第34話 心残りは何でしょう? ⑧

 

 ***



 兄の夢を久し振りに見た翌朝。

 泣きじゃくった目が何とも腫れぼったく、自然と半眼になって視界がめちゃくちゃ悪い。心なしか顔も浮腫んでいる気がする。


(だからそーじゃなくて、そんな事よりも……)


 幽さんと顔を合わせづらいな、なんて思って壁の方に寝返りを打ったのに、何で彼がそこに居るのだろう。


(何処に居ようと、幽さんの勝手なんだけどさ)


 ベッドの上で胡坐をかいた幽さんと思い切り目が合って、間の悪さに舌打ちしたいのを堪え、寝ぼけた振りで反対側に寝返りを打ち直す。すると幽さんが覆い被さるように沙和の顔を覗き込んで来た。

 考えてみれば、魂が絡み合っている幽さんに、狸寝入りが通用する訳がない。

 憮然と幽さんを見ると、彼は溜息混じりに口を開いた。


『ひどい顔だなぁ。ちょっと待ってな。何か冷やす物、隼人に取り行かせるから』


 言うに事欠いて、“ひどい顔” と乙女に無体な台詞を残し、幽さんは隼人の元に行ってしまう。沙和は絶句したまま見送ってから、ハッとした。


(ひ…ひどい顔……そ、そんなの、わざわざ告知されなくたって、分かってるわよ!)


 数年ぶりで、子供のように人の目を気にせず泣いた。

 その結果いま沙和を不愉快にさせ、同時に羞恥で身悶えそうになっている。なのに心の片隅では、ちょっと嬉しくてニヤケそうな沙和がいるのだ。

 兄は今度も引き止めることが出来なかったけれど、幽さんは黙っていなくならないと約束してくれた。その一言が沙和を安堵させる。

 廊下を走って行く小さな足音が聞こえ、沙和は口元を綻ばす。そこに幽さんが戻って来て、夢で見た光景が甦った。


(それにしたって、夢とは言え、お兄ちゃんと幽さんが手を繋いでどっか行くとか、我ながらどんな発想よ)


 二人に接点なんてないのに。

 笑い出しそうになって、不意に心に影が差す。

 何故だか急に不安な気持ちになった。

 沙和は居ても立ってもいられずベッドから飛び出すと、声を掛けた幽さんに気付くこともなく、恐らく朝食の準備をしている母の元に走るのだった。




 階段の前で隼人とすれ違い、けたたましく階段を駆け下りた。

 案の定、台所に立っていた母に声を掛けると、沙和を見て「ホントに酷いわね」と渋面になってその手を止めた。

 酷いとは、当然沙和の腫れぼったい顔のことだろう。本題を忘れて文句が喉まで上がって来たけど、それを飲み込んだ。今はそんなことを訊きたいのではない。


「お母さん。お兄ちゃんって、元気なの?」


 娘の唐突な質問に、母が眉宇を顰めた。


「いきなりどうしたの?」

「お兄ちゃんの夢を見た。お兄ちゃん、幽さんと手を繋いで、あたしをまた置いて行った!」


 何度となく兄に置いて行かれる夢を見ては、起き抜けに泣き顔の理由を母に話している。言い訳一つしない母をそうやって責めていた。子供だった沙和には憤りの捌け口が、それしかなかったから。

 大人になるにつれ、それもこの数年はなかったことだったけれど。

 母の感情の動きを一つとして逃すまいと、沙和が凝視する。母は束の間彼女を見遣り、嘆息すると口を開いた。


「お兄ちゃん……なぎがお母さんのこと嫌ってるの知ってるでしょ?」


 母を大嫌いだと捨て台詞を吐いて、家を飛び出したのは沙和も覚えている。以来いくら連絡しても、兄は頑として電話口には出なかった。

 沙和は小さく頷いて、


小出こいでのお父さんからは、何か聞いてない?」

「もう何年も連絡なんて取ってないわ。何かあったら連絡が来るでしょ。きっと元気でいるわよ」


 母は淡々とした声で言う。

 嘘を言っているとは思えない。


(でも……)


 心がざらつく。

 どうしようもない不安が首を擡げ、沙和の思考を覆っていきそうだ。


「連絡が来る確証なんてないじゃない」


 母の言葉に納得しない沙和が言い募ると、母は溜息を吐いた。


「お母さんに連絡がなかったとしても、椥の事だから沙和には何かしら言ってくるわよ」

「そんなの分かんない! だってお兄ちゃんはっ。あたしに何も言ってくれなかった」


 自分の言った言葉に打ちのめされた。

 鼻の奥がツンとして、また涙が浮かんでくる。


(だって……あたしから離れた幽さんと、手を繋いで去って行くって……つまり、そう言うことじゃないの?)


 払っても払っても、湧き上がってくる疑念。

 馬鹿げた妄想なのかも知れない。

 あれは夢だったのだから、そこまで深刻になる事もない。

 そう思うのに……。




 記憶を取り戻したら、幽さんが沙和の機嫌をとる必要はなくなる。

 もしかしたら、沙和から離れることも可能なんではないか。

 そんなことを考えたら、堪らなく寂しくなった。

 最初は迷惑だと思っていたのに、我ながら現金なものだと呆れる。


 出会った頃から感じていた幽さんへの親近感を、沙和なりに考察してみた。

 真っ先に飛び込んで来たのは、眦が少し下がった幽さんの瞳だった。その目元に同胞意識が芽生えたのは間違いない。

 遣ること為すこと滅茶苦茶で、出会って間もなくの頃は怒ってばかりいた。今でもイラっとすることはあるけど、幽さんなりに沙和を守ろうとしての行動だから、どうにも本気で怒れないし、嫌いになれない。 “仕方ない人” とつい苦笑してしまう位置付けに居るのが今の幽さんだ。


 そんな傍迷惑な幽さんに親近感を持っている要因の一つは、彼が持っている雰囲気だろう。

 沙和が落ち込んだり悲しんだりしている時に慰めてくれる彼は、兄の雰囲気と似ていることに気が付いた。


(お兄ちゃんは幽さんみたいにチャラけてなかったけどね)


 兄の椥は、物静かでおっとりした人だった。

 直ぐに着火する幽さんとは似ても似つかない。

 なのに似ていると思った。

 だからだろうか。幽さんと離れがたいと思ってしまうのは。

 あの日失くした兄の面影を重ねていたから、あんな夢を見たのかも知れない。

 兄の身代わりにするなんて、幽さんには甚だ迷惑な話だろうに。


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