第33話 ホット金柑
「おはよう。まだ早かったかしら?」
「あら、橘さん。おはようございます。いえいえ、大丈夫ですよ。お料理の下ごしらえも終えましたし」
午前9時。
雲ひとつない晴天ですが、まだ寒い2月の朝。
橘さんの奥様が食堂にやって来ました。
コンロの上の土鍋は、クツクツとお米を炊く温かい音をさせています。
「これね、良かったらどうぞ。うちで採った金柑だよ」
ビニール袋に、弾けるような鮮やかなオレンジの金柑が沢山入っています。
「まぁ、金柑!ありがとうございます。これ、甘露煮にしましょうか。長く楽しめますし」
「あらあら、金柑なんて料理の仕方に困るかと思って、持ってくるの迷ってたけど。甘露煮も良いわねぇ。あと、ホット金柑なんてのもあるのよ」
橘さんの言葉に、私が大好きだった近所のおばあちゃんが、ホット金柑を作ってくれた事を思い出しました。
「甘露煮の金柑をお湯で割るんでしたよね?懐かしい・・・作ってみましょうか」
「じゃあ私もご馳走になろうかね?後片付けだけしてくるよ。お父さんが散らかしたままま、畑の世話に行っちゃったから」
そう言って、橘さんの奥様は一度家へ戻っていかれました。
「ただいま戻りましたー!はぁ、いっぱい走ったねぇ」
洗って水気を拭いた金柑に、包丁で縦に切り目を入れているところで、葉子さんがぽんすけのお散歩から帰ってきました。
「立春って言うけど、全然暖かくないですよねぇ。走ったお陰で暑くなったけど・・・昨日食べ過ぎた恵方巻も良い具合に消化出来た気がしますー」
葉子さんはぽんすけの足を拭くと、お散歩バッグを棚に戻して、コートを脱ぎました。
ぽんすけは、葉子さんの足元を嬉しそうにくるくる走り回っています。
「昨日2本も恵方巻を食べるんですもの。びっくりしましたよ。でも、ぽんすけもいっぱい葉子さんと走れて楽しかったみたいですね」
「だって、ハルさんの恵方巻が美味しかったんですもん!でも良い天気で、土手を駅まで走って行ったら、とーっても気持ちよかったですよ!」
ニコニコとそう言って手を洗い、私の手元にある金柑を覗き込みました。
「それ、金柑ですか?」
「橘さんの奥様からいただいたんです。また後でお食事に来てくださるみたいですよ」
興味津々の葉子さんは、早速エプロンを着けてキッチンに入りました。
切り目を入れた金柑を、強火で茹で、一度ザルに上げます。
「こうして・・・ほら、種が出たでしょう?全部の種を出すお手伝いをしていただけますか?」
私は、竹串を切り目に入れて種を取り出して見せました。
「了解です!こうしてー・・・お、本当だ。種出ましたねー。って言うか、何で一度茹でたんですか?」
「苦味を抜くためですよ。金柑って少し苦味がありますから」
葉子さんは「あぁ、なるほど!」と言いながら、一つ一つ丁寧に種を取ってくださいました。
二人で黙々と金柑の種をとる姿を、ぽんすけが店先でお座りをして眺めています。
「あとは煮詰まったら完成ですよ」
お鍋に金柑とお砂糖。ひたひたのお水を入れて、煮立たせてから弱火にします。
灰汁を取りながら暫く煮詰めると、甘露煮の完成です。
「楽しみですねぇっ。じゃあ私はお洗濯干してきますね。お散歩行く前に、洗濯機回していったので。ではちょっと行ってきますー」
葉子さんは2階に駆けていきました。
外は真っ青な空と、お日様の光で、一見暖かそうにも見えます。
桜の季節になる前には、桃や梅の花が咲きますね。
3月になるにはまだ少しありますが、木々がピンクに色付く可愛らしい時期です。
村にも梅の木をいくつも植えてありますし、食堂の隣にも、私がここで店を開く前から梅の木が1本あります。
花開くのを想像しては、少し幸せな気持ちに浸りながら、ひとり食堂で過ごしていました。
「ハルさーん!金柑はどんな感じですかー?」
2階から足早に降りてきた葉子さんは、真っ先にそう尋ねました。
「あ、お洗濯ありがとうございました。もう出来てますよ」
消毒した瓶には、汁にとろみのついた金柑が沢山入っています。
「わぁ!綺麗ですね!」
煮詰めて透き通った金柑に見惚れて、まじまじと見ていました。
「橘さんが召し上がる時に、ご一緒させて貰いましょうか」
「はい!楽しみー楽しみーっ」
葉子さんは小躍りしながら、食堂のテーブルを拭いて回りました。
午前11時。
「ハルさん、こんにちは」
「こんにちは、私も来ちゃったわ」
橘さん奥様の後について入ってきたのは、栗原さんの奥様でした。
「いらっしゃいませ。栗原さんも来てくださってありがとうございます」
