第13話 休息
9月の終わりごろ。金色の稲穂が波打つ田んぼの畦道には美しい朱色の彼岸花が咲き乱れ、しっとりとした風情を感じさせていました。
昔は、彼岸花が毒をもっていることを利用し、ネズミやモグラ避けの為に田んぼや墓場の周りに植えたと言われています。
別名、曼珠沙華といい、天上の花とも言われるそれの花開期間は約1週間。
そんな幻想的な美しい植物は、今年の見頃はもう終えています。
暇さえあれば、表へ出て彼岸花を楽しみ、今はすっかりススキの季節です。
本日はお休みを頂き、のんびりと愛犬とのお散歩を楽しむことにしましょう。
「明日のお昼には戻りますので。いってきます!」
そう言って、葉子さんは朝から出掛けていきました。
学生の頃の同窓会があるようです。
「よし、じゃあ行きましょうかね」
よく晴れた午後1時。
お弁当を入れた手提げを持って、出発です。
店の前を通る道を、村とは反対に向かって歩きます。
静かな午後。前を向いても後ろを向いても、誰1人居ません。
ぽんすけは、私の足取りに合わせてのんびりと歩いています。
真っ青な空には、白い柔らかそうな雲がふわふわ漂い、右手に広がる水田には一部にオギというススキそっくりの植物が風に揺れています。
もうすぐ枯れてしまうであろう残り少ない彼岸花も、これはこれで雰囲気があるものです。
そんな景色や自然のうつろいを感じつつ、この道を進んだところに丘があるので、そこを目指してみることにしました。
誰ともすれ違うことなく歩いていると、まだ少し離れた所に丘になっている場所が見えてきました。
ぽんすけも気がついたのか、歩くスピードがほんのすこし速くなりました。
「ぽんすけ、お弁当食べましょうか」
丘のちょうど真ん中辺りに立つ大きな木の下に、小さなレジャーシートを敷き、そこに座ってお弁当を出しました。
ぽんすけは柔らかい草の上に座っています。
木陰には葉っぱの間から太陽の光が射し込んで、サッと言う葉擦れの音がとても心地よく、ぽんすけも嬉しそうに見えました。
持ってきたお弁当は至ってシンプル。
自慢の土鍋ごはんのおにぎり。
保温ポットにはお味噌汁が入っています。
鰹と昆布の合わせ出汁で作った、だし巻き玉子。
ごぼうとニンジンのきんぴらと、白菜のぬか漬け。
あ。おにぎりの具は、自家製の梅干しですよ。
私が空に漂う雲を眺めながら、おにぎりを食べ始めると、ぽんすけはのんびりとお昼寝を始めました。
どこまでも遠く広がる空を眺めていると、時々思うことがあります。
こうやって、空を眺めて心が穏やかになる余裕があることが、幸せだなぁと。
若く、仕事や人間関係に悩んでいた頃は、暗い感情が心を支配することもありました。
美しい空を見ているだけで、息苦しくなるような感覚を覚えることもありました。
明日を考えるだけで、未来が見えなくなることがありました。
ですが私はその頃、ある人の言葉で救われました。
『君が今いる場所が全てじゃない。君が常識だと思っている事が、必ずしもそうとは限らない。君は身動きがとれないと思っているかもしれないが、君を縛り付けているのは他の誰でもない、君自身だ』
私はそれまで、世間の誰かが言った言葉を信じ、皆がやっていることが常識で、誰かが決めた『幸せ』が自分にとっても幸せなのだと思い込んでいました。
その思い込みこそが、私を縛り付けているものだと気付いたのです。
沢山の遠回りをしましたが、私は今こうやって穏やかな土地で、あたたかい人達に囲まれて、自然の恩恵にあやかって生きることが出来ました。
「私にとってはこれが幸せなのよね」
ぽつりとそう呟くと、ぽんすけは目を閉じたままピクピクと耳を動かしました。
「ふふっ。聞いてるの?」
ぽんすけの頭を撫でながら、玉子焼きを食べます。
「きっと、都会の人たちからしたら地味でつまらないと思われているかもしれないわね」
それでも、私はひとつひとつの些細なことに幸せを感じられる今の自分がとても好きなのです。
お味噌汁を飲むと、思わず「はぁ」と声が出ました。
優しい甘味のある田舎味噌のお味噌汁は、体が温まるだけでなく、私にとっては懐かしい思い出の味なのです。
