俺は幸運猫の飼い主さんとの恋路だけをひた走る

水瀬 綾人

第1話

 こういった話をよく耳にする。

 彼女が欲しければ高望みはするな。女を落としたかったら、レベルを下げろ。二番目に好きな人と結婚した方が上手くいく。

 ―――はぁ!?ふざけるな!

 たった一度しかない人生、もしかしたら一生を添い遂げるかもしれない恋人すらも妥協してしまえば、そいつの人生はそこでもう終わりだ。

 俺はそんな人生を歩みたくない。一番好きな人と結婚できた方が幸せに決まってる。

 俺は絶対に一番好きな人と結ばれるまでの恋路をただひたすらに進んでやる。




 窓の外は青空が広がっていた。

 学校の教室内は明るく、それでいて黒板を軽快に叩く音とシャーペンが走る音しか聴こえない。そこには、まるで音のソノリティの様な空間が広がっていた。

 そんな中、俺である望月詩衣は黒板に次々と記述されていく文字をひたすらノートに書き写していた。

「なぁ詩衣。猫の恩返しって知ってるか?」

「いきなり何の話だ?」

 授業中にも関わらず、後ろを向き話し掛けてきたのは同じクラスで友達でもある宏樹だ。

 一年B組出席番号30番、真島宏樹。

 身長は183センチと高く、制服の上からでは分かりにくいが結構良い体つきをしている。成績は学年で下から二十番目とかなり低いが、運動神経抜群。それでもって人当たりも良い。だが、髪をオールバックでキメてちょっとした田舎ヤンキー感を醸し出しているので、あまり人が寄りついてこない。その為、はっきり友達と呼べる人物は俺くらいなものだろう。

 宏樹とは中一の時に知り合い、すぐに意気投合した。それ以来、同じ高校に進学した今も宏樹とはつるんでいる。普段から宏樹と一緒にいるせいで俺にもあまり人が寄りついてこないことがネックなのだが、是非もないよねっ!

「昨日ネットサーフィンしてたら偶然見つけてさ、ちょっと気になってんのよ」

 こんなオールバックのヤンキーがネットサーフィンしていると他のクラスメイトが知ったらどういう反応するのか。少し気になる。

「へー、どんな話?」

 黒板の板書をノートにキリのいいところまで書き終えると、一度シャーペンを置き、頬杖をついて宏樹に耳を傾ける。

「幸運の猫を助けてあげると、その人にとって一番欲しいものをその猫が届けてくれるって話なんだけど・・・・・・」

「諦めろ、そんなのはフィクションだ」

 俺は話を遮るようにキッパリと言いきった。

 すると、宏樹は机を思いっきり叩いて、立ち上がる。

「―――お前には夢がないのかっ!!」

「バカっ!?いま授業中!」

 席を立ちいきなり叫びだす宏樹に、クラスメイト達の視線が一斉に集まった。

 視線の先では、グラサンをかけた日本史の教師、虎崎が大きく振りかぶった次の瞬間――パァッン!という炸裂音とともに宏樹の後頭部で白い粉が弾け散った。

「いってー!!!」

 宏樹は苦悶の表情を浮かべ、声を上げた。

 そして、クラスの誰かが吹き出し、それを皮切りに教室内が爆笑の渦に包まれる。耳に入ってくる笑い声が非常に煩わしい。

「くそ、ノートにシワができた」

 俺はクラスが笑いの渦に包まれる中、宏樹が机を叩いた拍子にできたノートのシワを手の平で伸ばす。

「真島、授業中だ。前を向け」

 虎崎は渋い声音で宏樹を注意すると、教科書に視線を戻し「781年に桓武天皇が即位し・・・」と再び教科書を読み上げ始めた。

「バーカ」

 ノートのシワを伸ばし終えた俺は、宏樹にぼそっと呟いた。

 宏樹は椅子に寄りかかると、顔を黒板に向けたまま身体をこちらに寄せてきた。

「あの野郎、元メジャーリーガーなのか知らないけど、思いっきりチョーク投げやがって・・・・・・いつかゼッテー訴えてやる」

 先程の光景を脳内でリプレイする。

「ぶふっ!チョーク、粉々になってたもんな」

 俺が口元に手を当て、笑いを堪えていると。

「そういや最近、太宰さんと進展あった?」

 いきなり宏樹は俺史上最も威力を持つ爆弾を投下してきた。

 コイツ、八つ当たりにも程があんだろ。

「おい、ここでその話はやめろ・・・・・・もし太宰さんに聞こえたらどうすんだ」

 ヒソヒソとした声で注意するが、宏樹は「へーきへーき」と軽いノリではね返す。他人事だからって不注意にも程があるぞ。

 俺は今の会話が洩れていないか不安になり、横目を太宰さんに向けた。

 窓側の最後尾に座る俺から見て、太宰さんは一席挟んだ右隣に座っている。

 一年B組出席番号21番、太宰涼鈴。

 彼女は同じ白浜高校に通うクラスメイトであり、俺の片想いの相手でもある。

 少し長めのツヤっとした黒髪に、大きな瞳。女優顔負けの小顔で端正な顔立ちと、程よく育った胸部は細身の腰ラインにより強調され、見るもの全てを魅了する。 制服であるチェック柄のスカートから伸びる細く白い脚はモデルと見紛うくらいに美しい。そして、誰に対しても優しく、コロコロと変わる可愛らしい彼女の表情は俺のストライクゾーンを超余裕でぶち抜いていた。

