第26話 ニブイにもほどがある!! ⑦

 


 幽さんが強制退場になると、嘆息した沙和が微苦笑を浮かべて篤志を見た。

 ソファに座り直した篤志の前で、膝立ちになった沙和の目線が左頬に注がれている。最近とみに虐げられてる感があった篤志には、その優しい眼差しを向けられているだけでも、至福を感じてしまう。


 一度は離れてしまった沙和の手が頬に触れ、篤志の冷めかけた熱が急上昇した。すると彼女はハッと目を見開き、「やだ。熱持ってる」と立ち上がりかけ、篤志は咄嗟に手を掴んだ。

 沙和の戸惑った表情が見下ろしてくる。


「ちょっと放して。冷やすもの持って来るから」

「大丈夫だから」

「だって熱持ってるよ? 冷やした方が良いって」


 純粋に心配してくれる沙和に対して、二心を持っている自分が少々後ろめたいと思いつつ、掴んだ手を軽く引いた。沙和は逆らうことなくその場に膝を付き、ストンと正座をする。

 きょとんとした沙和のあどけない眼差しに射抜かれたように、心臓がバクバクしてきた。邪魔者がいない今がチャンスなのに、却って篤志を緊張させ、頭の中が真っ白になって言葉が出てこない。

 手を掴んだまま篤志がじっと見ていると、沙和がこてんと首を傾げた。


「篤志、大丈夫? 顔真っ赤だよ? どっか具合悪い?」


 上目遣いで篤志を見上げ、心配を口にする。その表情の可愛さに、篤志の体温が鰻上りに上がっていく。


(何これ。マジヤバい。この状況で二人っきりって……いやいやいや。ここは沙和んちのリビングだしっ……でもちょっとくらいなら…ちょっとだけ……)


 そんなことを考えてたら、沙和の柔らかそうな唇しか目に入らなくなる。微動だにしなくなった篤志を沙和が怪訝に見返していた。

 仮にも心配をさせている立場でありながら、まさか篤志が “キス” 云々で葛藤しているとは思うまい。

 沙和が無防備に顔を近付けてきた。

 吸い寄せられるように篤志も近付いていく――が、阻まれた。沙和に。


(……うそーん…なんで? なんで、こーなる?)


 彼女の手が額に当てられると、何のトリックだか魔法だか知らないが、呆気なく前進にストップがかけられた。篤志はピクリともせずに沙和を注視する。


「熱あるわよ? 今日はもう帰って休んで?」


 きっと疲れが出たのよと、掴んだ篤志の手をするりと抜け出し、立ち上がった沙和が篤志の背後に回り込む。そして棚の引き戸に仕舞われていた救急箱から熱さましのシートを一枚取り出し、背凭れ越しに振り返っていた彼の額に貼り付けた。


「体調悪いのに、幽さんがゴメンね?」


 そこで何故、沙和が謝らなければいけないのか。

 幽さんを擁護する沙和が面白くない。

 まるで幽さんが、彼女の特別みたいじゃないか。

 ある意味、特別は特別なんだが……。彼女が幽さんのために、頭を下げる必要はない。彼だって死んでいるとは言え成人男性なのだから、自分の尻は自分で拭かせるべきだ。

 篤志は敢えて沙和の謝罪に言葉を返さず、先ずは躰の心配に対する勘違いを正すことにした。


「…あ、のさ。違うから」


 救急箱の蓋を閉めている沙和を見下ろした。彼女はチラリと篤志を見てから、棚に救急箱を戻して立ち上がる。


「? なにが?」

「体調悪いわけじゃないから」

「顔真っ赤にして、嘘言わないの。帰ってゆっくり休まなきゃ」


 心配して言ってくれているのは分かってても、もどかしくて、そんな自分に苛立つ。


「だから違うんだって。もお、どう言ったらいいんだ? ……沙和がっ」

「あたしが?」

「沙和が……かっ」

「かっ?」


 目を瞬き、篤志の言葉を待っている。

 じっと見つめて来る沙和を見ていたら、急に躰が震え出した。


「篤志。震えてるよっ!?」

「む、武者震い」

「はあ? もう馬鹿なこと言ってないの! 家まで送るから、帰った方がいいよ」

「や、ちょっと待って。これだけ言わせて」

「なに? 何でも聞くよ?」


 真剣な顔をして篤志の手を取った。

 瞬間、キスさせてと言いそうになって、慌てて口を噤む。

(何でも聞くよは、マズイだろぉ。沙和さんよぉ)

 理性が吹っ飛ばなくて良かったと思う。危なかったけど。

 篤志は深呼吸し、沙和の両手を取る。彼女は首を傾げてその手を見、彼に視線を戻した。


「沙和が、好きだ」

「……うん。知ってる。あたしも篤志のこと好きだよ?」

「え…っと。多分、沙和の言ってる意味とは、違う……?」

「……ん?」


 沙和は眉を寄せて、困惑した笑みを浮かべる。

 どうしてここまで言っているのに察してくれないんだ、と勝手な憤りを感じつつ、


「俺が言ってるのはライクじゃなくてラ「ただいまーっ!」


 絶妙なタイミングで声が被さった。


「………」


 振り返るまでもなく声の主が誰だか分かる。篤志は一気に脱力し、背凭れにしな垂れかかった。

 彼には勝てない。

 八年の間に何度も挫折感を味わわせてくれた彼には。

 幽さんよりも強敵かも知れない。

 案の定、沙和が篤志の手を振り解き、満面の笑顔で近寄って行った。


「お帰り隼人」

「沙和お姉ちゃん、ただいまっ」

「冷蔵庫におやつ入ってるわよ。手を洗ってらっしゃい」

「やったね……あれ? あっくん。居たんだ?」

「居て悪かったな」

「そんなこと言ってないじゃん。何ヤサグレてんの?」

「ほっといてくれ」


 小学生相手になに拗ねているんだと思う。

 が、大事な局面で妨害されて拗ねなかったら嘘だろう。

 本気で泣きたい気分だ。


「……帰る」

「だったらちょっと待って。タクシー呼ぶね」


 そう言って沙和は固定電話を手にした。

 最早、溜息しか出てこない篤志の隣に隼人がポスッと座って、ニコニコしながら顔を覗き込んで来る。


「久し振りなのにもう帰っちゃうんだ?」

「よく言うよ」

「う~ん。ごめんねぇ? 沙和お姉ちゃんってば、僕が大好きだからさ」

「ははは……」


 力ない乾いた笑いが漏れた。

 隼人にまで牽制され、篤志は “呪われてるのかも” と本気で考えて、己の恋の行く末に不安しかないと、大きな溜息を吐いて項垂れるのだった。


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