お二人を席へ案内し、葉子さんにはお茶の用意をしていただきました。
「うちのお父さんも来ようかと思ってたみたいだけど、たまには橘さんと二人で来たかったから」
「おばあさんだけど、女子会ってやつだねぇ」
お二人は笑いながら、椅子に腰を下ろしました。
「そうそう、ハルさん。この小松菜、余ってたもんで、困っててねぇ。今日のお昼の料理にお願いできるかしら」
橘さんが私に、袋いっぱいに入った小松菜を手渡しました。
「それとも、もう何か用意してくれてたかしらね?」
「大丈夫ですよ。お客様のご希望のお料理をするのもメニューの1つですから」
「じゃあこれ、ニンニク炒めにできる?お父さんも好きだから、タッパーに詰めて持って帰りたいし」
橘さんがそう言うと、栗原さんが「うちの分もお願いしようかしら」と仰いました。
「かしこまりました。少しお待ち下さいね」
ニンニクは中の芽を取って、4等分くらいに切ります。
ごま油でニンニクと、少しだけ鷹の爪を入れて炒めます。
ごま油を熱すると、たちまち食欲をそそる良い香りが広がりますね。
ニンニクがきつね色になれば、小松菜をくわえてサッと炒めます。
鮮やかな濃い緑色を損なわないように、サッとです。
塩コショウで味を整えて完成。
ニンニクとごま油の香る、少しピリッとした小松菜のニンニク炒め。
今日はお漬け物ではなく、さっぱりとして風味がたっぷりの叩きごぼう。
お酢と醤油、みりんで優しく味付けして、いりごまを絡めたものです。
それから、橘さんは昆布、栗原さんはおかかのおにぎり。
ふんわり心を込めて握ったおにぎりを、おかずや、温かいお味噌汁と一緒にお盆に乗せます。
「あぁ、良い匂いだねぇ。作ってるときから幸せだったよ」
橘さんは早速、お料理からたつ香りを楽しんでおられます。
「ここのおにぎりとお味噌汁が大好きなのよ」
お二人は「いただきます」と、お味噌汁をひとくち飲んでからおにぎりを召し上がりました。
私は一礼してからキッチンに戻り、丸椅子に腰かけることにしました。
「美味しいねぇ、この小松菜の炒め物。鷹の爪、入れてみるのも良いわ」
橘さんは大変喜んでくださり、栗原さんは叩きごぼうも気に入ってくださりました。
あっという間にお料理を召し上がってくださったお二人は、にこやかな表情で「ごちそうさま、美味しかったわ」と仰いました。
お二人が食後にのんびりと談笑している間、葉子さんは食器の後片付けをしてくださっています。
私は、金柑の甘露煮を小皿に乗せ、その甘露煮をお湯で割った、ホット金柑をお席にお持ちしました。
「あ、今朝の金柑だねぇ。甘露煮、美味しそうに出来てるね」
「あら、美味しそう。温まりそうね」
お二人はホット金柑を飲みながら談笑の続き。
私は葉子さんの分も作って、片付けを終えた彼女と一緒に、キッチンでホット金柑を楽しむ事にしました。
「そうだ、ハルさん!」
一緒にホット金柑でひと息ついていると、葉子さんが思い出したかのように言いました。
「ぽんすけと散歩がてらに駅まで行った時に、前に来た駅員さんの木ノ下 拓海さん。また近い内に来るそうですよ」
「あら、そうなのですね。駅員さんが増えて、お休みが取れるようになったって仰ってましたね」
初めて出会った時、私が差し上げたおかかのおにぎりと、お味噌汁をとても喜んでくださったのを思い出しました。
あの頃は、実家に帰る時間もないと仰っていました。
「それで、ご両親も一緒に来るかもしれないんですって!木ノ下さんの所に遊びに来るらしくて、仕事場を見せる時にここにも来たいって言ってましたよ」
「まぁ、それは楽しみですね。春頃ならこの辺りは景色も綺麗ですし、観光にも良さそうですね」
そんな事を話していると、橘さんが「ここもお客さんが増えたねぇ」と仰いました。
確かにお客様は増えてきました。
ですが、一度に沢山のお客様がいらっしゃる事は滅多にありませんし、若い方が少ないのもあってか、食事風景は静かなものです。
静かで、暖炉や食器、お料理の音が目立ちますが、穏やかで幸せな空気で満たされています。
お客様の楽しげな笑い声が食堂に響き、ぽんすけがその様子を笑ったような表情で眺めています。
そして、私はそんな風景をキッチンの丸椅子に座って楽しむ。
どのお客様も、穏やかで、優しい方たちばかり。
きっと出逢うべくして出逢ったのだと、思わずにはいられません。
木ノ下さんのご両親も、ここを気に入ってくださると良いですね。
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