 いまの俺の目標は、そんな超絶美少女である太宰涼鈴をお嫁たんにすることなのだ。

「確かに太宰さんは可愛いよな。お前が好きになるのも納得だわ」

 そう言った宏樹は腕を組み、うんうんと頷いている。

 当たり前だ。太宰さんより可愛い女の子がこの世にいるとは思えない。それに、もしそんな人がいたとしても俺だけは絶対に太宰さんを選ぶ。

「ふふっん!聞いて驚け!俺はなんと太宰さん検定一級を所持しているのだ」

 自慢げに腕を組んでみせると、

「な、なんだとっ!?」

 振り返った宏樹は、まるで雷に撃たれた様な表情を浮かべていた。

「お前、太宰さん検定が何だか知ってんのか?」

「さぁ?」

 宏樹は首を傾げる仕草をしたが、全然可愛くない。むしろキモかった。

「太宰さん検定一級ってのは、制限時間10分以内に1200枚ある写真の中から100枚ある太宰さんが写った写真を選別し、太宰さんへの愛を測る検定のことだ」

 丁寧に太宰さん検定について説明すると、宏樹は訝しげな視線をこちらに向けてくる。

「お前、それホントにやったのか?」

「やった。まぁ林間学校の太宰さんが写ってる写真を大量に買ったせいで、担任の大倉には俺の想い人が太宰さんだとバレたけどな」

 俺がおどけてみせると、宏樹は顎に手を当てる。

「その写真販売って一ヶ月前のやつだろ?」

「そうだけど・・・・・・」

「一ヶ月経っても、あの大倉がお前の好きな人をバラさないなんて正気じゃない。一体、どんな魔法を使ったんだ?」

 宏樹は興味津々といった感じ、俺の解答を待つ。というか、コイツの大倉に対する評価めっちゃ低いな、まぁ同感だけれども。

 魔法なんか使っちゃいない。俺がしたのはもっと単純で、明快なことだ。

「次の定期試験で英語のテスト九割取ることを条件に、このことを明るみにはしないと誓約してもらった」

「・・・・・・・・・・・・は?」

 宏樹はポカーンと口を開け、間抜けな顔を浮かべる。宏樹のこんな顔は滅多に拝むことはできない。授業中でなければ、この顔を写真に撮って全世界に発信していたまである。

「この通り、誓約書もちゃんとあるぞ」

 俺は机の中からワードで書かれた一枚の誓約書をマヌケ顔の宏樹に貼り付ける。

 宏樹は顔から誓約書を剥がすと、さっそく目を通した。

「・・・・・・マジじゃん」

 誓約書から顔を上げた宏樹は、目を見張っていた。

 そりゃあそうさ。俺はその日、誓約書に判子を押す為だけに家まで判子を取りに戻ったんだからな。

「というか、詩衣って・・・・・・」

「なんだ?」

「英語できたっけ?」

「・・・・・・・・・得意ではないな」

 俺は英語以外の科目ならそこそこ良い点数を取れるのだが、英語だけは高得点を取った試しがない。

「前回の中間テスト、英語の点数いくつだった?」

「18点」

 包み隠さずに堂々と言ってのけると、宏樹は「ギャハハハ!」と腹を抱えて大爆笑した。

「し、仕方ないだろ!大倉の担当科目が英語だったんだから、英語で勝負せざるを得なかったんだから!」

「・・・・・・そこ静かにしろ」

 本日二度目の注意を虎崎から受けた。

 やべー、虎崎と目が合っちゃった。

 そんな中、宏樹は目の端に涙を浮かべ、必死に笑いを堪えている。

「詩衣って、たまに抜けてるとこあるよな」

 そう言って宏樹は目の端の涙を指先で拭った。

「うるさい。年中アホのお前に言われたくない」

 いくら何でも笑い過ぎだろ、こいつ。




 授業終了を報せるチャイムがなると、荷物をまとめた虎崎が教室を後にする。その虎崎と入れ替わるようにして、担任である大倉が教室に現れた。

 大倉は騒がしくなった教室を静かにさせると、すぐに帰りのホームルームを始める。

 主な連絡内容はもうすぐ期末試験が迫っていることぐらいで、他にもなんか話していたが重要な話ではなかったので右から左へ聞き流した。

 チラッと横目で太宰さんを見る。

 彼女は先生のどうでもいいような話もしっかり聞き、メモ帳に記していた。

 真面目だなと思いつつ、彼女の一挙手一投足を目を焼きつける。

 すると、彼女は髪が邪魔になったのか垂れた髪を耳にかけた。

 その仕草だけでも心はザワつき、気持ちが高揚したことが自分でも分かった。しかし、その熱は簡単に冷め、代わりにため息が漏れる。

 実ることはない、無意味な恋。俺はいつまでこんな惨めな片想いを続けなくてはならないのだろうか。そんなことばかりが頭をよぎった。

 日直の号令でホームルームが終わると同時に宏樹はこちらへ振り返り、声を掛けてくる。

「今日の放課後なにする?」

「どっか行くか、何か案ない?適当に決めちゃっていいぞ」

 俺は行き先を宏樹に一任することにした。悪くいえば丸投げだ。宏樹はうーんと唸りながら、行く宛てを真面目に考えている。

 すると、近くで会話してた女子達の声が耳に入った。

「最近、駅の近くにスタバできたらしいよ!ちょっと行ってみない?」

「え、まじ!?超嬉しいんだけど!行こ行こー!」

 そう言うと、女子達はすぐに鞄を背負い、教室を後にした。

 スタバって、確かコーヒーのチェーン店だったよな。妹がわざわざ隣街まで週一で通ってた筈。そんなに美味いのだろうか、少し気になる。

「なぁ詩衣」

「ん?」

 俺が視線を戻すと、宏樹は髪をかきあげた。

「俺達もスタバデビューしてみないか?」

 どうやら考えていことは同じだったらしい。それが少し可笑しくて、ちょっと嬉しかった。

「お前、スタバって何か分かって言ってんのか?」

「当然よ!スターバッコスの略だろ?」

「ブフッ!?・・・・・・くくっ、ぶっははははっ!」

 なんだよバッコスって・・・・・・やべー腹ねじれそう。

「何がおかしいっ!?」

 何って、全部に決まってんだろ。

 宏樹は何故俺が笑っているのか、いまひとつ分かってないようで動揺を隠せないでいる。

 こっちからすればスターバックスを知らない方が驚きだ。

 でも、ちょっと面白いので黙っとこう。

「ふふっ、いや、何でもない」

 そう言って俺は顔を逸らすと、

「変な奴だな」

 宏樹は不服そうに顔をしかめた。

 俺は立ち上がると教室を出る。それに宏樹も続いて教室を後にした。二人は一階にある昇降口を目指す。


 俺達の通う県立白浜高等学校の校舎構造は四階建てのシンプルな横長の形していて、校舎の前には大きなグラウンドとテニスコートが広がっている。

 構内の左側は一階から四階まで突き抜けた吹き抜けとなっており、その吹き抜けをぐるりと囲むようにクラス教室が設置されている。それに対し、右側は化学室や音楽室、家庭科室等の特別教室が設けられており、最奥には体育館も設けられている。移動教室の際は、基本的にこの右方にある教室で授業が行われることが多い。

 学年が一つ上がる毎にクラスは一つ下の階に移される仕組みになっているので、一年である俺は二年に進級するまでの間、ずっと四階にある自分達の教室まで通わなくてはならない。

 クラス教室のある四階から長い階段を下り、一階の昇降口で靴に履き替えてから校舎の外へ出る。

 すると、照り輝く太陽光が目を襲った。

 太陽の眩しさに思わず、手のひらで光を遮る。

 校舎の外は夏特有のじめじめとした暑さに浸され、汗でワイシャツが肌に張りつく。

 今は七月上旬。

 昼下がりの空は快晴とまではいかずとも澄み渡り、空の向こうに見える入道雲は夏の始まりを思わせる。

 昇降口からグランドの横を沿うようにして石甃で舗装された道を進み、正門前で足を止める。

「じゃ、駅に三時な!」

 宏樹はそうだけ言うと俺の返事を待たずして正門を出て左に曲がり、自宅のある駅方面へ向かう。

 宏樹をある程度見送った後、俺は駅方面の真逆に位置する自宅に向かうべく回れ右をして歩き始めた。

 学校から家までの道のりは、歩いて十分とかからない程の距離だ。

 落ち着いた足取りで街路樹が並ぶ帰路を進む。眩い太陽の光も生い茂る枝葉が遮ってくれた。

 日陰の中、肌を撫でる心地よい風は少し冷たくて蒸し暑い今日のような日には最適だ。

 街路樹が並ぶ通りを抜け、家へと続く街角を曲がろうとしたその時だった。

「シズクッ!?」

 向かいの歩道から女性の悲鳴が響き渡った。

 俺は反射的に悲鳴が聞こえた方へ振り向くと、視界に映った光景を見て目を見張る。

 瞳に映るのは、車道に出た一匹の猫。

 その先に、猛スピードでこちらに向かって来る一台の赤い自動車。

 猫は車に気づいておらず、呑気にそのクリーム色をした毛並みを毛づくろいしている。

 猫の近くには飼い主であろう、うちと同じ学校の制服に身を包む一人の女子生徒がいた。彼女は引かれそうになっているペット前に恐怖で足がすくみ動けずにいた。

 それを見た俺はなりふり構わず、道路へ飛び出した。

 自動車から発せられるクラクションが聴覚を通して脳に伝播する。

 ―――せめて、コイツだけでも。

 俺は猫の傍まで駆け寄ると、その猫を庇う様に胸に抱き寄せた。

 急ブレーキをかけた車が、勢いそのままに迫ってくる。

 ―――轢かれる!

