ー 3 -

「バッカじゃないの!? 死ぬとこだったよ?! それ!!」

「いやいや、そんな大げさな……」


 学校からの帰り道、なんだかすれ違う人がやけに興奮した様子で話してるなーって思って川をの方を見たら幼馴染が全身ずぶ濡れで転がっていた。


 いや、私も流石に意味不明だと思ったし、遂に彼奴も頭がおかしくなったのかって頭を抱えたくなった。頭がおかしくなったんじゃなくて犬を助けに飛び込んだって聞いた時は本当に頭を抱えたけれど。


 別に名だたる一級河川というわけじゃない。でも、人が死ぬのに水深なんて30cmもあれば十分で、それじゃなくたってあそこらへんの流れは緩やかな癖に水深はかなり深いし、下手しなくとも人は簡単に溺れ死ぬ。溺れるのに30cmも水はいらないのだ。なのにこの馬鹿はッ……。


「馬鹿だよね、ほんとッ……」

「分かってるって……、何度も言うなよ……」


 ハンドタオルで拭いたところで気休めにしかならなかった。早々に腕を引っ張り上げ、自宅へと連れ帰る。私のじゃなくて、此奴の。とはいってもお隣さんだから大して変わらないし、今日も夕飯は作りに行くつもりだったからついでっちゃついでではあるのだけど。


「ほーらッ、さっさとシャワー浴びて! 廊下は拭いとくから」

「ありがと……」


 髪も伸び伸びで。びしょ濡れの犬みたいだ。元々身なりに気を遣う方ではなかったけれど、ここ最近の人と会わない生活がよりそうさせているらしい。


「髪も、もうちょっとどうにかしなさいよ……。流石にみっともないと思うわよ、それ」

「ぁー……」


 気のない返事は分かっているのかいないのか。もはや社会不適合者と烙印を押されても仕方ない。


 以前は家のことだって自分でしていたというのに、仕事を始めてからは洗濯や掃除はするけれど料理は目に見えて手を抜き始めた。偏った栄養じゃ日に日に不健康になっていくし、叔母さんも忙しそうだったから余計なお節介をし始めて早3年。自分でも情けないとは思うがこれといった進展もないままにズルズルとこんな関係にもつれ込んでしまっている。


 小さなころからの幼馴染。親同士も仲が良く、小中高と同じ学校でそれなりに喧嘩もしたし、仲直りもした。切っても切れない縁を腐れ縁というのなら、私たちのこれはそれ以上だ。


 なんて、思っているのは多分私だけなんだろうけど。


 8年前――、いや、落ちて来るって知らされたのはそれよりも少し前だったから9年前になるんだろうか。目まぐるしい環境の変化にあっという間だった気がするけれど、中学校最後の年に私たちは病院で死を待つばかりの彼女と出会い、別れた。それは多分、半年もない付き合いだったけれど、いまでもまだ、彼奴の心の中にはあの人がいる。もう、忘れてもいい頃なのに。


 廊下を片づけて、台所で食材を冷蔵庫から並べていると問題の幼馴染が寝ぼけまなこでペタペタとリビングまで移動してくる。

 よれよれのスウェットで、タオルを頭に被せて、まるでお化けみたいだ。


「ちょっとー、だらしないよー?」


 そのままパタンとソファーに倒れ込んでしまった後ろ姿に投げかける。返事は呻き声となって返ってきた。


「5年の一度の天才が聞いて呆れる」


 この分だと、次の5年の一度の天才様に席を奪い取られるんじゃないだろうか。

 秋宮葉流。突如現れた期待の新星――、謎の高校生作家。色んな持ち上げられ方をしたけれど一番しっくり来たのは「5年の一度の天才」だった。私から見てもそこまで天才気質って感じではなかったし、確かに葉流の書いたお話は胸に来るものがあったけど、そこまで「凄い!」とは思えなかった。でも多分それは葉流が小説を書くって言いだした時から感じていた不安が原因なんだと思う。


 元々亡くなったお父さんが小説家だったからその「真似事」をしていたのは私も知っていたし、此奴が小説を書き始めたのだって血は争えないんだろうって思うことも出来た。だけど、実際の所、筆を取らせてのはあの人との出会いが原因だろうし、あの人との別れが、そうさせた事を私は知っている。


 いまの此奴を作り上げているモノ、それはあの病室で出会い、失ったあの人だ。


 だからこそ、私はいまでもまだ「お節介な幼馴染」なのだし、最後の一歩を踏み出せずにいる。いなくなった人に義理立てしてる。……なんていうのは、体のいい言い訳かな。けど、そうとでも思わなきゃ気持ちが整理が付かない。弱いなぁ……、なんて思いながらもう8年だ。


 いまはもう、ただの幼馴染で良いんだって気持ちも強い。別に此奴とどうかなりたいって訳でもない。……これも言い訳か?


