ゴールデンタイム・ブラックストレンジャー

猫柳蝉丸

本編

 どうしてこんなに寂しいんだろうなあと思う。

 季節は冬。日付は十二月二十四日。

 俗に言うクリスマス・イヴだ。

 俗に言わなくてもクリスマス・イヴだ。

 この日、つまり今日だが、僕は特に予定があるわけではなかった。 今日どころか、去年も一昨年もクリスマス・イヴは暇だった。 彼女がいないと言ってしまえばその通りなのだが……、いや、そうなんですよ。

 僕には彼女がいない。いないったらいない。 十八年の生涯で恋人なんぞが出来た事はない。 彼女が出来るチャンスはあった……と思いたい。女子とは上手く付き合っている方だと思うし、 二人っきりで遊びに行った事も何度かある。それ以上、音沙汰は無いけど。

 風の噂で、僕に人気が集まっているという話を聞いた事もある、一応。

 しかし、こうも毎年クリスマスを寂しく過ごしていると、それはやっぱり希望的観測だったんじゃないかって、そんな気がしてくる。

 だから、どうしてこんなに寂しいんだろうなあと思う。

 そりゃあ、好きな子はいなかったわけじゃない……はずだ。昔は僕だって人並みに恋をして、いつかは好きな子に告白したりして、女の子と付き合うようになるものだと思っていた。

 だけど、やっぱりそれは特別な人間でないと、無理なのだろうか?

 自慢ではないが、僕の周囲にまともに女性と付き合った事がある仲間は少ない。類は友を呼ぶと言うのか、男同士で寂しく傷を舐めあうのが常だ。

 でも、女子には彼氏がいる。何故かは知らないけれど、

 何故、この子に、と思う子にまで彼氏がいる。

 男と女では違うのか。女子は世渡りが上手なのか。ただ男子が馬鹿なだけなのか。

 まあ、考えても答えの出る事でもないんだろうけど。

「やれやれ……」

 そうやって僕は呟く。

 何だか不幸に浸っているのにも飽きてきた。 たまには不幸に浸っていないとやっていけないが、不幸にどっぷり浸かるのも結局自分の気を滅入らせるだけだろう。

 まあ、僕はこれまでも何とかやってきたし、これからも何とかなるんだろし、何とかするんだろう。 彼女がいないくらい、気にするほどの事でもない。

 ……そういう事にしておかないと、今日を乗り切れない気もするし。

 僕はハンバーガーショップの椅子から立ち上がって、店外に出た。

 街中、見渡せば周囲カップルだらけ。

 夢見るような仕種で、二人幸せそうに歩いている。こんな日に一人でいると、自分が他人より劣っている様な気がして仕方がなくなる。

 駄目だ、駄目だ。そんな事を考えてても意味が無い。

 こんな時は早く帰って寝るのが賢明なんだ。

 でも、やっぱり気にしてしまう自分も居る。

 心なしか周囲のカップルに、哀れみの視線を向けられている気がしてしまう。

 可哀想に。寂しい奴。情けない男。

 何となくそんな言葉が聞こえてくる気がしてくる。

 いやいや、僕は幻聴持ちではない。

 ええい、カップルども、寄るな寄るな!

 寄らば斬るっ!

 ……考えていて情けなくなってきた。

 本気で走って帰ろうかとさえ思った。

「まったく……、何だよ、もう。何だよ、カップル。何だよ、自分……」

 呟きながら歩調を速める。

 クリスマスはカップルで過ごすものだと決めた奴は誰なんだ、もう。

 そんな事を気にしてしまってる自分も何なんだ、畜生。

 そうやって、速足で歩いていたせいだろうか。

 僕は交差点から突然飛び出してきた人影を、避ける事が出来なかった。

「うわっ!」

「痛っ!」

 女性特有の柔らかい感触がしたかと思うと、

 二人でもつれてその場に倒れ込んでしまった。冬に転んだ経験がある人なら分かると思うけど、冬は肌が乾燥して筋肉が収縮しているために相当衝撃に弱いのである。単純に言うと凄く痛いのである。

