第53話 そーゆーわけで…ってどーゆーわけですか!? ⑩

 


「沙和」


 聞きたかった声が自分の名前を呼んだ。そう理解した瞬間、沙和の胸中は言葉にしがたい感情が渦を巻き、鼻の奥がじんとする。

 揺らがない篤志の眼差しから逃げるように、沙和は枕にダイブした。理由の分からない居た堪れなさに身悶えたいのを抑えているせいか、全身がぷるぷると震えているのにも気付かないまま、声にならない絶叫を上げた。


(だ――――ッ! なんでなんでなんでぇぇぇ!?)


 不意打ちを食らっただけでも平常心がぶっ飛んでいるのに、篤志が近くにいるだけで物凄く居心地が悪い。しかもやたら熱い視線が注がれているのをひしひし感じ、そこから熱が伝播して、肌が赤らんでいくのが分かった。


(やだやだやだ。何でそんな風に見るのよ!? し……失敗したわ。まさか来るなんて思ってなかったから、逃げそび……)


 この期に及んでまだ逃げる気でいる思考にハタとした。

 逃げたから今こんな事になっていると言うのに、それでも懲りずに逃げようだなんて、全然学習していない自分にがっかりする。

 篤志が来てくれたのに。


 躰から力がするりと抜け落ち、沙和は溜息を漏らしたところで、篤志の悲鳴が耳に飛び込んだ。

 まるで断末魔のような声に驚いた沙和がガバッと上体を起こすと、篤志に馬乗りになった椥が彼の腕を後ろ手に捩じ上げていた。沙和がプチパニックになっている間にも、椥の妨害は続行中だったらしい。


『一度身を引いたんだったら、貫けよ』

「沙和から離れるなんて、俺には無理だ。それが分かったんだよ!」


 心臓が、ドクンと音を立てた。


(や…やだ。なに今の)


 そろそろと胸に当てた手に視線を落とし、直ぐに心臓の元の主を窺うべく目を向ける。

 沙和を振り返った渋面の椥と目が合って、筒抜けの感情に羞恥を覚えた彼女の頬に朱が走った。

 不機嫌な椥の舌打ち。と共に篤志はさらに捩じり上げられて床をバンバン叩き、椥が今度はその手を踏みつけた。篤志が反撃出来ないのを良いことに、やっぱり椥はやりたい放題だ。


『うるせーっ。鬼婆が来るだろうが!』


 そう言って空いた手で篤志の頭をひっぱたく。唯一、椥を折檻できる母を鬼婆呼ばわりした兄に沙和が顔を引き攣らせていると、


『大体その諦めの悪さはなんなんだよ。ヘタレでこれと言った取柄もない奴に、うちの沙和はやらんッ!』


 然も当然のように椥がきっぱり言い切った。


(……それって、父親の台詞だと思うんだけど)