大切なおばあちゃんとの想い出です。
おばあちゃんと言っても、血の繋がりは無く、シングルマザーで忙しい母の代わりに、面倒を見てくれていた近所のおばあちゃんでした。
夜、母が仕事に出掛けた後、よくおばあちゃんの家に行き、お風呂に入ってご飯を食べていました。
お風呂場から出たときに、ふわりと台所の方から流れてくるお味噌の香りが、今でも忘れられません。
ほんのり甘いお味噌汁を飲んでいるとき、食卓の向かいに座るおばあちゃんが『美味しいかい?』と言っている笑顔を思い出します。
うちの店のお味噌汁には、そんな私とおばあちゃんとの幸せな想い出が詰まっているのです。
そのお料理を、お客様が美味しいと喜んでくださるととても嬉しく、幸せに思うのです。
どんな行列の出来るお洒落な人気店のお料理よりも、私にとってはご馳走なのです。
「ハルさーん!」
お弁当を食べながら色々と想い出に耽っていると、下の道からこちらに手を振る男性の姿が見えました。
「あら、もしかして佐野雅紀さん?」
松茸のホイル焼きを召し上がった、仕事が忙しい彼でした。
佐野さんが、こちらに駆け上がってきました。
「よいしょ!ふーっ!こんにちは、ハルさん」
小さなリュック1つ背負った彼の表情は、前回と違い晴れ晴れとしていました。
「お店はお休みなのよ。ごめんなさいね、何もお料理の用意も出来てなくて。簡単なものなら作れるから・・・」
そう言って、慌てて広げていたお弁当を片付けようとすると「あぁ!いやいや、そうではなくて!」と、彼が制止しました。
「僕ね、仕事辞めるんです。で、新しい就職先も決まったんですよ」
「まぁ!それはおめでとうございます」
佐野さんは嬉しそうに笑顔になりました。
「僕ね、実家が野菜作って売ってるんですよ。それで、両親に頼み込んで一緒に畑をやらせて貰えることになったんです」
「お若いのに、素敵ですね。頑張ってくださいね、応援しますよ」
「ありがとうございます。それで、実家からここまで車なら1時間くらいなんで、ハルさんにも僕の作った野菜を持って来たいんです!勿論、お金なんて頂きませんよ!」
と、少し胸を張って佐野さんが言いました。
「それはいけませんよ。大切なお野菜で、それで生計を立てていらっしゃるんですから。お支払はしますよ。お野菜、楽しみにしていますね」
「あははっ。やっぱりそう言われちゃいますよね。でも美味しい野菜作って持ってくるんで宜しくお願いします!」
そう言って、佐野さんは頭を下げました。
その後、私は佐野さんを誘って一緒にお弁当を食べることにしました。
残っていたおにぎりを渡すと大変喜んでおられ、一瞬でぺろりと平らげておられました。
そんな彼の隣で、私は眼下に広がる原風景を眺めていました。
心が疲れたときに、ホッとする場所はありますか?
今の私にとっては、この土地の全てと言えます。
お料理の香りが漂う食堂。
可愛いく無邪気なぽんすけと言うパートナー。
お客様から店員。いえ、家族になってくれた葉子さん。
美味しいと笑顔を向けてくださるお客様。
虫の声や、風で季節のうつろいを感じ、ゆっくりと流れる時間。
大変な頃があり、苦しい思いをしたからこそ、気付ける小さな幸せでもあります。
それに気付かせてくれた、あの言葉を言ったのは6年前に亡くなった主人でした。
『君が今いる場所が全てじゃない。君が常識だと思っている事が、必ずしもそうとは限らない。君は身動きがとれないと思っているかもしれないが、君を縛り付けているのは他の誰でもない、君自身だ』
優しい主人の声が今も耳を済ませば聞こえるような気がします。
人と人との出会いを大切に。
ここに辿り着く方の、ほんの少しの癒しにでもなれるように。
金色の稲穂が、風によって緩やかな波を作っています。
今は、明日の事を考えるだけでワクワクします。
どんなお料理を作ろうか。
どんな人に会えるだろうか。
そんな事を考えながら、私はのんびりと、空に引かれた飛行機雲を見つめておりました。
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