第48話 そーゆーわけで…ってどーゆーわけですか!? ⑤
椥の腕にふんわり包まれて、沙和が落ち着くまでずっと、背中をトントンしてくれていた。
確かにそこに兄の存在があるのに、零れ落ちた涙は兄の衣服に滲みることなく、沙和のパジャマを濡らしているのが切なくて、涙が止まるまで大分かかった気がする。
そうして、どのくらい経っただろう。
家人が起き出した気配がする。それからそう間を開けず、スマホが鳴った。音からしてメールの通知音だ。
ベッドヘッドに充電器を挿したまま放置されていたスマホに視線をやる。こんな朝早くからメールを寄越す人物など、二人しかいない。
慌てることもなくのそのそとスマホを手に取ると、沙和は無意識に眉を寄せた。
篤志からのLINEメール。それに次ぐ美鈴からのメール。そのどちらも夥しいカウント数を表示している。どっと疲れが押し寄せて、沙和は枕に突っ伏した。
(なに……この、百件越えは……)
それだけ心配してくれているのだろうと、理解はする。
しかし、どれだけ暇なのよとも思う。
二人とも、帰ってから片時もスマホを手放さなかったのだろう。
沙和が呆然としている間にも、手の中で通知音が競うように鳴っている。彼女はその忙しなく音を立てる物を枕の下に押し込んだ。
(月曜の朝から、何してるのよ。二人とも……)
開封しなければ、どんどん送られてくるとは分かっていても、今は既読スルーする気力もない。
沙和は昨日の出来事を思い起こしていた。吐くともなしに吐いた溜息が枕に浸み込んでいく。
篤志がとんでもない事を言い出した。
(選にも選って、何を言い出すんだか……)
これまでの八年で、篤志をそういう特別に見たことはなかった。ずっと変わることのない友情があるものだと信じていたのは、どうやら沙和だけだったようだけど。
全く気付かなかった。
ばかりか、悉くスルーして篤志を打ちのめしてきたらしい。
鈍感すぎるほど鈍感な娘を見る母の目が、余りに冷ややかだったのを思い出して背筋が寒くなる。その後で篤志に向けた優しくも憐れみを内包した、少し複雑そうな眼差し。
うちの娘が申し訳ない―――そんな母の心の声を聞いたような気がする。
再び吐いた溜息の熱を感じながら、また溜息を漏らす。
篤志に限らず、異性を特別に好きだと感じた事がない。
でも篤志が離れて行くのは寂しいし、嫌だと思っている。それは美鈴に対しても思うことなので、彼が特別としての意味ではない。
(このままじゃ、ダメなのかな?)
ずっと変わらず、三人で馬鹿言って笑って、偶に喧嘩して、仲直りして……。
(それじゃダメなのかな?)
篤志がそんな関係を望んでない事は、百も承知だけど。
奈々美や隼人が部屋を覗きに来たことは気付いてた。
けど起き上がって相手する気にもなれず、狸寝入りを決め込んだ。
椥は何も言わず、沙和が枕から少し顔をずらして様子を窺うと、相も変わらずふわふわ浮いた状態で小説を読んでいた。
階下から出掛けて行く三人の声と、送り出す母の声。そしてすぐ、母が誰かと話す声が微かに聞こえて来た。
近所の人かと沙和は気にも留めていなかったのに、椥が気色ばんだのを感じ取って、ガバッと身を起こすと扉の方を振り返る。
躊躇いなく階段を上がって来る二つの足音。
(う…そぉ)
沙和があわあわと焦って部屋を見回していると、椥が扉を抑え込んだ。この部屋に鍵など付いていないので、そうやって足止めしてくれているうちに、沙和はベッドの下に潜り込んだ。
クローゼットとも一瞬過ったたけど、躰は一番近いベッドの下を選んでいた。
ずるずると躰を引き摺って、壁際に移動していく。
ノックと共に沙和を呼ぶ母の声がした。それに応えないでいると、ドアノブが回る音がした。
椥が抑え込んでいる扉は当然開かれる事なく、ドアノブを回す音がいささか乱暴な音に変わる。それと一緒に彼女を呼んで扉を叩く音がし、沙和は躰を強張らせた。
「沙和、開けて。……ったく。幽さんだろ!? 沙和に、は…なし、あんだから……邪魔、すん…なっ!」
怒りを滲ませ、気張った篤志の声がした。
ガチャガチャとドアノブが回り、扉が軋む音がする。
「沙和、開けて頂戴。 椥っ。邪魔してるなら止めて」
篤志に続いた母の声に、申し訳なくて胸が痛む。
篤志から逃げたところでどうにもならないのに、今はまだ彼と対峙するなんて無理だ。自分に都合の良い言葉しか見つからないのに。
狭い空間で躰を縮こませ、目を固く瞑る。
『沙和は、お前と会いたくもないってさ』
そう言った椥の言葉にハッとして目を開け、狭い視界から扉の方を見る。ここからではよく見えなくて、少しづつ移動していく途中、篤志の「そうかよ」と冷たく響く声がした。
初めて聞いた声色に、沙和の躰が瞬時に動けなくなった。
息を詰め、僅かに見える扉を凝視する。その向こうで立ち去ろうとする気配と、呼び止める母の声。
沙和はその場から動くことが出来なくなり、震える唇から微かに漏れ出る嗚咽にすら、しばらく気付けないでいた。
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