 暁は腕を開いて月夜叉を胸に抱き、小さく言った。

「俺、分かったんだよ。俺は月夜叉が本気で好きだ。月夜叉こそが、俺に必要なんだ」

 恥もない愛の告白だが、その瞬間の暁は本気であり、最も正しい行為だと思えていた。

 この行為こそが、真実なのだと。

 されども、月夜叉は無表情を崩さない儘に応じた。

「我は人間ではないぞ、暁」

「ああ、分かっている。それでも俺は月夜叉が……」

「否、暁。我は人間ではなく、生命体でもない。人間に似た姿をしているだけだ」

「月夜叉。だから俺は……」

「我は決して人間ではない。分かるか、暁? 我は人間ではないのだ」

「人間じゃないからって、俺は気に……」

 不意に、口篭もる。

 言っていて、気が付いた。

 月夜叉は人間ではない。断じて人間ではない。

 当然、人間でない事を暁は気にしない。

 故に、気付いた。

 人間でないものに惹かれる事。それは人間を拒絶することだ。

 人間を拒絶する行為自体は、人間が人間として生まれてきた以上、近親憎悪の発展として存在するのは社会の悪癖だ。社会が存在する以上、人間を拒絶するという感情は間違いなく存在している。

 されど。

 人間を拒絶しながらも、人間に似たものに惹かれるのはどういう行為なのか。例えば人間嫌いを公言しながらも、劇作や劇画に執着する者がいる。それは支離滅裂だ。つまり人間を否定し、非人間に期待する行為は劇作嗜好の倒錯に過ぎないのだ。

 暁の行為は恋や愛ではない。劇作に倒錯するようなものだ。

「月夜叉、俺は……」

 項垂れて、搾り出した暁の声は掠れていた。

 月夜叉は分かっている。感情がなく、死のないものだから分かっているのだ。

 暁の求めているものを。故に気紛れで暁の要求に応えてもくれたのだ。

 暁は愛してくれるものを求めていた。誰かに愛して貰いたかった。

 その欲求は何時しか単なる願望へと変化し、何者かを愛する事を忘れさせた。

 暁が真に求めていたものは、愛してくれる者や、愛せる者ではない。他の誰でも良くて誰でもない女人こそが欲しかったのだ。無表情でただ自分の想いを受け止めてくれる、都合のいい女人。それだけの女人が。

 恋人に本気になれない理由も、恐らくはそれだった。

 斯様に都合のいい人間など存在しているはずもない。一度月夜叉で味を占めてしまった暁は、それをそうと認識が出来ていなかった。斯様に都合のいい人間が存在するのは、劇作の中か月夜叉のような非人間だけだという事を。

 全てを見抜いている表情で、月夜叉が穏やかに言った。

「それでも我を求めるか、暁?」

 最終選択だった。

 暁は月夜叉を見つめ、ただ自分の愚かさを呪った。


 月光が。

 茜色の月光が、暁の身体に降り注いでいる。

 暁は生まれながらにして、才能や優れた外見を持っていないが故に不幸だった。それ以上に才能と外見のみを全てとし、諦めという救いに頼らざるを得なくなった瞬間から、彼は不幸以上の哀れな存在と化した。求めるものは自分に都合のいいだけの存在。自分を求めてくれるものも信用出来ない。彼は何時しか斯様な人間に変貌していた。

