いくつかの夏の終わりに
京町正巳
風に乗せて
夕飯は食べたのか。洗濯物は取り込んだのか。どうもそこらへんの記憶が曖昧だった。身体をゆっくり持ち上げた時、いつもと変わらない寝起きのような感覚がしたのだが、おかしいことがあるのだ。しばらく呆然としていた俺は、なんとか状況を理解しようと努めた。
今年、新調したばかりのサマーラグにガラステーブルの影がわずかに落ちている。レースカーテンの向こうはとっくに日が昇っていて、てっぺんを過ぎていた。静まりかえった室内には、低い機械音だけがかすかに響いている。何も映していないテレビの後ろ側、壁にかけられたカレンダーに目をやって、毎日凝りもせずにめくっていたことを思い出す。
ふとカレンダーというものは、たしかに曜日の割り当てがあるが、それ以外はただの数字の羅列でしかない、とぼんやり思った。たとえば過ぎ去った日々にバツ印を欠かさずつけていたり、他の手段で日付の情報を得ることができなければ、今がいつを指しているのか分からないではないか。何事にも基準というものが必要であるのだ。その点、日めくり仕様であれば問題は無かった。
九月二日、土曜日。先日、夏が終わったばかりだ。
俺はようやく視界が開けたように落ち着きを取り戻すことになる。日付を知るだけでも心持ちが違うもので、もがくように身体を動かして台所の方へ移動した。ダイニングテーブルの上に昨晩の食器類を見つけ、さらに安堵することになった。少しずつ記憶が戻ってきたからだ。
白米に鯖の水煮缶をひっくり返し、マヨネーズを垂らした味気ない一人分の食事。それと、安い発泡酒を二缶。ちょうど食べ終わった頃に頭が痛くなったのだ。鈍くて疼くような痛みだった。途端に呼吸が苦しくなったし、目の前が暗くなっていった。そこまではなんとか思い出した。
それから気がついたらこうなっていた。
後片付けをしなければ、と無意識に食器を持ち上げようとした俺の手は、見事にすり抜けて空を切る。
つまりはそういうことなのだろう。でなければ他に説明のつきようがない。俺自身――いま動いている俺は、あるべき場所になく、浮いてしまっているのだから。
紛れもなく自分の家であるにも関わらず、身体が外側から中身、いわゆる魂とやらに取って代わっただけで、居心地が悪く感じてしまう。自分が自分でないよう気がして、なんとも不思議だった。けれども、小一時間も経てば案外受け入れられるもので、俺はこの奇っ怪な状況から抜け出すためのとっかかりを探し始めた。
真っ先に思い至ったことは誰かに電話をかけることだ。なぜか服は着ていたが、お助けアイテムとしてポケットから携帯電話が出てくるようなことはなかった。この家には固定電話もない。
近所のうら寂しい遊具が滑り台だけの公園に、ぽつねんと電話ボックスがあったな、と思い至ったところで、結局のところ触れられないのであれば意味がないことに気がつく。このままでは堂々巡りだった。
しかたなく俺は外へ出ることにした。誰かに話しかけてみよう、と思ったからだ。
――これは、どうしたものか。
どうやら声は出るらしい。同時に深いため息も口から漏れてしまった。
いつもの癖で出がけに鍵を探してしまっていたが、ここで再び触れられないことに気がついて、仕方なく手ぶらで玄関へと向かう。つっかけのつま先がこちらを向いて乱れていた。昨晩、コンビニに麦茶と飯を買いに行った時のものだ。鍵はしっかりとかかったままだった。
今日は風があった。目の前で庭木が揺れ、ざわざわと音を立てている。先日まで激しく照りつけていた陽射しはどこか穏やかになっているが、涼しくなったのか、いまだ暑いままなのかこの身体では全く分からない。
律儀に扉をすり抜けて外へ出たけれど、そもそもどこからでも出入りすることができるようになっていた。恐怖心は完全に拭えたわけではないが、通路の柵を突っ切りながら、帰りは窓から部屋に入ってみよう、と心に決めて文字通り家を飛び出した。
アパート前の路地を抜け、駅前の大通りへふらふらやってきた。なんとなく人通りの多い交差点の上空に止まる。ぐるりと一回転すると、縦長三階建ての古本屋に、この街で一番大きな自転車屋、毎日いい匂いのしていたパン屋、洒落た喫茶店といつもの景色が違う角度で眼下に広がっていた。
すぐ下の歩道橋までおりて「すみません」と道行く人に何度か声をかけたが足を止める人は誰も現れない。人々は黙々と目的地に急ぎ歩いたり、まるであてもなくさまよっているかのようにゆったり歩いたりして、反対側に渡っていく。行き交う車は少ないように思えたが、そもそもこの時間の交通量はあまり知らなかった。