「ッ!!」

 そう思い、目をぎゅっと強く瞑った。

 





 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あれ?

 いつまで経っても襲撃が来ない。

 俺は恐る恐る目を開けると、車のフロント部分が眼前まで迫っていた。

「うぉおおおぉぉっ、わぁっー!?」

 俺は焦って猫を抱いたまま仰向けに倒れてしまった。

 すると、停車した車の運転席側の窓が開き、運転手髭の濃いオッサンが顔を出す。

「急に飛び出てくんじゃねー!死にてぇのか!」

 運転手はそう吐き捨てると、一度バックしてから俺を避けて行ってしまった。

 体の力が一気に抜けていく。

「あっぶねぇー、死ぬかと思った・・・・・・」

 車に轢かれて異世界転生!とかにならなくて本当に良かった。

 もしこれで太宰さんとサヨナラとかだったりしてたら死んでも死にきれないからな。

 息を大きく吐いてから、空を眺める。

 俺が危うく死にかけたというのに、空は何事もなかったかのように青く澄み渡っていた。この時、初めて俺が居なくても勝手に世界は回るのだと確信した。

 胸の上では、助けた猫が腕の中から頭を出し大きくあくびをかいている。

「お前は呑気でいいな」

 愛くるしい姿に、つい頬をほころばせると、

「―――大丈夫!?」

 不意に誰かの声が聞こえ、俺の元まで駆け寄ってきた。

 俺をしゃがんで覗き込むその顔は逆光で見えづらい。よく目を凝らして見ると、目の前に映るその人物は俺のよく知る人だった。

「だ、太宰さんっ!?」

 俺は目を見開き、慌てて起き上がる。

「いたっ!?」

 あまりに勢いよく起き上がったため、しゃがんでいた太宰さんの鼻に俺のおでこがぶつかってしまった。

「ご、ごめんっ!?」

 どうしよ、太宰さんにおでこをぶつけてしまった。謝って許してもらえるだろうか。

 それにしても、どうして彼女がここにいるんだ。

 太宰さんは赤くなった鼻を抑え、涙目で訴えてくる。

 俺はどうしていいのか分からずにいると、太宰さんはゆっくり立ち上がり、鼻を抑えながら歩道に戻る。そして、ゆっくりとこちらに振り返った。

「そこにいたら轢かれちゃうよ」

 太宰さんは優しめな口調で注意してくれた。

 俺のことを心配してくれているのだろうか。それなら俺としてはかなり嬉しい。

 猫を抱っこしたまま立ち上がると、彼女に続くように歩道に上がる。

 歩道に上がった途端、猫は急に腕の中で暴れ出したかと思えば俺の腕をするりと抜けて、飼い主である太宰さんに擦り寄った。

 太宰さんは猫を抱えると、温もりを確かめるように胸に寄せる。

「生きてて良かった・・・・・・」

 太宰さんは朗らかな表情を浮かべ、猫の頭部を優しく撫でた。

「シズクを助けてくれてありがとね!」

 太宰さんは太陽が輝いたような眩しい笑顔をこちらに向ける。

 彼女のこんな顔を見たのは初めてだ。

「別に大したことしてないよ。それより太宰さんの・・・・・・」

「だめ」

 まだ特に何も言っていないのに、何故かダメだしを食らってしまった。何か気に障ることでもしてしまったのだろうか。

「えっと、ごめん。俺なんか嫌なことでもしちゃったのかな?」

 俺は恐る恐る太宰さんに尋ねてみる。

「・・・・・・なまえ」

「え?」

「同じクラスなんだから太宰さんとか、そんな他人行儀な呼び方しないで」

「じゃあ、涼鈴ちゃん・・・・・・とか?」

 口にした途端、顔が急速に熱を帯びたのが分かった。赤面した顔を見られたくなくて、反射的に顔を下に向ける。

 やべぇ、自分で言っておいて超恥ずかしい。顔赤くなってるのバレてないかな。

 少しだけ顔を上げて、太宰さんの顔を確認する。

 どうやら言われた当人も相当恥ずかしかったようで、顔が少し赤くなっていた。

「す、涼鈴でいいよ。高校生になってまでちゃん付けとか恥ずかしいし」

 そう言った彼女は、頬を仄かに朱色で染めると、手のひらで顔を隠してしまった。

 なんだ天使か・・・・・・。

 彼女の仕草はどれをとっても可愛らしく、俺を悩殺するには充分過ぎる。

「それもそうだね。じゃあ、太宰さん」

「むぅー・・・・・・」

 やば、癖が出た。

 むくれてる太宰さん可愛い過ぎかよ。

 いや、太宰さんじゃ駄目だったよな。

「じゃなくて、涼鈴」

「うん!」

 涼鈴はこくんと頷くと落ち着きを取り戻し、腕の時計をちらっと確認する。

 それから俺の顔を見ると、彼女の瑞々しい唇が動いた。

「・・・・・・まだ時間ある?」

 上目遣いで見つめてくるあまりにも愛らしい涼鈴の姿に、ノックアウト寸前だった俺のHPは限界に達した。

 やめて!私のライフはもうゼロよ!

「私、どうしても詩衣くんにお礼がしたくて」

 いま詩衣くんって言ったー!?太宰さ・・・・・・じゃなくて涼鈴が俺の名前を呼んでくれるなんて。あーでも、俺が彼女を名前で呼ぶんだから、涼鈴が俺を名前で呼んでも当然か。

 それにお礼って何だろう?プレゼントか?恋人の確約か?それともあんなことやこんなことをっ!?涼鈴、そんな大胆な・・・・・・あ、それ以上は、もう・・・・・・りゃめええええええええええええっ!!

 俺の脳内では様々な憶測が粒子の如く飛び交いまくっていた。

「だめかな?」

「駄目じゃないです!めっちゃ時間あります!それどころか暇過ぎて困っていたくらいですよ、あははは!」

「よかった。じゃ、行こっか!」

 彼女は制服のスカートを翻すとそのまま道なりに歩き出す。俺はそんな彼女の隣に並んだ。

 この千載一遇のチャンス、絶対にモノにしてやる!