 斯様な人間が生きているとは言えない。暁は生きながらに亡者だったのだ、既に。

 それに気付いた暁は自らを棄て、月夜叉の贄となる事を選択していた。

 茜色の月光を浴びつつ、自分が死に至るまで残りどの程度の時間が必要なのだろうと、何故か暁は斯様な無意味な思考を続けていた。

 斯様にして茜色の中、暁は自らの身体を紅に染めた。



・泉



 世界は個々の生命体が想像したように変化する。

 悲観的な視点から見れば世界は悲壮に変貌し、逆もまた然りだ。

 故に人々は己の見ているものこそが、真実だと思い始める。

 我思う故に我あり。

 世界が己の見ている妄想だとしても、妄想を妄想として認識できる己だけは存在している。斯様な思想だ。

 故に己が死ぬと世界は消滅する。

 己の世界の登場人物たちは消失していく。

 故に世界は己の妄想でしかないのだと、斯様な思いに陥る人間は数多い。

 されど、残念ながらと言うべきか、彼らの妄想したとおりに世界は形作られていない。

 いないのだ。


 月が顕れぬ夜。

 顕在するはずの月を視認出来ない夜。

 少女は実に呆気なく、死に至ろうとしていた。

 酒井泉。

 彼女は人里離れた遠い雪の空の下、強い心臓の動悸に襲われた。

 泉は生来にして頑強な身体を有しているとは言えない身体であり、いつ果てても何の不可思議な点もない少女だった。彼女が生きている事自体が奇跡の如き現象であり、故に彼女が動悸に倒れる事は日常茶飯事であった。

 されど、今回ばかりは勝手が異なるようだった。

 通常であれば数分経れば幾分か動悸は治まり、再び生の刻を刻んでいけていたが、やはり今回の動悸は通常のものではないようだ。数分経ても泉の身体には活力が戻らない。どころか、余計に活力が吸い取られる感覚。

 とうとう来たんだな、と何故か泉は感慨深く考えていた。

 とうとう来たのだ。来てしまったのだ。

 物心付いてから訪れる事が分かっていた日。

 生まれ落ちてから二十余年、分かり続けていた己の果てる日。

 泉は遂にその日に至ってしまったのだろう。

 今宵は新月。月の無い夜。

 そして、珍しく雪も無い夜。

 今宵、泉は、果てる。

 泉には不思議と恐怖という感情は湧き上がってこなかった。悲嘆もなかった。

 今日自分は死ぬんだな、とそれだけが妙に自覚できており、ひどく落ち着いていた。

「死ぬんだなぁ、私……」

 力の入らない唇で小さく呟く。果ててしまう事に未練が無いわけではないが、されど泉は平静としていた。自分でもおかしいと思うほどだったが、幸福感すら湧き上がってくるのだ。現世からの現実逃避ではない。自殺志願者の歪曲した歓びでもない。ただ単純な、純粋なまでの歓喜。死が嬉しいのではない。当然ながら死が恐ろしくて堪らない。

 けれども、泉は幸福なのだ。

 果てる事は不幸ではない。決して不幸ではない。

 死というものは忌み嫌われ、至る事を恐怖とされるものである。それは当然だ。

 されど、人間は死を拒絶する事も出来ない。

 死があるからこそ、人間は懸命に生きるものだと泉は考えている。間近に死を控えていたからこそ泉は懸命に生きてきた。長く生きていたいと斯様に思うことも多々あったが、それ以上に懸命に生きることを選択していた。

 成人は出来ないだろうと医者からは言われていた。

 泣いた日もあった。泣き伏せて己が運命を嘆いた日など、何日あったことか。

 未来に絶望して、世の全てを恨んでみた事もあったが、それは無意味だった。

 故に理解したのだ。

 元来、頭を使うのが苦手だった泉に、取り立てて大層な答えが出せたわけではない。

 短い人生ならば人の何倍も濃い人生を送ってやろうと、ただそれだけの単純な答えだ。

 されど絶望して何もしないよりは、何倍も上等な生き方だと泉は思った。

 己の責任を全て他人に押し付ける連中、努力しない事を正当化する連中、話にならない甘い連中。斯様な連中よりも愚鈍でもいい。楽な生き方を選択できない莫迦な人間で構わない。ただ一生懸命に生きて行こうと思ったのだ。

