桜花一片に願いを
東雲 彼方
What would you do?
『願わくば 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃』
これは西行が残した歌だという。「願うことなら、旧暦2月15日の満月の頃、満開の桜の下で死のう」という意味らしい。桜好きな彼女がまるで自分の口癖のように語っていた。
「桜の盛りにその美しい花々に見蕩れて最期を迎えたかったのかもしれないね。私もその気持ちはよく分かるよ」
そう語る妻の姿は何時に無く儚げで、凛としていたように思う。普段は天然でおっとりとした
どんなに強く咲いていた花であろうと、神の気まぐれによって刈られてしまえばその命も絶え果ててしまう。彼女もその気まぐれに巻き込まれてしまった、くだらない道楽による被害者の一人であった。もう亡くなってから一年になるだろうか、つい最近のことのように感じられてならない。毎朝起きれば、無意識に彼女を探してしまう。ふと食卓に目を向ければ、紅茶を入れながら「おはよう」と言う優しい声が聞けそうな気さえする。でももうそこに君はいない。いい加減学習しろよ、とも思ったりしない訳ではない。だが心の隅にまだ彼女の死を受け入れられていない自分がいるのもまた事実なのだ。ベージュの遮光カーテンをシャッと開け、深く空気を吸う。そして溜息ひとつ。鼠色の空を睨み、また今日も僕は息をしてしまう。
思えばこれまでの三十年間、後悔に塗れ、ただ淡々と惰性だけで生きてきてしまったように思う。楽しいことがひとつも無かったかと問われれば、否。然し大抵その後の嫌な出来事の要因は自分である。妻の死に際、餞の言葉でも送ってやれればよかったのだろうが、日に日に弱っていく彼女にどうにか返せたのは嫌味くらいなものだった。我ながら最低な野郎だと思う。いっそ「どうしようもない屑ね」と嗤ってくれれば楽になるのかとも思う。どうせ死ぬなら僕が死ねば良かった。そうすれば誰もが幸せであった。何度自分をそうやって責めてきたか今となってはもう分からない。少なくとも、三六五日考えているということは確かだ。
それでもいつか前を向かねばならないとも思っている。変わらなければならない。今のままでは結局現実と向き合おうともせず逃げ続けているだけ。自分が傷付くことを恐れて何も出来ないでただ同じ場所に立ち尽くしている。この時間こそが無駄なのではなかろうか。――動かねば。仕事場と自宅を往復するだけの日々。ほんの少しの勇気と多少の非日常的なスパイスがあれば変われる筈だ。だとしても受動的な思考のままでは変われない。能動的になれ、行動しろ。俯いてばかりの日常とは別れを告げるんだ。痛みに恐るな。この胸に刺さって抜けない数多の小さな棘は己の罪。背負い続ける覚悟を持たないままで怯えて蹲るのはもう終いにしよう、さあ動け。
どうにか鉛のように重い身体を持ち上げ洗面所へと向かう。冷水を顔に浴びせ、タオルで軽く拭う。鏡に映るやつれた顔の男を見て驚いた。こんなにも酷い顔をしていたのか、僕は。いつもは外に出れるだけの最低限の身だしなみだけ気を付けていればそれで良かった。だからこうしてまじまじと自分の顔を見つめることなど無かったのだ。こんなことにも気付けないくらいに現実から逃げていたんだな、と今更ながら自覚する。休日だからと放置していた伸びかけの髭を剃りもう一度鏡を覗くと、先程よりは幾らかましだろう。何か特別なことをするわけでもないが、まだ甘ったれている自分がそこに映っているような気がしてならないからと気合を入れるように頬を両手で叩いた。想定していた以上に響いてしまったパチンと鳴った音に少し驚きつつ自室に向かう。そういえばスーツと部屋着にしているスウェット以外を着るのも久しぶりだ。適当に箪笥の手前の方に入っていた薄手のパーカーと黒スキニーを選んだ。
着替えてどこかに出掛けようと考えたはいいものの、行く当てなど無かった。興味のある場所はおろか、行かなければならない場所も無かった。
「なぁ、
スマホのホーム画面に映し出された今は亡き最愛の女に語りかける。三十路の男がこんな情けない姿を晒していると知ったら周囲の人間は嗤うだろうか。それでも構わない。今の僕に必要なのは少しばかりの自問自答と彼女の記憶。いつまでも縋って情けないだなんて君は言わないはずだ。いつでも僕を肯定して支えてくれた彼女ならば、こういう時はどうするだろうか。そう考えたとき、僕はひとつの解に辿り着いた。
「そうだ、桜――」
楽しそうに笑う彼女の写真、その背景は満開の桜だった。
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