 涼鈴と他愛もない会話を交わしながら、元来た道を戻るように学校の方へ向かっていた。

「シズクが家から脱走しちゃって、あんなことになってたのね」

「そうなの、普段はそういうことしないんだよ」

 涼鈴になんとか好感を持ってもらうため、彼女が飼っているネコの話題で話を膨らます。

 いま彼女が抱えている猫の名はシズクというらしい。猫種はマンチカン。小ぶりで短足、それに胴長。くりっとした瞳は可愛い過ぎて、もはや兵器と化している。

 その可愛さに惹かれ、シズクを撫でようとした時。学校の正門とは反対に位置する裏門に着いたことに気づいた。

「これからどこに行くの?」

 裏門の前を通り過ぎ、俺は涼鈴に行き先を尋ねると、不意に彼女の足が止まった。

 涼鈴が足を止めた場所は、学校の裏門から右斜向かいにある一軒家だ。

 外装は白く塗られ、オレンジ色の屋根瓦が斜め一直線に並べられたこの家は、清潔感漂うオシャレな感じだ。

 目立った汚れが見当たらないので、この家が建てられてからそれほど月日は経過していないと思われる。

 涼鈴は先に門扉をくぐり、玄関前の階段を上ると、振り返る。その際に紺色のスカートがはらりと翻った。

 下着が見えそうで見えないこの絶妙な塩梅が俺のフェチ二ズムを駆り立てる。

「ここ私の家なの」

 そのくらい表札を見ればわかるが、あえて口にはしない。それを口にした奴と思いやりがないと蔑まれる運命に遭うことは中学の時に幾度となく目にしてきたので、絶対に言わない。

 それに普段の学校でもあまり話したことない涼鈴が俺に話してくれるだけで嬉しいからな。

「綺麗な家だな」

「でしょ!」

 涼鈴は自慢げに微笑むと、

「準備してくるから、ちょっとここで待ってて」

 そう言って涼鈴は家の中に入ってしまった。その際、開け放たれた彼女の家の中からは、普段学校で涼鈴が纏っている香りと同じ匂いがし、その香りだけで勃起したことは言うまでもない。

「涼鈴ん家、いい匂いがしたな」

 再度、鼻をスンスンと鳴らし、霧散した涼鈴の香りをどうにかして味わおうと試みる。しかし、二度は上手くいかなかった。


 あれから三十分が経過する。

「準備にしては遅いなー、放置プレイか?もしそうなら涼鈴は策士だな。・・・・・・というか準備って何だ?」

 自分でもよく分からないことをぶつぶつと呟き、時間を潰す。

 そして更に五分後、俺がこの状況にすら興奮を覚えかけたその時。

 家の中からドタドタと物音が聞こえる思いきや、すぐに扉が開かれた。

「ごめーん、おまたせ!って、きゃぁっ!?」

「おおっ!?」

 玄関を出てすぐに涼鈴は、自らの足に盛大につまづいた。

 俺はつまづいた涼鈴を庇うようにして、正面から抱き寄せる。

 彼女からふわっと漂うシャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。

 傍から見れば家の前で別れを惜しみ、抱き合ってイチャイチャしている構図にしか見えないだろう。

 そう考えたら無性に恥ずかしくなり、顔が沸騰したように熱くなった。

 俺は慌てて涼鈴から距離を置こうとすると、涼鈴も同じタイミングで俺の身体から離れた。

「マジでごめん!」

「わたしの方こそ、ごめんなさい!」

 涼鈴は首筋から耳先までりんごの様に真っ赤に染め上げ、ぱたぱたと手のひらで顔を扇いでいる。

 やばいよやばいよやばいよやばいよ、いまギュってしちゃったよ、ギュって・・・・・・しかも、めっちゃいい匂いした!俺がキャッチしなかったら涼鈴は、階段から落ちて怪我していたかもだし、今のに限っては不可抗力・・・・・・不可抗力なんだー!

 テンパりすぎて頭の中がごちゃごちゃになる。

 それに抱き締めた時、なんかお腹に柔らかいものが当たってた・・・・・・アレって、やっぱりおっぱ・・・・・・。

 もう少しで世界の真理の辿り着くという所で、あることに気づいた。

 なんと、家から出てきた涼鈴は私服姿だったのだ。彼女が言った準備とは、着替えのことだったのだろうか。

「その・・・・・・ほんとにごめん。まだヒール履くの慣れてなくて」

 涼鈴はヒールを履いてますよとばかりに、つま先で地面を叩いた。

「なら、ヒールなんて履いて来なければよかったのに」

 俺が何気なしに呟いた一言で、涼鈴の顔は明らかに不機嫌になった。

「ばか」

 涼鈴は少し足を上げると、俺の足を思いきりヒールの先で踏んづける。

「痛ってぇえ!?」

 それから涼鈴は腕を組み、ふいっと顔を逸らす。

 まさか、涼鈴に足を踏まれるとは思ってもみなかった。どうせ踏むなら、黒タイツ履いて俺の股間を踏んでくれれば良かったのに。

 心の中でそんな悪態もとい性癖を吐くと、彼女の服装に目を向ける。

 膝上丈でふわっと広がる黒いフレアミニスカートに、フリルの付いた白いブラウス。

 初めて目の当たりにした涼鈴の私服姿に、言葉を失う。

 俺の視線に気づいた涼鈴は両手を伸ばすと、くるりとターンしてみせる。

「どうかな、変じゃない?」

 正直、オシャレ等に全く興味関心がない俺には何が良くて何が悪いのか皆目見当もつかないが、今の服装が涼鈴にとても似合ってることだけは確信できた。

「か、かわいいと・・・・・・思います」

 面と向かって涼鈴に堂々と可愛いと言うつもりが、土壇場でチキってしまい歯切れの悪いものになってしまった。

「ふふっ、ありがとう」

 だが、どうやら彼女は満足して頂いたようで、涼鈴は後ろで手を組み、前屈みになって小さく微笑んだ。

 そこで衝撃的なモノを目にしてしまう。

 それは緩くなったブラウスの襟元から覗く彼女の谷間だ。

 見ちゃいけないと思いつつも、胸部の引力に思春期真っ盛りの男子高校生が到底敵う筈がなかった。

「なんかぼーっとしてるけど、大丈夫?」

 不意に涼鈴が俺の顔を覗き込んだ。彼女の顔は目と鼻の先。

 それから彼女は俺のおでこに手を触れる。

「うおあっ!?」

 俺は彼女との距離に耐え切れず、体を後ろに逸らしてしまった。

 涼鈴はおでこの熱を測ろうとしたと思われる右手をそのままに、目をすっと細めた。

「なんで逃げるの?」

「ごめん。でも、とにかく俺は大丈夫だから」

 涼鈴の顔めっちゃ近かった。顔に吐息かかってたし。あーもう、クソッ!あと少しでチューできたかもしれないのに。

 俺は地面に崩れると、敷石に拳を叩きつけた。

 当然、俺にそんな甲斐性があるはずもないのだが、もしもの話で強がってしまうのは思春期男子の性なのかもしれない。

 涼鈴はそんな俺を不思議そうに眺めると、手を差し伸べてきた。

「座ってないで行こう?・・・・・・まだお礼できてないし」

 涼鈴は俺の左腕を掴むと立ち上がる。腕を掴む柔らかな手の感触が妙に心地好く、温かい。

「え?まだ終わってないって、お礼って涼鈴の私服姿を見せてくれることじゃないの?」

「そんなのお礼にならないよ」

 俺にとって彼女の私服姿はこれ以上ないくらいの素晴らしいお返しだったと思うのだが、どうやら違うらしい。

 涼鈴は俺の腕を引っ張ると、駅の方面へ歩き始める。

 いったい彼女は何処へ向かうつもりなのか。

 涼鈴に引っ張られながら駅までの道程を歩いている最中、すれ違う眼鏡をかけた男子生徒に「リア充は死ね」と悪態をつけられた。きっと彼は好きな子にフラれた直後で鬱になっていたに違いない。いぇーい、ざまーみろ!

