第2話

授業が終わって、みんなが帰り支度を始める。

僕が鞄から文庫本を取り出すと、前の席のタケル君が意外そうな顔をする。

「あれ? 良太、帰らねーの?」

「うん。ちょっと時間潰ししなきゃならなくて」

「……ふーん、今日は田圃の草抜きに付き合ってもらいたかったんだが、明日はどうだ?」

タケル君は椎名さんにチラッと顔を向けてから尋ねる。

僕がこれからしようとしていることを、タケル君は気付いているのかも知れない。

「明日なら、たぶん手伝えるよ。ごめんね」

「あ、いや、手伝ってもらうのに謝られると困るんだが」

「僕は農作業は好きだし」

「だったらいいけど……まあ頑張れ」

やっぱりタケル君は僕の考えを察知しているのだろう、もう一度、椎名さんに目を向けてから教室を出て行く。

潮が引くように放課後のざわめきが薄れて教室は静かになる。

最後まで残っていた雛ちゃんが、鋭い視線を僕に向けた。

それに気付かないふりをしていると、雛ちゃんはわざと大きな音を立てて立ち上がり、その身体に比して少し大きいと思える鞄を抱えて教室を出て行く。

椎名さんと二人きりになった。

椎名さんは本を開いて、やっぱり誰も寄せ付けないような空気を纏って、どこかひたむきなものを感じさせる様子で文字を追う。

今日がもし教室に残る日であったなら、僕は彼女に話しかけるのだと決めていたけれど、決意は挫けそうになる。

微かにページを繰るだけの音が教室に響く。

僕の文庫本は同じページを開いたままだけれど、彼女はいったい、どんな本を読んでいるのだろう?

ハードカバーの分厚い本は、少し色褪せていて、普通の小説とかではないような。

それに、時おり何かをノートに書き写している。

資料とか、そういった類だろうか?

「何か用?」

不意に振り返った椎名さんの表情は酷く冷ややかで、心構えが出来ていたはずなのに少したじろいでしまう。

「あ、その、根古畑には慣れた?」

「慣れたわ」

返事を一言で済まし、視線を本に戻す。

「本が好きなの?」

「ええ」

答える声も素っ気無い。

「ここで本を読むのは、海が見えるから?」

何気なく訊いただけなのに、少し驚いたような表情で椎名さんが振り返る。

「えっと、目が疲れたときとか、ちょっと本の内容が退屈なときとか、海を見るとリセット出来るよね?」

「……」

睨まれ……た?

彼女が感情を表に出すことは少ないけれど、何となく判る。

パタンと本が閉じられる。

本を鞄に仕舞っているから、たぶん帰り支度なのかな……。

何も言わず席を立つと、一瞥もくれずに歩き出す。

「あ、規理乃ちゃん、待って」

咄嗟に呼び止めたところで、彼女が立ち止まるとは思えない。

なのに、彼女は歩みを止めて振り返った。

「規理乃ちゃん?」

訝しげな顔。

あ、しまった!

幼馴染みばかりがいるこの環境で、下の名前で呼び合うことは当たり前のこと。

けれど、椎名さんに対しては、何となくみんなは苗字で呼んでいた。

僕もそうだったはずなのに、心の中では規理乃ちゃんと呼ぶこともあった。

それがこのタイミングで出てしまったことに焦りながら、僕は事情を説明して謝罪する。

「もういいわ。ただ驚いただけで、怒ってるわけじゃないから」

「ホントに? じゃあ、これからもそう呼んでいい?」

「え!?」

何故か驚かれる。

「べつに……構わないけど……」

俯きがちに、躊躇いを含んだ声。

「嫌ならちゃんと言ってくれたらいいよ?」

「……慣れてないだけで、嫌なわけじゃないから」

表情は読み取れない。

いつも通りの、冷ややかなものに見える。

というか、表情を読み取らせまいとするかのように、彼女は背を向けて教室から出て行こうとする。

やっぱり、そう簡単には親しくなれないか……。

「帰らないの?」

「え?」

扉のところで立ち止まって、規理乃ちゃんはそう言う。

そのくせ、僕を待たずにさっさと先に行ってしまう。

僕は慌てて鞄に文庫本をしまい、彼女の後を追った。

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