どうやら世界が変わってしまったわけではなく、今のところおかしいのは俺一人だけであるようだ。
考えられることが二つある。
一つは、俺の声自体が出ていないということ。霊体は音を発することができるのだろうか。先程の声はイメージに過ぎなかったのかもしれない。だが、俺には声の出せない自分を想像することができなかった。
もう一つは、誰も俺の存在を認知することが出来ないということ。つまりは、俺がこの世界とは違うどこか別次元に存在するということだ。おそらく後者だろう。これなら声が届かないことにも頷ける。情報の認識はこちら側からの一方通行であるのだ。どこかで交わる術はないのだろうか。
婦人会の集まりであろう集団や音楽を聴きながら通り過ぎる大学生らしき人の前に、幾度か立ち塞がってみても、皆が当然のように身体をすり抜けていくばかりだった。最後にショッキングピンクのワンピースに身を包み、薄い桃色の背の高い帽子を目深に被った、一際目立つ服装の女性が前を横切った。俺の苦手なタイプだ。誰にも気がついてもらえない寂しさに心が折れてしまっていた俺は、声をかけることを止めた。もし仮に話ができたとして、そもそも何を説明すればいいのだろうか。
――俺、死んでしまったんです。
いや、頭がおかしいと思われるだけだ。新手の宗教勧誘と間違われたとしても仕方がない。これ以上の収穫はなさそうだし、ここに留まっていても埒があかないので俺は踵を返した。
途方に暮れ、ふわふわと家に舞い戻る道すがら、思い切って空高く舞い上がってみた。都心の高層ビルくらいの高さでは、夕焼け色の住み慣れた街が一望できて、存外悪い気分はしない。しかも上限はないようで、子供の頃に憧れた雲の上では一片の汚れもない濃い青がのぞめた。いざとなればこのまま大気圏をも抜けて天国までたどり着けるのかもしれない。
雲には乗ることができなかった。これは、きっと俺の身体がすり抜けるようになってしまっていたからだろう。少し残念に思えた。
一方で下限のほうはというと、言葉の通り灼熱地獄に落っこちてしまいそうで身体がぶるりと震えた。幾許の暗闇を突き進むのだろうか、と考えただけでも気が滅入る。地面より下には行かないよう心に決めた。
この状況はいつまで続くのだろうか。ことによると、何年も何十年もこのままで誰にも視認されず、誰とも会話をすることなく、存在することだけを続けていく――。
果てのない考え事をしているうちに、俺はアパートの近くまで漂い戻ってきていた。すぐ近くで、ここらに住みついた二匹の猫がじゃれ合う声が聞こえる。一匹は黒猫だったが、もう一匹はどんな毛色をしているのか知らなかった。動物ならこの奇妙な霊体を視認できるかもしれない、そんな考えが頭をよぎったけれど、話せないのだからやはりどうしようもなかった。
二階の窓からそろりと家に入る。ガラス板が上半身をちょうど二分した時、急に元の身体に戻る可能性がよぎって、慌ててすり抜ける。いち早く解決して欲しいとは思うが、実体化するにはなんらかの予兆があることを願うばかりだ。飛び込んだ先では掃除の行き届いた部屋がオレンジ色の光を受けて、遠い昔の放課後みたいに寂しさだけを残していた。
どっと疲れが押し寄せて来る、ような気がした。これも生前のイメージに過ぎないのだろう。死前と言いたいところではあるが、生前というのは仏教的な考えであるらしい。昔、力説している教師がいたことをなぜだか思い出す。はたしてこの状態にも疲労は蓄積してしまうのだろうか。俺が気がつかないうちに、透明度が増してしまったりしていないだろうか。両手を眼前に掲げ、その先に透ける天井を仰いだ。タイムリミットがあると考えた方が賢明だった。
行き詰まったので別の視点から考えることにする。なぜこうなったのか、である。けれど、これもおおよその検討がついていた。
俺にはまだ未練があるのだ。どうしても、あと二日は耐えなければならない。残してしまった恋人のために。彼女――橙子は帰省のため昨日の夕方にこの街を発った。三泊すると言っていたので戻ってくるのは明後日だ。それまでに、彼女に何か伝える策を見つけなければならなかった。