 そこでパッと涼鈴の手が俺の腕から離れた。どうやら後は一人で歩けということらしい。

 俺は名残惜しいと思いつつも、まだ腕に残る小さな手の余韻を噛み締めるだけに留めた。それから彼女と足並みを揃える。

 閑静な住宅街を真っ直ぐ進んでいると、駅に近づくにつれマンションやビルといった高い建物が増えてきた。

「涼鈴は何か趣味とかあるの?」

 ただ隣を歩くだけで会話がないのはおかしいと感じ、思いきって質問してみた。

「買い物とか音楽聴くことかな、詩衣くんは?」

「え、俺?えーと、ゲームとか漫画」

「へー、そーなんだ」

 会話終了。俺は普段女子と話すことなど滅多にないため、こういう時どうやいった話題を出せばいいのか一切分からない。

 そこで俺は涼鈴が言うお礼とは何なのか気になるので、尋ねることにした。

「・・・・・・涼鈴、そろそろお礼が何か聞いてもいい?」

 彼女は別に隠しているつもりはないんだろうが、今までの会話でお礼について触れてこなかった。何か特別なものだったりするのだろうか。ちょっと期待しちゃう。

「そういえばまだ言ってなかったね。良いよ、教えてあげる!」

 涼鈴はポケットからスマホを取り出すと、画面を操作し始めた。スマホにはシズクによく似た猫のストラップがぶら下がっている。

 お目当てのものを検索し終えた涼鈴は、俺にスマホの画面をかざして見せてきた。そこに書かれていたものとは。

「スタバの期間限定フラペチーノだよ!」

「・・・・・・・・・・・・は?」

 スマホに映し出された画面をもう一度よく見てみる。

 そこには期間限定という見出しがあり、桃の果肉やらが詰まったフローズン状の飲み物が映っている。生クリームをもりもり盛られ、仕上げに桃を半液体状にしたピューレで彩られた、綺麗な飲み物だった。

「美味しそうだな」

「でしょ!」

 人類は期間限定という言葉に弱い性である。それは涼鈴ももれなく同様だったらしい。

「でも、どうしてスタバなんだ?」

 お礼ならもっと他にも選びようがあると思うのだが。

「さっきお母さんに友達へのお礼したいんだけど何がいいかな?って、相談したら『高校生なんてぇー、スタバでも奢ってやれば充分よぉ』って言ってたから」

 できれば、その話は聞きたくなかった。やはり涼鈴はド天然だ。

 それにしても声真似下手すぎだろ。実際に涼鈴のお母さん会った訳では無いが、絶対似てないってことだけは俺にも分かる。まあ、涼鈴の母さんの発言もだいぶ偏見入ってると思うが。

「面白い母さんだな」

「いや、普通だよー!」

 普通のお母さんは「スタバでも奢っておけば充分」なんて言いません。

「最近できたみたいだから、混んでるかもね」

「まぁクラスでも話題にはなってたしな」

 そこで今の自分の発言に引っ掛かりを覚えた。

 あれ?何か忘れてる気がする。思い出せそうで思い出せない。

「詩衣くんスタバ行ったことある?」

「今回が初めてかな」

「えーほんと!私も初めてなんだ!」

 涼鈴がスタバに行ったことないのは少し意外だった。なんたって涼鈴の母親はスタバを奢っておけば充分と豪語するからな。

 すると、涼鈴が嬉しそうに微笑んだ。

「一緒にスタバデビューだね」

 この笑顔が俺だけのものになればなと、つい思ってしまった。いや、俺に向けられてる今この時だけは本当に俺だけのものかもしれない。そうであればいいと願う。

 それにしても涼鈴と一緒にスタバデビュー、なんていい響きなんだ。

 にしてもスタバデビュー・・・・・・なんか既視感あるな。スタバデビュースタバデビュースタ・・・・・・あ。


 ―――俺達もスタバデビューしてみないか?


 思い出してしまった。

 宏樹との約束バックレたんだった。

 みるみる血の気が引き、体感的に体温が二度くらい低下したように感じる。

 俺はポケットからスマホを取り出し、無料の通話アプリの通知を確認した。通知は678件。

 通知の名前欄には宏樹の名前が表示されてある。

 やばっ、涼鈴と話すのに夢中で宏樹に連絡入れるのすっかり忘れてた・・・・・・。

「宏樹のやつ、ぜったい怒ってるだろうな」

 恐る恐るメッセージを確認してみる。

『駅前着いた いまどこ?』

『おーい約束の時間10分過ぎてんぞ』

『大丈夫か?事故とかにあってないよな?』

『不在着信』

『不在着信』

『不在着信』

 それ以降何度か不在着信が続きそれから、

『もう一人で行くからな!バーカバーカ』

 と送られてからの、中指を立てた煽りスタンプの超連打が200件近く送られてきている。

 これはまずい。宏樹が一人でスタバに向かったとしたら、お店でガッツリ鉢合わせする羽目になる。そんな事態は避けなくてはならない。

 ダラダラと嫌な汗が頬を伝う。

 俺は行き先をスタバから他所へ変更するため、涼鈴の方を見やる。涼鈴と目が合った。

 涼鈴ははにかむと、てへへと笑う。

「スタバ、楽しみだね」

「スズリ スタバ タノシミ オレ ウレシイ」

 そんな顔されたら、「別の所にしよう」なんて言えるわけねぇだろうが!

 家々やアパートが並ぶ住宅街を抜け、右に曲がる。すると、先程までとは景色が一変し、広い大通りが姿を現す。

 俺と涼鈴は目的地であるスタバが存在する駅周辺の都市部に足を踏み入れた。




 駅周辺の都市部は、ショッピングモールや家電量販店が建ち並び、その他にも数多くの飲食店が点在する。

 平日のおやつタイムであるこの時間帯は、買い物途中のおばさんや学校終わりの中高生達で賑わいを見せていた。

 そんな中、一際目立っている場所がある。それは最近になって駅の建物内一階にできたスターバックスだ。

 今までスタバに行くには電車を乗り継ぎ、隣街まで行く必要があったのだが、とうとうこの街も時代に追いついてきたようだ。

「やっぱり人多いねー」

「いま15時半だからな、学生達がちょうど集まる時間帯なのかもな」

 その証拠に、列を並んでるのはほとんどが女子中高生。きっと彼女らの一番の目的は友達とここに来た事実をSNSで写真をアップすること。自らをイケてると着飾るためにわざわざこうして列にまで列んで足を運んでいるのだろう。いや、そうに決まってる。SNSに取り憑かれた悪魔共め。

 だが、俺は違う。純粋にここの期間限定フラペチーノが美味しそうだったから足を運んだのだ。決して涼鈴に誘われたからとか、そんな理由でここに来たんじゃないんだからねっ!勘違いしないでよねっ!

 昨夜見た深夜アニメの好きなキャラを脳内で真似しながら、俺は涼鈴と列の最後尾に列ぶ。

 それにしても流石にこの列を宏樹が一人で列ぶとは思えない。少なくとも豆腐のメンタルを持つ俺だったら、絶対無理。男子高校生一人で列ぶとか恥ずかしくてお家に帰るぞ。

 まぁ彼を一人にした張本人が言える義理ではないのだけれど!

