かいとう

中学12年生

第1話

 早朝の冷たい空気が、私の肌を指す。かじかんだ耳や指先には痛みすら感じられる。私は今、全身が体幹から凍結されているような感覚を身に染みて覚えながら、1人で学校へ急ぎ向かっている。


 と言っても決して寝坊して遅刻しそうになっているという訳ではない。今日という日だけ、この1日だけ、やらなければならない特別な事があるのだ。それを達成するために必要な教科書類の他にただ1枚、余計な紙をバッグの中に隠して、経験の浅い麻薬密売人のように挙動不審になりつつも、懸命に細い足を前に出し続けているのである。


 ほぼ自動機械のように足を動かし続けながら、やるべきことはやったんだ、と自分に言い聞かせる。いや、今までも、何百回と言い聞かせ続けて来た。今日のチャンスを逃せばもう次はないんだ、というセリフについても全く同様である。


 アスファルト上で隅に追いやられている土入りの汚い雪を尻目に、私は何日もかけて復唱し完璧に暗記したセリフを頭に思い浮かべた。それは、センスの良い友人の美絵と一緒に考えた自慢のセリフである。


 田中くんへ。今日の放課後、私にちょっぴり時間を下さい。自転車置き場の裏で待っています。そこで、あなたに……。


 そこで、不意に幾つかの確認事項が私の頭をよぎる。校門だ視界に入り、もう本番間近なのだ、ということを一層強く認識させられたからだろう。口臭はチェック、した。前髪は、大丈夫だ。肌は乾燥して、いなかった。問題ない。あくまで自然体。私は自然体で臨むんだ。と、そんな一連の逡巡の後、私は人の気配が全くない空っぽの学校へ足を踏み入れた。


 そして、下駄箱の前へ。何度か背後を振り返り、周囲に人が一人もいないことを十分に確認する。あぁ、もう目的地に着いてしまった。思ったよりも早かった。私の心臓の鼓動も速かった。


 バッグの中に押し込んだ手紙を取り出す。人に見られないように念を押して下の方へ押し込んだ手紙。それを取り出すのに、予想だにしなかった程、体力の消費を要求されたが、丁寧にそれを探し出し、彼の下駄箱の中へそっと忍ばせる。すぐに、その箱の扉を閉め、汗が滲み出る掌をハンカチで拭いながら、学校の図書室へ急ぎ足で向かった。


 後は待つだけ。そう思いつつ、外と同様に寒々とした図書室のテーブルに国語の教科書とノートを広げる。しかし、勉強をするつもりは露ほどもなかった。ただのカモフラージュのためにした行為だが、ずっとそうしているのも妙に落ち着かない。そこで私は、適当な文章を読んで時間を潰すことにした。


 鐘が鳴る。朝のチャイム。実は少し前から、生徒達の足音と話し声が耳に入っていた。そろそろ田中君は登校したのだろうか。彼は自分の下駄箱を見てどう思っただろう。不審に思ったかな。もしかしたら、こんな時代遅れの方法で思いを伝えようとする人間に対して失望したかもしれない。そう思うと、胸がキュッと痛くなった。


 周りに気を使いながら、教室へと向かう。いや、気を使うというより過度に警戒していただけだ。ゆっくりと教室のドアを開ける。彼はすでに学校へ到着していたんだ、とその時知った。教室は暖房が効いていて、そこはとても居心地の良い空間だった。暖房だけのせいではないかもしれない。


 そして、その日はいつもと同じように美絵と一緒に過ごした。私と笑顔で会話をしてくれるのは、家族を除いて彼女だけかもしれない。そして今日、そこにもう1人加わるかもしれない。

「ねぇ、あれ入れてきた?」美絵が小声で私に聞いてきた。私はコクッと頷く。「いよいよ、今日だね」と続けて彼女が言う。私はまた頷く。顔に微熱を感じながら。


 休み時間も私たちは同じようなやり取りをした。私が前髪を確認するためにトイレに入る度に、美絵は少し大きな声で私をからかうのだが、正直それに笑みで応じられるほど私の心に余裕は無い。


 そして、放課後が訪れた。私は、彼を手紙で呼び出した場所、自転車置き場の裏に一目散に走った。まだ、彼は来ていない。もう何度目か、前髪を手鏡でチェックする。そして私は、彼が来る時を辛抱強く待った。世界がオレンジ色を帯びていき、黒い影がどんどん長くなる中で私はそこに立ち続けた。


 しかし結局、彼は来なかった。待ち始めて数分間の間は、もしかしたら彼は忙しいのかもしれない、と思っていた。いや、そう思おうとしたんだ。午後の、冷たい無表情の風が吹くたびに、私の心は深く沈んでいった。


 そして、日が暮れた。私は悲しみと羞恥に体を太く貫かれて、足早に下校する。早く学校から遠ざかりたかった。しかし、正直家に帰る気にもなれなかった。帰宅した途端に、この経験が過去のもの、つまり同窓会で話すような笑い話と同じ次元に引き降ろされるような気がしたからだ。


 そこで、私は図書館に向かって暗い道を歩いた。日が沈んだ後の暗闇の中、公園の入り口付近にぽつんと立つ街灯の下、そこに美絵がいた。まずはそのことに驚いたが、今日の話を彼女に伝えることをすっかり忘れていた事を思い出したので、私は若干の罪悪感を覚えつつ、彼女に声を掛けようと歩み寄る。


 しかしその直後、私はその気を急激に失った。罪悪感も失った。彼女の隣に人がいる。男の子だ。街灯の下、僅かに確認できる彼の容貌は、私の想い人によく似ていた。

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かいとう 中学12年生 @juuninennsei

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