突然、テーブルだか椅子だかの家具がピシッと音を立てた。ラップ現象というらしい。音のした方の虚空を見つめる。今までにも、誰もいないのに後ろを振り返ったり、突如として気配を感じることがあった。あれは、こんな風に見えない誰かがさまよっている、とも考えられるわけだ。思わずぞっとした。だが逆を言えば、伝えられる可能性があるかもしれないということでもあるのだ。
そうは言ってもできるようなことは何もなく、時間ばかりが過ぎていく。
日が落ちきって部屋の中は真っ暗になってしまった。この身体では照明もテレビもつけることさえできない。そんな中で、ダイニングテーブルの中心に置かれた砂時計がぼうっと緑色の光を出していた。砂に蛍光塗料が混ぜられているのだ。それだけがひとりぼっちで宇宙に浮いているみたいだった。
眠ろうと目をつぶってみても眠気は全くやってこない。一時間ぐらい経っただろうか、ソファに寝そべるような格好をして、ただ浮いていたところ、突然部屋が明転した。慌てて体勢を整える。床と天井とにすっぽりはまった漫画ばかりの本棚と壁に掛けられたアコースティックギター、床の大半を占める折りたたみ式のベッド。見慣れない部屋にひとしきり困惑した後、ヘッドホンをつけてパソコンのモニタにかじりつく男の後ろ姿を見つけた。俺はぐっと身を縮める。
なるほど、気を抜いて下の階に沈んでしまっていたのだ。かすかに重力が働いたのかもしれない。落下している感覚は全くなかった。真下に住む男は、たしか大学生だったか。あまり話をしたこともなく、すれ違えば挨拶をする程度の仲であった。名前は一度だけ聞いたはずだが、すぐには思い出せなかった。
「どうして……間違ってないはずだ……」
男はぼそぼそと独り言を放つ。一人暮らしであれば嗜みと言っていいだろう。だが、様子がおかしい。椅子をガタガタ揺らして苛立っているようだった。
「ふざけるなっ」
――全く、何に怒っているんだい?
返事はもちろん返ってこないが、俺は咄嗟に発声していた。一人で暮らしていた時の俺に少し似ている。なんだか懐かしくなって、そして同時に物悲しい気持ちになった。
――お互い、頑張ろうな。
彼の苛立ちの矛先は分からないけれど、なるべく穏便な解決を願っておこう。
とにかく情報が必要だ。部屋をあとにした俺は、今度は隣の住人を訪ねた。もちろん無許可である。
――お邪魔します。
俺は届かない声をかけてゆっくり部屋の中へ入った。下の大学生と同じでこの家にもテレビがなかった。最近の若い人たちはパソコンで間に合わせているのだろうか。振り向けば、すぐ目の前にコーヒーを飲みながらソファで読書をしている女性がいた。
俺は驚いた。明らかに目線が重なったからだ。彼女は数秒間、こちらのほうを見つめたのだ。だが、すぐに何事も無かったかのように文庫本へと目を落としたので、俺は胸を撫でおろす。そしてすぐに、後ろに壁時計がかけられていることに気がついた。赤色の秒針がカチカチと時を進めている。
彼女は隣の厚木加奈さんだ。俺自身も挨拶を交わしていたし、橙子も親しくしていた様子だったが、やはり女性の部屋を覗くことはきまりが悪く、すぐにおいとますることになった。
反対側の部屋、こちらも女性の一人暮らしだった。面識はほとんどない。プライベートな空間であることには変わりないのだが、こちらには客人がきていたため幾分気が楽だった。それにテレビがつけられていた。
仲の良さそうな二人は饅頭を食べながら
テレビのニュースを見ている。報道はすでに締めくくりに入っていて、内容がよく分からなかった。おそらく昨日のニュースだ。どうも夜行バスに問題が起こったらしい。なぜか二人はそれを見て何度もハイタッチを交わしていた。その後は、今夏最後の花火大会が終了したことや動物園でカピバラの赤ちゃんが誕生したことなど、ほのぼのとした平和的な報道が続いた。
結局、何も出来ないままに一日が終わった。今日は何も口にしていない。正確に言うと口にできない、だが。そもそも空腹すら感じないのだ。腹が減らないというのはなんとも新鮮だった。
とにもかくにも味方が必要である。寝室の扉をくぐり抜けて、ダブルベッドの両脇についた二つ引き出しを見やる。ダイヤル式の鍵がついているものだ。一つは橙子の引き出しで、もう一つは俺のだ。運悪く、いや運良く空き巣がやってきて引き出しををこじあけてくれないだろうか。今はまだ俺だけの引き出し。そこには渡すべき物が眠っている。
明後日、橙子が帰ってくるまでに何か手を打たなければ。
買ってきたカップ麺が出来上がるまでの三分間。橙子と俺は砂が落ちきるのを待っていた。八個入りのたこ焼きの残りは三個になり「もう食べきれない」と、橙子が言った。それなら俺がラーメンの後にでも食べることにしよう。