 列び初めてから約20分経過してようやく店内に通された。

 店内は茶色や黒色を用いた落ち着いた雰囲気が漂い、外できゃいきゃい騒いで女生徒も中では静かに注文したフラペチーノなるものを堪能していた。

 俺と涼鈴は空いている席を見つけると、そこに荷物を置いてレジに向かう。その際、荷物を盗まれるかもしれないので、貴重品は抜いておくことも忘れない。

 レジにもちょっとした列ができており、注文までに時間がかかるかなと思っていたがそんなことはなく、あっという間に俺達の番が回ってきた。

「お待たせしました、こんにちは」

 レジの横にはパンやケーキ等も販売されていた。

(・・・・・・美味そうだなあ)

 とりあえず俺は、メニュー表に目を落とす。

 なんかいっぱいあってよく分かんねぇな。まぁ今回飲むドリンクは期間限定フラペチーノと決まってるから、選ぶ必要はないんだけど。サイズはトール、グランデ、ベンティ・・・・・・あれ?Mサイズはどれだ?トールはたぶんデカいやつだろうから、このグランデってやつでいいか。

 俺は期間限定フラペチーノの欄を指さした。

「この期間限定の桃のやつを二つください」

「サイズはいかがなさいますか?」

「グランデで」

「すみません、この商品はトールサイズとショートサイズしかないんですよ」

 おい、ショートサイズなんてメニュー表には載ってないぞ。

「あ、そうですか。じゃあ、トールサイズでお願いします」

「カスタマイズはいかがなさいますか?」

 カスタマイズってなんだ?

 なんか後ろの客から「早くしろ」と無言の圧が発せられている。

 俺は何とかしようとして、涼鈴に援護を求めた。が、涼鈴は口元とお腹を手で押さえ肩をぷるぷる震わせている。

 もしやコイツ、俺が困っている様子を見て楽しんでやがるな。

 メニューにもう一度目を通す。すると、メニュー表の下の方にホイップ増量無料と書かれているのを見つけた。他にも50円でシロップを一つ増やせたりするようだ。

 俺は無料でできるホイップ増量だけカスタムしてみることにした。もちろん涼鈴の分もだ。

「ホイップ増量ですね、かしこまりました。お値段は合計で1350円になります」

 俺はポケットから財布を取り出そうとするが、それより先に隣にいた涼鈴が支払いを済ませてしまった。

「お礼するって、言ったでしょ」

 涼鈴はすぐに踵を返し、ドリンクの受取口に向かった。俺は店員からレシートを受け取ると、その後を追いかける。

 受取口で期間限定フラペチーノを受け取り、席に戻ろうと歩き出す。途中、コンディメントバーを見つけたので、涼鈴に声をかけた。

「こっちでも何かトッピングできるみたいだけど・・・・・・」

「私はこのままでいっかな」

「そっか」

 シナモンやココア、それにオレンジシュガーのパウダー系やハチミツといったトッピングが並んでいたコンディメントバーは凄く魅力的に映ったが、涼鈴が先に席へ戻ってしまったのでまたの機会にした。

「トッピングしてくれば良かったのに・・・・・・」

 席につくと、涼鈴がそう言った。

「いや、いいよ」

 俺は作り笑いを浮かべると、涼鈴は「そう」と呟き、手にしていたフラペチーノを口にする。

「―――んっ!?美味しい!」

 涼鈴は顔を綻ばせている。美味そうだな。

 俺はそわそわしつつ、ストローを咥えると、容器の中身を一気に吸い上げた。

 うまっ!?なにこれめっちゃ美味しい。

 桃の風味が口いっぱいに広がり、ゴロゴロとした果肉は歯ごたえがある。山の様に盛られたクリームは甘さが控えめで、クドくない。

 何よりさっぱりしていて飲みやすい!

 こりゃあリピーターが続出するのも納得の味だ。次来た時には、別の味も試してみたいな。

 脳内食レポを終えて、俺はフラペチーノから視線を上げる。

 涼鈴は黙ったままでいた俺を訝しんで様子を伺っていた。

「・・・・・・口に合わなかった?」

 涼鈴は不安そうに尋ねる。

 無理もないだろう。お礼の品が口に合わないとなれば、贈られた側も贈った側も良い気はしない。誰だってそんな事態は避けたいはずだ。だが、できればその台詞は手作り料理を振る舞う時に言って貰いたいものだ。

「そんなことない、めちゃくちゃ美味しいよ!」

「だよね!気に入って貰えて良かったぁ」

 涼鈴はパーッと笑顔になり、安堵に胸を撫で下ろす。

「それにしてもここゆったりできて良いよな。勉強とか捗りそう」

「それめっちゃわかる!」

 俺はドリンクを一度テーブルの上に置くと、店内を見渡してみる。

 レンガ造りの支柱に、天井からぶら下がっている黒い筒状の照明。そして顔のすぐ横には範馬勇〇郎のような鬼の形相を浮かべる宏樹。

「ぎゃああああああああああっ!!―――うわぁッ!?」

 俺は驚きのあまり発狂して、イスの上から転げ落ちる。

 すると、突然大声を上げて、イスから落ちた俺に他の客の目が集中した。

 俺は周りのお客さんにペコペコ頭を下げながら、ゆっくりと着席する。

「なにしてくれてんだオメェ!?」

 席に着いてそうそう俺は、制服を着たまましれっと俺の隣の席に座っている宏樹の胸ぐらに掴みかかった。

「かかかっ!詩衣がそこまで驚いてくれるとは思わなかったぜ」

 宏樹は声をあげて笑うと、にこにことした表情になる。

「それにしてもこんな所で会うなんて奇遇だね、詩衣ぐぅぅ〜ん?」

 宏樹は途中まで言ったところで、再び範馬勇〇郎みたいな顔になった。

 ごめんって・・・・・・だからそんな顔すんなよ。マジで怖いから。

 俺は掴んでいた胸ぐらをすぐに手放した。

「こんにちは、宏樹くん」

 涼鈴が胸の前で小さく手を上げる。それに宏樹が手を上げて挨拶を返した。それから宏樹は俺の肩を掴むと、二人で涼鈴に背を向けるようにしてコソッと耳打ちしてきた。

「おい、これはどういう状況だ?」

「俺が涼鈴とデートしてるだけだけど・・・・・・」

「だーかーらー、なんでそうなったのかって聞いてるんだよ」

「何言ってんだ?俺と涼鈴は元から結ばれる運命だったんだ。それが早まっただけだろ」

「ちゃっかり涼鈴とか呼び捨てにしてるし・・・・・・お前じゃ話にならん。本人に直接聞こう」

「バッカ!お前それだけはやめろ!」

 宏樹は引き留めようとする俺の手を軽く振り払い、涼鈴と正面で向き合った。

「ねぇ太宰さん・・・・・・なんで詩衣と一緒にいるの?」

 この馬鹿、なんでって言われたら涼鈴が困っちゃうだろうが。

 涼鈴はうーんと顎に人差し指を当て、俺の方をちらっと一瞥する。それからくすりと悪戯っぽく笑みを浮かべると、垂れた髪を耳にかけた。

「なんでって言われてもなあ、私がデートに誘ったから?」

 その言葉に俺と宏樹は同時に固まった。

 まさか涼鈴の方からデートという言葉が出るとは思ってもみなかったからだ。

 そんな俺達の様子を楽しそうに眺めながら、涼鈴はストローでフラペチーノをくるくる掻き混ぜている。

「冗談だよっ!さっき轢かれそうになってたシズクを助けて貰ったから、そのお礼にスタバ奢ってあげただけ」

 後から涼鈴はそう言ってからストローを咥えると、フラペチーノを全部飲み干してしまった。

「シズクってなんだ・・・・・・梟?」

 宏樹は今度、俺に質問を投げかけてきた。

 俺はストローを口に咥えながら、応える。

「涼鈴が飼ってる猫のことだよ」

「あー、なんだそういうことか・・・・・・ビックリした」

 宏樹は納得がいくと、分かりやすく肩を落とした。

「ごちそうさま。詩衣くん、もう飲まないの?」

 涼鈴はまだ半分ほど残った俺の容器に目を向ける。

「ん?ああ、もちろん飲むよ!」

 俺は容器に残った中身を一気に吸い上げる。全て飲み終えるつもりだったのだが、クリームだけが容器の底に残ってしまった。

 どうにかしてストローで吸い出そうとするが、なかなか上手くいかない。

「・・・・・・ねぇ涼鈴」

「なに?」

「このクリームどうやって飲んだ?」

 底に残ったクリームの塊を見せつける。だが、どういうことか涼鈴はきょとんと首を傾げた。

「そもそもクリーム残らなかったけど・・・・・・」

「なんっだと・・・・・・」

 では、このクリームたちは一体どうやって飲んであげたらいいんだ。

「スプーンで食べればいいだろ、そこにあるんだし」

 宏樹はそう言って、コンディメントバーを指さした。俺はコンディメントバーに向かう。すると、そこには確かに使い捨てスプーンが用意されていた。俺はスプーンを一つ手に取ると、宏樹に向き直った。