「……どったの舞花。なんか考え事?」


 ふと、黙り込んだ私に何か思うところがあったらしい。長年の付き合いでお見通しなのはお互い様か。


「あー、ううん? 別にちょっとぼーっとしてた」

「指、切るなよ」

「分かってるよー」


 へらへら笑いながらもやっぱり考えてしまうのはあの子の事だ。


 文芸部の部室で本に埋もれていた女の子、藍洲夏帆。


 彼女の姿はまさかの双子か妹さんかと思うほどにまで似ていた。少し目つきが悪いのが違うくらいで、鼻筋も、細い顎のラインも、あの人そっくりだった。

 他人の空似、なんの繋がりもないとなれば世界中に自分と同じ顔をした人が3人いるというのはあながち都市伝説でもないのかも知れない。

 その事を話すべきかどうか、少しだけ考えてやめておいた。

 いまの葉流に話した所で何にもならない。


 第一、「そっくりさんがいたから、あの子で心の傷を埋めればいいよ」なんて冗談でも言えない。きっとあの子に出会えば塞ぎかけていた傷もまた広がる。

 同じ町に住む以上、出会ってしまう事はあるかもしれないけれど、これまでそう言った話は聞かないし、私だって一年間同じ学校に居たのにその存在に気付けなかった。案外すれ違う程度では人の顔などよく見ていないものだ。なら、出会わないように祈るばかりか。


「そういえば犬をさ、助けるときに変わった女の子が手伝ってくれたんだよ」


 自分の靴が濡れるのも気にしないで、まっすぐ俺の所までやってきて、犬を受け取ってさ。とその時の光景を改めて説明しながら葉流は苦笑する。

 ほっぺたの絆創膏はその時に張ってもらったらしい。消毒液まで持ち歩いている女子高生なんて、珍しいよな。っていうもんだから「私も持ち歩いてたよ。消毒液」と変なところで意地を張る。


 主にお母さんがカバンに入れてくれていたもので、結局最後まで使い切ることもなく、最後はどうしたのか覚えてさえいないけど。


「それがインスピレーションになるとかやめてよね。濡れた女の子からお話を生み出すなんて、なんだか変態じみていて気色悪い」


 一応教師としては女子生徒に近づこうとする変質者は放っておけないんですけど。

 包丁を突き出して真意を問う。すると葉流は再びソファーに身体を伸ばして転がるとへらへら笑った。


「それで書けるんなら母校訪問でもさせて貰うよ。舞花の働いてるとこ見てみたいし」

「バッカじゃないの」


 座学ならまだしも私は体育教師だ。それこそ女子たちの青春の一幕をこんな髭もじゃの変態に汚染させたくなどない。なんて言いながらそれで本当に書けるなら力になりたいと思う私もいる。それはなんというか、……教師失格だ。私情を持ち込むべきではないだろう。ましてや、「あの人」と同じ顔の生徒がいるからといって、二人を引き合わせようなんて思うべきではない。


 ――なんて、考えているとカチカチって随分と久しぶりに聞く音色が聞こえた気がして一瞬手が止まった。


 聞き間違えじゃない。


驚いて顔を上げるとリビングにずっと放置されていたノートパソコンを開いて葉流が画面をのぞき込んでいる。難しい顔をしているわけでもなく、何かを思いついた様子でもなく、ただ単純にカチ、カチとファイルを開いては閉じ、文字の羅列を眺めている。


「……葉流?」

「ん……なに?」

「なにって……」


 葉流は振り返ることなく画面の中の文字を追う。

 そうだ、一度だって、物語を書いているコイツの後ろ姿を楽しそうだと思ったことなんてない。


 誰に心を開くわけでもなく、ただ孤独に綴り続ける姿には苛立ちと、心細さを感じていた。

 それももう、慣れてしまったと言えばそれまでなんだけど。


「……なんでもない」


 小説を書くことに関しては何か言うことを私は諦めていた。何を言ったところで平行線を辿るだけだったし、葉流も葉流でそれを辞めようとはしなかったから。……そう、辞めることが出来ないからこうして不審者みたいな生活を送ってる。小説家になりたいわけじゃなかったハズなのに作家としてデビューして、本を三冊出して、そこが限界で、それ以上お話を書けなくて苦しんでる癖にあの人の事が忘れられなくて、縛られてる。作家っていう、生き方に。


 書けなくなってた癖にまたこうしてパソコンと向き合う気になったのは果たしていい事なのか。


 どっちが葉流にとって良い事なのか私には分からないけど、これ以上辛い思いをさせたくないって思うのは幼馴染だからってだけじゃない。あの人から、……葉流が好きだった冬華さんから託されたからだ。


 葉流の事を。あの人の、いなくなった後の事を。


 春の桜が咲く誇る季節。まだ河川敷に多くの桜が植えてあった頃に一度だけ、あの人を連れてお花見に出かけた事があった。病状が良くなるわけでもなく、ドナーが見つかるわけでもない。先の見えた、行き止まりへ突き進むだけの片道切符。過去に戻れないのは私たちも同じだけど、あの人の終点は私たちよりもずっと手前にあった。

「ごめんね」と、何の前触れもなく謝られたのをよく覚えている。


 桜吹雪の舞う中、葉流が少し席を外したタイミングであの人は私に言った。「私なんかが、思い出に入っちゃってごめん」と「我がままで、恩知らずの私を許して」と。笑顔を作ろうとしているのに瞳には涙が浮かんでいて、花粉症かな、なんていいながら困ったように苦笑した。


 私は、ズルい。


 あの時は上手く言葉が出てこなくて何にも言ってあげることが出来なかった。不安なのは、私じゃなくてあの人の方だったのに。あの頃はまだ、葉流の事とか、あの人との距離感とか、上手く呑み込めずにいて、どうせ時間が経てばこの人はいなくなるのにって思ってしまう自分が嫌だった。嫌だったから、残りの時間を使って一番の友達になろうとしたのに、結局最後は、上手く、笑えなかった。


 葉流は、私の幼馴染はきっと、まだあの人のことを想ってる。

 それは私が思うよりもずっと強くて、呪いみたいに、彼奴を蝕んでて。……そんな風に考えてしまう自分が情けない。


「ほーらっ、せっかくのご飯が冷めるでしょーっ?」


 なんて、おちゃらけて、誤魔化して。傍に居る理由を曖昧にぼやけさせないとここにいる事すら叶わない。


 そんな大人になってしまった私は、きっとあの頃よりもずっと、ズルい。

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