 酷い失敗に泣き出したくなる日々を過ごした。

 努力が至らず、挫折と落胆に陥った日々も数多かった。

 されど、彼女はその生き方を通したのだ。愚鈍と嘲笑われようとも。

 故に現在、死の淵に斃れ伏して彼女が思う事は断じて悲哀ではなかった。

「私、頑張れたよね……」

 周囲は一面の銀世界。返事を期待して呟いた言葉ではなかった。

 されども、その言葉には何者かが応えたのだった。

「……頑張れたのか、泉?」

 ひどく懐かしい澄んだ声。

 遠い昔、泉の前に現れ、友となった夜叉の声。

 彼女は月夜叉。新月の夜にも顕在する、月の下を往く夜叉だ。


 久方ぶりと言おうとしたが、息が詰まって言葉にはならなかった。

 どうやら終わりへの時間が相当に近づいてきているようだった。

 月夜叉は泉の斯様な様相を見て首を振り、無表情な儘に泉の隣に腰を下ろした。

「久しいな、泉。……変わりないか?」

 変わりないはずないだろうと、泉は痙攣の如く小さくかぶりを振る。

「……左様か」

 感情を有していないくせに残念そうな表情で月夜叉が呟いたように見えたのは、死を間近にしている泉の感傷だろうか。どちらでも構わないなと、泉は倒れ伏したまま思った。

 泉の霞んだ視界ではあっても、十年ぶりに邂逅した月夜叉の姿に変わりは無い。

 彼女は何も変わらない。姿も、表情も、口調も。

 泉と月夜叉が最後に邂逅したのは十年前だ。

 死を恐れ、生に絶望していた際、超然としている月夜叉と彼女は邂逅した。それは単なる偶然だ。必然など世界には存在しないと泉は考えている。偶然を大切にしてこそ、人生を大切に出来ると思える。

 十年前、生に絶望していた泉を救ってくれたのは、月夜叉だった。

 否、月夜叉自体は何もしていない。泉が一人で悩み、一人で解決しただけだ。

 悩むという行為は、既に自らの中で答えが出ているにもかかわらず、己の臆病な躊躇によって引き起こされているだけの現象に過ぎない。悩みが生じた瞬間、人間は必ず悩みを解決する手段も分かっているものだ。要は手段から目を逸らすか否かだ。それにより悩みが解消されるかどうか決定付けられる。

 月夜叉は、感情がない故に、人間の精神を姿見のように投影させる。月夜叉と語り合うという行為は、つまり自問自答と同義だ。泉はそれに気付いたからこそ、生への絶望を棄て去る事が出来たのだ。

 生への絶望を棄て去った翌日、月夜叉は泉の眼前から姿を消した。

 一瞬の幻影のような月夜叉との日々だった。

 月光が。

 今宵は照ってはいない。

「しかし……、今宵のような雪の日に何をしておる、泉?」

 買い物に行こうとしたんだよ、と文句を言おうとしたが泉は言葉を発せられなかった。仕方なくどうにか動く手で胸を押さえる仕種をする。

 月夜叉は訝しげな表情で小さく呟く。

「胸が痛いのか、泉? ……左様か。来てしまったのだな……」

 十年ぶりの月夜叉は意外なほどに饒舌だ。

 泉は胸を押さえながら何故か微笑した。

 何故今宵、月夜叉が自分の眼前に現れたのか、理由は分からない。夜叉としての特性が死を目前にした泉の気配を察知したのかもしれなければ、偶さか散歩がてらに放浪している月夜叉が十年ぶりに泉の町に来訪しただけかもしれない。

 理由はどうでもよかった。

 孤独の死は覚悟していたとはいえ、幾分か寂しいものだ。死の寸前に古い友人と邂逅できるということは、きっと幸福なのだろう。

 故に泉は月夜叉が現れる理由にこだわりはしない。

 月光が。

 降り注がない。今宵は新月。月の見えぬ夜なのだから。

 その為だろうか、十年ぶりという要因もあるかもしれないが、泉には今宵の雪夜叉がひどく穏やかで優しい天女に見えた。実際には人を喰らう夜叉だとは分かっているが、それを念頭に置いたとしても彼女は夜叉には見えなかった。