「お前、天才か?」

「そうでもあるかな」

 宏樹は裸眼のクセに、眼鏡をかけなおす真似をしてウザったらしい知的アピールしてきた。

 そういうことしてる時点で天才とはかけ離れていることに気づいていないのか。

「ふ、ふふっ・・・・・・あはははっ!」

 他愛もないやりとりを観て、涼鈴は必死に笑いを押し殺していたが、それも呆気なく決壊してしまった。。いったい何にツボったというのだろうか。

「もうだめ、耐えらんない!・・・・・・二人ともすっごく可笑しい」

 どうやら涼鈴はくだらないギャグがお好みなようだ。ここテストに出るよ!

 会話が途切れてしまったので、何か話がないかと、頭に検索をかける。すると、宏樹と話したアレがヒットした。

「そうだ。聞いてよ涼鈴」

「ん?」

「宏樹のヤツ、スタバの正式名称スターバッコスだと思ってるんだぜ!」

「なにィ!?違うのか・・・・・・?」

 宏樹は驚きを露わにすると、涼鈴へ回答を求めた。

 ユーいっちゃいなよ!

 俺は宏樹をネタに涼鈴が少しでも笑えばと思って出した話だが、返ってきた答えは予想とは異なるものだった。

「へ?・・・・・・違うの?」

 涼鈴は首を傾げ、目をぱちくりさせた。

 お前もかーーーーーーッ!?

「やっぱバッコスだよな!」

「うん!バッコスだよ!」

 宏樹は涼鈴と「イェーイ!」とか言ってハイタッチしていた。

 なにちゃっかり涼鈴の手に触ってんだ。ぶっ殺すぞ!

「いや、本当はバックスなんだって!」

 俺は少し慌てて訂正をさせようとするが、宏樹に「はい、知ったか〜」と全く俺の話を聞き入れなかった。

 クソっ・・・・・・これが数の暴力か!

「さて、俺はもう帰るけど二人はどうする?」

 宏樹はそう言うと立ち上がり、鞄を肩にかけ直す。俺は涼鈴と顔を見合わせてから。

「私たちも帰ろっか」

「そうだな」

 席を立った。

 涼鈴が飲み終えた容器をヒョイっと手に取り、自分の容器と一緒に返却カウンターの上に向かった。それぞれの容器を分別して涼鈴が使ったストローだけを手に取ると、出口に向かうため振り返る。

 すると、目の前に俺の鞄を持った涼鈴がいた。どうやら彼女だけは空の容器を捨てに行った俺を待っていてくれたようだ。

「捨ててくれてありがと!ハイ、これ」

「お、おう。ありがとう」

 俺は手渡された鞄を左手でしずしずと受け取った。

 あっぶねー!涼鈴の使用済みストローを回収してたの危うくバレるところだった。

 俺は後ろ手に持ったストローをこっそり尻ポケットに入れて、涼鈴とスタバを後にした。

 駅一階のガラス扉を開けて、外に出る。

 もうすぐ五時だというのに、空はまだ青かった。

 夏特有の湿った風が肌に纏わりつく。

「どうする・・・・・・帰るか?」

 この後、特に用事もないので涼鈴に判断を任せることにした。どっか行くなら着いて行くし、帰るなら家まで送っていってあげよう。涼鈴が俺以外の男に襲われることだけはあってはならないからな。

 涼鈴はうつむき加減になると、両手を音を立てて合わせた。

「ごめんなさい!これから両親とご飯行く約束あるから、ここでお別れになっちゃうの」

 せめてお家まで送ってあげたかったが、用事があるなら仕方ない。少しどころかめちゃくちゃ惜しい気もするが・・・涼鈴と二人だけで行動するなんて夢みたいなことが現実に起こったんだ。途中、邪魔が入ったとはいえ、それだけでも今日は良い日だったといえるだろう。