「やっぱり秘密を持つことは大切なことよ」
「橙子はもう番号決まったの?」
俺と橙子は同棲を決めた。だが、全てを分け合うのはまだ早い、と橙子は言うのだ。お互いに鍵付きの個人用引き出しを設け、それぞれ使うことを提案してきた。
「もちろんよ。忠告しておくけど、単純な暗証番号は却下だからね。記念日なんてのは以ての外。安直な数字もダメ。たとえば今日の日付だとか、連続した番号だとかね。絶対に自分だけにしかわからないようにするの」
肩のあたりまである黒髪の跳ねた毛先をいじりながら、橙子は言った。何の気なしに、橙子が壁にかけた日めくりカレンダーを見ていた俺は慌てて視線を下に移す。まだ開封もしてないダンボール箱が七つピラミッドのように積み重なっていた。
それから半分くらいの砂が落ちて、橙子は言う。
「ねぇ、あなたはこの砂どう思う?」
「どうって?」
「あとこれだけしかない、と感じるか、それともまだこんなに残っている、なのか。よくある命題でしょ?」
「あまり考えたことはないけれど、俺は残っているものを大事にしたいかな」
「なんだか、ロマンチックね」
「残り物には福があるし、残された方ってのは案外、可愛そうだったりもするからね」
「そうね、大事にしてあげなくちゃ」
カップ麺が完成するまでに、発泡酒は二つが空になっていた。橙子は好物のチョコレートを四個だけ食べて、冷蔵庫にしまった。
過去に浸っていたら、朝が来ていた。窓ガラス越しに部屋に入り込んだ光はどこか無機質で、温度がないように感じられる。どうすればこの状況から脱することができるのか。
突然、玄関から音がした。鍵が差し込まれ、錠が回る。密閉された部屋の中に緊張が流れ込んできた。鍵が閉まった後で靴が並べられる。空き巣にしてはおかしい。やがて現れた人影に身構えていた俺の頬が緩む。橙子だった。
俺は思わず飛びついて抱きしめた。もちろん橙子の身体は俺をすり抜けたが、肩まで伸びた黒髪がふわりと浮き上がって元に戻る。相変わらず、毛先が外側に跳ねてしまっていた。橙子は一度だけ振り返り、扉が閉まっていることを確認すると、焦ったように部屋に入り、持っていたチラシやら請求書やらをテーブルの上に投げ出して窓を確認した。もちろん俺が開けていないのだから、当然のように閉まっている。
安堵した様子の橙子は「出しっぱなしだった」と、呟くように言って、残されたままになっていた食器類をシンクに運んだ。
それから思い出したように壁際に駆け寄り、日めくりカレンダーに手をかけて二枚めくった。そうか、カレンダーをめくるのはいつも橙子だったな。もうめくられずに二日経っていたのだ。今日は九月四日、もう月曜日だ。
すぐに身を返した橙子は俺の下着類が入っている箪笥からいくつか見繕い、紙袋に詰め始めた。まさか、捨てるのではないだろうか。そわそわしながら俺はテーブルの上に投げ出された諸々を眺める。つい癖で、請求書に手を伸ばしていた。やはり空を切る。その時、チラシの一枚がテーブルからこぼれ落ちた。ようやく気がついた。俺が動く時に風が吹いているのだ。
伝えることができる。分かっただけで脇目を振る必要すらなかった。俺は両手を使って必死に日めくりカレンダーを扇ぐ。その姿は傍から見れば、ボンボンを振り回すチアリーダーみたいであまりに滑稽であったが、幸い今は誰からも姿を見られることはないのだ。
窓も開いていないのにバサバサと音を立ててはためき始めた日めくりカレンダーに橙子の目が止まる。俺は念じた。引き出しを開けてくれ、と。暗証番号の最初は、もちろん五である。次に七。そして四。最後はチョコレートの八だ。四桁の数字の後に充分な間をとって、三度繰り返したところ。橙子は跳ね返るようにして寝室へ向かった。木が擦れる音が辺りに響く。
橙子は中から見つけた指輪を取り出し、額につけて祈るように、噛み締めるように長い間ずっと握りしめていた。まるで天女のように俺には見えた。
――できれば橙子の引き出しの中身も見てみたかったなぁ。
俺はそっとひとりごちる。聞こえはしないのに。
ひょっとすると、涙が流れてしまっていたのかもしれない。決して失ってはいけないものだった。そう感じた瞬間、俺の意識はぷつりと途絶えてしまった。
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