 沙和の無言ツッコミに篤志の「ズルいッ!」という声が被さって来る。篤志が涙目になりながら馬乗りの椥を肩越しから振り返った。

 果たして篤志は何をズルいと言うのだろう。

 沙和はきょとんとして目を瞬く。


「自分は婚約までしていた癖に、沙和はダメって何だよッ!? オーボーだ!」

『横暴結構。俺は彼女の親に認められた。悔しかったらお前も俺を納得させてみな。でなきゃ絶対に認められない。まあ、無理だろうけど』


 椥が皮肉っぽい笑みを刷き、更に言を継いだ。


『それ以前に、お友達以上になれるかな?』

「うるさいっ! 俺のしつこさを嘗めんなよ!? 伊達や酔狂で今まで拗らせてきた訳じゃないからなっ」

『拗らせるとか、威張って言うなよ』


 呆れて言った椥を無視して、篤志の真剣な眼差しが沙和に向く。


「そーゆーわけで、さわっ!」


 いきなり話の矛先を向けられて、唖然と展開を眺めていた沙和は飛び起き、ベッドの上に正座した。


「これからガンガン攻めて行くから。幽さんがどんなに邪魔してきたって、俺が沙和好きなのは変えようがないから、覚悟して!」


 言い終わるや否や、椥に頭を叩かれて篤志が文句を言っていた。それを煩そうに聞いていた椥が沙和に視線を寄越し、薄く微笑んだ。



 椥が微笑んだ意味が分からない。

 それを聞こうとしたら母が部屋に来て、椥は一目散に逃げて行ってしまった。

 そして部屋に篤志と二人取り残された現状に、沙和は変な汗を掻いている。

 息の詰まる様な沈黙。

 ベッドで正座する沙和の正面で、床に正座する篤志が俯いている。

 下手に動いたらこの危うい均衡が崩れてしまいそうで、沙和は動けないでいた。


 黙りこくったまま、どれくらい経っただろうか。

 不意に篤志が面を上げた。その目が僅かに潤んでいるようで、沙和は目を細めて彼に視線を返す。

 篤志は口を開いては言い淀み、そんな事を繰り返して漸く「あのさ」と言葉にした。


「……沙和が、どうしたって好きなんだ。この一ヶ月離れてみて、尽々実感した。今は俺のこと一人の男として見られなくても、頑張って振り向かせるからさ、逃げんなよ。それだけは…マジ凹むからさ」


 篤志はそう言ってまた俯いてしまった。

 言葉を、何か言葉を返さないとと思いつつ、伝えたいことが頭の中でグルグルして声にならない。

 そんなこんなしているうちに、篤志は顔を上げて笑んで見せた。


「今日は、突然押しかけて、ごめんな。今日は、もう、帰るから」


 徐に立ち上がった篤志を見て、沙和の何かが弾けた。

 このまま帰したら、いけない気がする。

 その衝動に駆られるまま、部屋を出て行こうとした篤志の腕を掴んでいた。

 驚いた顔で振り返った篤志よりも、沙和の方が余程驚いた表情をしていただろう。自分の思わぬ行動に焦って、だんだんそれが羞恥に変わっていく。


「沙和…?」

「あ、や、その……」


 何か言わなければと思うほど、上手い言葉が見つからない。

 それでも伝えなきゃという思いに急き立てられ、篤志の腕を掴んだ指に力が篭った。沙和は半泣きの表情で篤志を見て、小さく吸い込んだ息と一緒に言葉を吐き出す。


「……ごめんね」


 掠れた声だった。篤志はそれに対して「何にごめん?」と聞き返し、沙和に向き直った。


「拒否のごめんだったら、いらない。聞きたくない」

「じゃなくて……篤志を、傷つけて……凄く、後悔したの……篤志が、離れて行っちゃうって思ったら、悲しかったし、辛かった。それが、特別に好きだからとか、わかんないけど……あやふやで…でも、でもね……」


 そこまで言って言葉が遮られた。

 沙和の背中に回された腕がきつく彼女を抱き寄せ、篤志の胸に顔を埋めていたための強制終了だった。最後まで言わせて貰えなかったことにちょっと拗ねて、篤志の背中をパシパシ叩くと、彼女の肩に額を預けた篤志がへへっと笑う。

 篤志は腕の力を緩めて、沙和の顔を覗き込んで来た。


「それでもいいや。今は、ね。嬉しいから」

「特別じゃないかも知れないよ?」

「特別にする。絶対。この気持ちだけは、誰にも負けない自信あるし。好きだって言って貰える男になるから、目を逸らさないで見ててよ」


 久し振りに見る篤志の満面の笑顔に、胸がキュンとした。見る見る間に顔に熱が集まり、赤面を隠すように俯ける。すると篤志は膝を折って下から覗き込み、驚いて顔を上げた沙和は視線から逃げるように、そっぽを向いた。

 逃げる沙和を追いかけるように、篤志が顔を覗き込んでくる。


「ちょっと篤志……やだぁ。なんなのよぉ……見ないでぇぇぇ」

「ちゃんと見てって言ってる傍から逃げる沙和が悪い」

「そーゆー意味の見てじゃないでしょぉ」


 堪らず両手で顔を覆い隠すと、篤志の手がそっと彼女の手を下ろし、涙目で赤面する沙和に笑みを零した。

 そして頬に掠めるような温もりを感じ、呆気に取られて篤志を見る。すると彼は「宣戦布告」と悪戯っ子のように笑い、キスされたことに思い至った沙和は頬に手を当て、顔が爆ぜるのを感じてその場に蹲ってしまうのだった。



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