「……死ぬのか、泉?」

 ふと、穏やかに、静かに、月夜叉は呟いた。

 霞む瞳で見た月夜叉の横顔は、無表情ながら、何処と無く憂いを帯びている。

 月夜叉の質問に頷きつつ、霧がかかったような泉の脳裏に、ひどく突飛な考えが浮かんでいた。自分でも驚くほどに、意外な考えであった。

 もしかしたら、月夜叉は他の誰よりも、生物が死ぬという現実を哀しんでいるのではないか。感情を持たないが故に哀しみの涙は見せないが、それでも胸の深い内、胸の奥の遠いところでは、死を哀しんでいるのではないか。彼女は死なない。夜叉ゆえに死が訪れない。故に死を最も悼んでいるのではないか。非人間の非生命体ながら、人間を喰らわねば存在できぬ理不尽を、心の奥底では悼んでいるのではないか。斯様な感情を表現する術を持たないだけなのではないか。

 それは死を目前として思考する、泉の世迷いごとのような考えだった。

 されども、その仮定はあながち間違いだとも思えなかった。勘違いかもしれないが、傲慢かもしれないが、自分の考えが正しいものだと泉は思いたかった。

 されど、仮定が正しいとしたら……。

 今宵、恐らく、泉は果てる。

 泉は死を自覚して生きてきたのだし、死自体を拒絶するつもりは毛頭ない。

 そして、泉は、幸せだった。

 外見に優れてなどいない。病弱ゆえに高い能力など有していない。虐めや差別の如き扱いも受けてきた。寿命も幾許かしか遺されていなかった。人間の『出来損ない』の如き自分がひどく恨めしかった。周囲の世間全てが歪んで見えたことすらあった。

 されど、泉は、確かに、幸せだったのだ。

 他人を拒絶して生きていた時分にも、泉から離れなかった友人がいた。月夜叉という不可思議な友人もいた。妹も病弱な姉という迷惑な自分を受け止めてくれた。泉には数少ないながらも皆がいた。故に彼女は幸福だったのだ。

 それ故に死を目前にして泉が思うのは己の事ではなく、周囲の知人の事だった。自分が果ててしまうのは仕方が無いとしても、遺される家族や知人はどのように変化してしまうのか、それのみが泉の不安だった。

 家族は、己の死を悼むのだろうか。弱い妹は、自分の死から立ち直れるだろうか。悩みを抱えていた友人は、一人で悩みを解決できるだろうか。自分には勿体無いほどの恋人は、己を忘れ、彼自身の幸せを考えて生きていけるだろうか。

 死んだ者は、遺された者には何もしてやる事が出来ない。

 故にそれのみが、泉の不安なのだった。

 無論、生命体の死を悼んでいるかもしれない月夜叉を遺す事も含めて、だ。

 気が付けば泉の唇は不思議なほど楽に開いていた。感覚も殆ど感じないが、震える声で月夜叉に訊ねていた。死の瞬間がもう間近にまで迫っているのかもしれない。

「ねえ、お月……。私が死んだら、皆はどう思うかな? 哀しむのかな? 空は一人でも大丈夫かな……?」

 空というのは妹だ。弱かった妹。弱いながらも、泉を支えてくれた妹だ。

 困ったような表情で、月夜叉は頭を振る。

「泉……。幾年か前にも言ったと思うが、お月という呼称は……」

「駄目……。アンタはお月……。いい名前でしょ……?」

 痙攣する唇で微笑して泉が呟くと、月夜叉は肩を竦めた。

 新月のためなのか、今宵の月夜叉は妙に感傷的に見える。

 月光の下ではない月夜叉を初めて見たせいでもあるのかもしれない。

「まあ、よいか。ところで、どうしたのだ、泉? 泉が死ぬと家族や知人がどうなるのか気になっておるのか?」

「まぁ……ね」

 すると月夜叉は天女の羽衣のような着物を翻し、泉の身体をかき抱いた。

「お月……?」

 動揺して泉が呟くと、ひどく呆気なく月夜叉は答えた。

「何も……変わらぬ。変わらぬぞ、泉」

「変わらない……か」

「人が死のうと、生命体が消えようと、常世は何も変化せぬ。変化せぬぞ、泉。我は久遠にも似た時間を過ごし続けて知っておる。人が死に、人が哀しんだとしても、人はほぼ何も変わらぬのだ。いずれ人は親しき人の死を忘れ、生きていく」