「・・・・・・そうか。スタバごちそうさま、じゃあね」

 俺は踵を返して軽く手をあげると、自宅がある学校方面へ歩を進めた。

「―――詩衣くんっ!」

 五メートル程離れたところで、背中越しに涼鈴があまり大きくない声を張り上げる。

 俺は足をぴたりと止め、何事かと思い、振り返った。

 涼鈴は手でメガホンを作ると、

「今日は楽しかったありがとう、シズクのこともありがとう!」

 シズクが助かった時と同じような明るい笑顔を浮かべていた。彼女のオレンジ色に照らし出された笑顔は夕日より眩しかった。

「また学校で・・・・・・」

「ああ」

 胸の前で小さく手を振る涼鈴に、俺は短く返事を返すと再び歩き出した。

 チラッと後ろに振り返る。涼鈴はこちらの視線に気づくと、朗らかな笑顔を浮かべてくれた。

 一度前に向き直り、しばらく歩いてから再び振り返る。

 視線の先に彼女の姿はもうなかった。

「さすがにもう行っちゃったか」

「俺はここにいるぞ」

「ふおっ!?・・・・・・って、なんだ宏樹か」

 毎度毎度、急に出てくるのやめろよ。心臓に悪過ぎるだろうが、宏樹も生活習慣病の一種に入れた方が良いんじゃないだろうか。

「お前、先に帰ったんじゃなかったのか?」

「ふっ、誰が先に帰ると言った」

 まぁ確かに、先に帰るとは言っていないけれども。

「お前ん家、こっちじゃないだろ」

 宏樹の家は駅の少し先にある。だが、俺達が今いるこの道は白浜高校へ通ずる道だ。完全に真逆の道だ。

「そんなこと気にすんなよ、相棒」

 そう言って宏樹は、俺の肩に腕を回した。妙に馴れ馴れしくて気持ち悪いなコイツ。

「で、何の用?俺、早く帰りたいんだけど・・・」

「これだ」

 宏樹は俺の前に緑のストローをぶら下げた。このストローには見覚えがある。

「それ、スタバーのストローだろ?それがどうし・・・・・・!?」

 俺は尻ポケットを確認する。あるはずのモノがなくなっていた。

「お前、それ・・・・・・」

「詩衣なら、やってくれると信じていたぜ!これは太宰さんの使用済みストロー・・・・・・だろ?」

 なんて嫌な信頼なんだ。初めから俺が涼鈴の使用済みストローを回収してくると思われていたなんて・・・・・・心外だ。

「―――返せっ!」

 俺はストローを取り替えそうとして、腕を伸ばす。だが、宏樹にあっさり躱されてしまった。

 それから宏樹は俺と距離を取った。

「そんなモノ奪ってどうする気だ宏樹ッ!!」

 焦燥混じりな叫声が辺りに響く。

 そもそも俺がそんなモノ持って帰ってどうすんだという感じもするけど、今は触れないでおこう。

 宏樹はニヤーッと口角をつり上げると、ストローを顔の前に持ってきた。

「こうすんだよ・・・・・・」

 それから宏樹は大きく口を開け、ストローの先を咥える。

「宏樹ッ、貴様ァァァッ!!」

「太宰さんの関節キスは俺が頂いたゼ!」

 俺が目の前で大切なものを奪われた哀しみに慟哭する。一方、宏樹は美少女との関節キスに成功し喜びからか有頂天となり、ストローを咥えたまま踊っていた。

 泣き叫ぶ奴と踊っている奴・・・傍から見たらかなりシュールな光景を繰り広げていることだろう。

 その証拠に先程から通行人達が、俺達と視線を合わせない様にして横を素通りしている。

「クッ、ククク・・・・・・」

 思わず、笑いがこみ上げてきてしまった。

「なに笑ってんだ詩衣?ショックのあまり頭でもイカれたか」

 踊りを辞めた宏樹は、訝しんだ表情で視線をぶつけてくる。

 ここからは、俺のターンだ!

「あっはははははっ!!お前がいま咥えてるストロー・・・・・・涼鈴のじゃないぞ」

 俺は宏樹が咥えたストローに指をさす。

「ハッ、そんな戯言に誰が騙されるか!」

 宏樹は俺の話を鼻で笑い、一蹴した。

 ・・・・・・仕方ない見せてやるか。

 俺はブレザーのボタンを上から外し、裏地を見せつける。それから内ポケットの中に収納されたもう一つのストローを見せつけた。

「こっちが本物の涼鈴の使用済みストローだ!」

 俺のポケットの中から緑色したストローがちょこんと頭を出している。

「じゃあ、コレはいったい何だ!」

 宏樹は咥えていたストローを手に取ると、前に突き出す。

 俺は宏樹の疑問に対し、肩を竦めてみせた。

「・・・そんなの俺が使ったストローに決まってんだろ」

「なっ、これが詩衣の使用済みストローだと・・・・・・!?」

 詩衣の使用済みストローって、なんか使用済みティッシュみたいなニュアンスで嫌だな。

「お前が待ち伏せして涼鈴のストローを奪いに来る可能性を考慮し、予めダミーを用意しておいたのさ!ざまぁないな・・・・・・って、こら!やめろ!俺のストローを舐めるな!!」

 宏樹は犬のように俺の使用済みストローの先を舐め始めた。

 おいマジでやめてくれ!!

 それから宏樹の表情がだんだん青くなっていく。そして、挙句の果てにゲロを吐いた。

 そこまで俺との関節キスは嫌だったのか、それはそれで凄い落ち込むんですけど・・・・・・というかゲロ吐くほど嫌なら最初からやるんじゃねぇよ。

 作戦は成功したものの、俺の精神的ダメージが大き過ぎて、全く喜べない。

「一粒で二度害悪ぅうう!!あははははッ!」

 宏樹は口の端にゲロをつけたまま、点を仰いで高笑いしてる。

 ヤベぇ・・・・・・とうとう宏樹が壊れた。

 宏樹は口の端についたゲロを拭うと、一目散に走ってこちらに向かってくる。

「そのストローをよこせぇぇぇッ!!関ッ!節ッ!キッスゥゥゥウウウウ!!」

「―――ッ!?」

 俺は腕を大きく振り、全速力で帰路を駆け抜ける。その間、宏樹もずっと俺の後ろを三メートル開けて追い掛けてきた。二人の距離がジリジリと縮まってきているのが、耳に届く足音で測れる。

 このままだと、すぐに追いつかれる。なんたって追い掛けて来ているのが学年で五本の指に入る足の速さを誇り、陸上部のエースとも互角以上に渡り合ってしまえる宏樹なのだから。

 俺は胸ポケットからストローを取り出した。

 この状況下で宏樹を撒くことはほぼ不可能に近い。なら、今ここで涼鈴との関節キスを済ませておくべきか。だが、涼鈴と初の関節キス・・・・・・こんな雑に済ませて良いはずがないのだ。

 やむを得ないと断念し、ストローを胸のポケットに戻そうとした――その瞬間。

 道路脇の凹凸が激しいひび割れていたアスファルトの小さな穴に足を取られた。

「―――あ・・・・・・いでっ!?」

 俺は前から倒れるよう盛大に転ぶと、まだ熱の残るアスファルトにヘッドスライディングをかまして突っ伏す状態となった。

「詩衣、大丈夫か!?」

 宏樹はすぐに俺の元へ駆け寄ってきた。

 我ながらなんとも惨めなところを親友に見せてしまったな。

 そう思い、転んだ拍子に怪我をした手のひらを庇いながらゆっくり起き上がる。その時、胸ポケットから緑色の、涼鈴の使用済みストローが道路脇に並ぶ鉄格子の中に吸い込まれる様にして落ちてしまった。

「ああああっ!!俺のストローがあああああああああああぁぁぁ!!!!!」

 鉄格子の中を覗き込む。奥の方にストローの影が微かに見えるが、取り出すことは困難だ。

 俺は放心状態になってガクッと項垂れる。すると、宏樹はそんな俺の肩に優しく手を置いた。

「別にストローの一本くらい気にすんなよ、お前には太宰さんの唇があるだろう」

(そうだ、俺には涼鈴の唇があるじゃないかっ!)

 ストローの一本に執着し、散々追い掛け回してきたコイツが何言ってんだと思いもしたが、俺には涼鈴の唇があるという考えだけには賛同なので真に受けておく。

「それもそうだな!」

 俺は心を入れ替え、元気良く立ち上がった。

「これ、落ちてたぞ」

 宏樹はそう言うと、クローバーの刺繍が施されたハンカチを俺に手渡してきた。

「おう、ありがとな!」

「それにしてもお前に似つかわしくない可愛らしいハンカチだな」

 宏樹はハンカチをまじまじと見つめ、ブツブツと呟きだす。

「これ借りもんなんだ」

「あー、そういうことね」

 宏樹は納得がいったとばかりにウンウンと頷いた。俺はハンカチをポケットにしまう。その時、ズボンの膝辺りに割と大きめな穴を見つけた。

 制服の破れた所から血が薄らと滲み出ていた。

 きっと傷口はグチョグチョになっていることだろう。見たら余計痛く感じるから見ないでおこう。

「これが涼鈴の唇を有している者への贖罪か」

「怪我、痛むだろ?お前ん家まで担いで行ってやるよ」

 宏樹は返答を待たずして俺の肩を担いでくれた。宏樹のこういう所は凄くあざといと思う。

「どうせなら、おんぶしろ!」

 俺は人差し指で訴える様に宏樹の横腹を突っついた。

「うるせーな、分かったよ」

 冗談のつもりで言ったのだが、宏樹は本当におんぶしてくれた。

 いつの間にかオレンジ色に染まっていた空に浮かぶ雲はいつになく綺麗だった。

 おんぶしてもらっているおかげでいつもより遠くを見渡すことができる。高い所から見る景色は最高だな。

「出発進行ーっ!」

 そう言いながら、俺は宏樹の頭をペシっと叩いた。

「テメェ、背中から落としてやろうか!」

 宏樹は俺をおんぶしたまま、クルクルと回転し始める。風が傷口に沁みて地味に痛かい。風呂に入ったらもっと沁みるだろうなと物思いにふけりながら家に帰った。

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