「少し……、寂しいな」

 寂しいと言いながらも、泉は悲嘆に暮れているわけではなかった。

 月夜叉も、長き時間に在ったが故に、泉の考えは分かっていたようだ。

「だがな、泉。人はそれで、いいのだ。斯様な存在で、いいのだ。我はそう思う。親しき人の死により悲嘆に暮れるが、されど、いつしか親しき者の死を忘れゆく。それで、よいのだと、我は思う」

「そうだね……」

 世界は決して自分の妄想などではない。

 自分が消えたところで、自分のいない世界は続いていく。仮に人類が滅亡したとしても人類の在らない世界は存在し続ける。何が無くなったとしても、他の何かには何の影響も及ぼさないのだ。自分が在ろうが、在らなかろうが、世界は何の問題も無く続いていくのだ。いずれ泉の知人たちは泉を忘れるだろう。泉の記憶を頭の片隅へと追いやるだろう。何時しか誰の記憶からも泉は消失してしまうことだろう。

 それはとても哀しい事だ。自らの存在が片鱗も残さず消滅してしまうのだから。

 されど同時に嬉しい事でもある。

 死があるからこそ人の生は輝き、無意味な生は意義のある生へと変化していく。

 故に自らの死を遥か長い時間まで誰かの胸に置くのは、きっと良くないのだと泉は思っている。自分が精一杯生きてきたように、妹の空にも生きて欲しいから。自分の死を負担として貰いたくは無いから。

 問題ではない。障害ではない。

 誰が生きる事も、誰が死ぬ事も大した問題ではない。

 それらは単なる自然現象に過ぎない。

 故に……。

「お月……」

 これが最期の言葉になるな、と言いながら泉は思っていた。

 月光が。

 今宵は無い。今宵は人々を包まない。

 されど月は空に在る。新月の夜も、肉眼に移らないだけで、月は空に在る。

「最期に……、お月に逢えてよかったよ……。やっぱり一人で死ぬのは……少し」

 寂しいから、と言葉に出したつもりだったが、言葉にはならなかった。発音すら出来なかった。どうやらここまでらしかった。意識が闇に染められていく。感覚が遠ざかる。死がそこまでやってきている。

 されど月夜叉は頷いたのだった。泉の言葉が分かっていたかのように。

 そして、

 最期に見た、

 月夜叉の顔は、

 泉の気のせいかもしれないが、

 涙を……。


 月夜叉は泉を喰らわず、その場に置いて穏やかに歩き去る。

 十年来の知人が死に至り、人を喰らう己は遺される。

 久遠にも近き年月を月夜叉はずっと斯様にして存在してきた。己は死を齎す者、死を運ぶ者、死を知る者、されど死のない者。故に夜を往く。己の存在の理由も分からぬまま人を喰らいながら存在し続けてきた。

 されど己の理由を月夜叉は分かりかけていた。

 非人間でありながら人間の姿をしている己。

 人間の想いを受けながら、感情を有さず人間を喰らい続ける己。

 己は恐らく……。

 それは仮定に過ぎず、分かったところでどうなるものでもなかった。

 ただひとつ言える事がある。

 それは月光が。今宵はない。今宵は世界に降り注がない。

 されど見えずとも、新月の夜にも月は確かに空に存在している。

 同じように月夜叉は存在し続けるのだ。如何な時も。見えずとも。視認出来ずとも。死のある者たちと共に、死の瞬間を共に過ごすためかの如く。総てのものに平等に。渺茫たる存在として。月夜叉は、斯様にして、存在し続けるのだ。

 故に今宵も、月夜叉は夜を往く。

 夜を往き、死を齎していく。

 されどそれもいつかは終わる。必ず終わる。死のない存在にも必ず終わりは来る。

 いずれは皆死んでしまうのだから……。

 故にその瞬間をこそ、月夜叉は望む。望みながら、在り続ける。

 彼女は月夜叉。

 月、そして死を司る夜叉だ。

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月夜叉 猫柳蝉丸 @necosemimaru

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