「いったぁー……」

 思わず呟いてしまう。

 出血はしてなかったけれど、痛いものは痛いのだ。

 でも、立てないほどじゃない。

 僕は身体を払って立ち上がり、ぶつかった人に目を移して声を掛ける。

「すみません。大丈夫ですか?」

「いや、こちらこそ……、あら?」

「あっ……!」

 その場に倒れこんでいる人には見覚えがあった。

 と言うか、いつも見ている顔だった。

 それこそ下手をすればクラスの女子よりも見慣れた顔だ。

「誰かと思ったら、先生じゃないですか」

「何だ、貴方だったの? もしかしたら、美男子とぶつかったんじゃないかと思って、ちょっと期待してたんだけど」

「期待を裏切って申し訳ありません」

「別にいいわよ」

 先生が苦笑混じりに言って、僕も軽く苦笑を浮かべた。

 そう。僕がぶつかったのは、うちのクラスの担任の先生だった。

 クリスマス・イヴにぶつかった男女。

 そして、二人は顔見知りで教師と生徒。

 一昔前のドラマならそれでラブストーリーが始まったりするんだろうけど、残念ながら僕と先生という配役では無理があろうというものだった。

 片や特に目立たない冴えない男子生徒。

 片や三十代後半の国語の高校教師。しかも、既婚で二児の母親ときたもんだ。ちょっと太めなのがチャームポイントなのかどうなのか。

 これでラブストーリーが始まったら、むしろサスペンスの序章に過ぎない気がするぞ。

「どうかした? 先生じゃなくて、可愛い美少女とぶつかりたかったとか?」

「希望を言うとそうですが、別に先生でも構わないですよ。女性には違いないし」

「不倫はできないわよ?」

「しませんよ。僕にも選択の自由がありますから」

「棘のある子ねぇ。まあ、いいわ。ところでどったの? こんな所で一人きりで」

「別に何でもないです。ただ、通りがかっただけですよ」

 大きく先生が嘆息する。

 仕方ないなあ、と言わんばかりに。

「クリスマスに若い男子が一人きり。寂しい青春ねえ」

「放っておいて下され」

 僕の言葉を聞いた先生はその後暫く沈黙していたが、何かを思いついたのか突然非常に厭らしく笑った。前に見た事がある顔だ。確かあれはそう、クラスのイケメンを無理矢理女装させた時だったっけ。表情を崩さず、先生が僕の耳元で囁く。

「何だったら先生が付き合ってあげようか? 折角のクリスマス・イヴだし、付き合ってあげる。どうせ、暇だしね」

「謹んで遠慮させていただきます」

「まあまあ、そう言わずに。何なら無理矢理にでも付き合ってもらうわよ?」

「それでも教師ですか……」

「ほらほら、これは何でしょう?」

 先生はそう言って、僕の目の前に見覚えのあるキーホルダーを、自分のポケットの中から差し出した。と言うか、それは僕のポケットの中に入っていなければならないものだった。

「僕の鍵ッ! あんた、いつ盗ったんですか!」

「盗ったなんて、人聞き悪いわねぇ。落ちていたのを拾っただけよ?」

「それを盗ったって言うんですよ!」

「とにかく、返して欲しかったら分かるわねぇ?」

「鬼か……」

 僕の言葉を聞くと、先生は心底楽しそうに微笑んだ。

 まあ、そういうわけで、今年のクリスマス・イヴは、僕は既婚で子持ちでちょっとぽっちゃりした先生と一緒に過ごす羽目になってしまったわけだ。





 僕は終始先生に振り回された。

 元から「学生は遊べ」だの、「先生に恋をした生徒は成績を上げてあげる」だの、変な事を言う先生だと思っていたけれど、どうやら僕の想像以上の人間も存在するらしい。

 まず、カラオケに連れて行かれたと思ったら、ドロドロのド演歌をデュエットさせられたり、無理矢理アイドル系の恥ずかしい歌をリクエストされたりした。それらの曲を歌える自分もどうかと思うけど、それは棚に上げておく方向でお願いします。

 それに加えて、夕食に怪しげな古いラーメン屋をの中華そばを選んだ先生のセンスにも脱帽せざるを得ない。初めて行く店だそうだが、クリスマス・イヴに見知らぬラーメン屋をディナーの場に選ぶなんて褒めるしかなさそうだ。

 しかも、意外に美味くて先生に文句を言えない気分も味わわされたりした。不本意ではあるが、今後、行き付けにするとしよう。

 夜の公園に僕を連れて行って、カップルをからかったりもしていた。

 僕はベンチに座ってそれを傍目から傍観する立場に徹する事にした。

「私のような歳になっても若い子を連れられる女こそ、真の女よ!」

 とか言っていた。

 正論は正論なんだけど……。

 しかし、無理矢理生徒を連れ回す人に、それを言って欲しくない。

 本当に変わった人だな、と僕は先生に気付かれないように苦笑した。鍵を取られているとは言え、先生の気まぐれに付き合うなんて、僕も僕で相当変わっているんだろう。

 でも、決して素敵なクリスマスとはいかないのは間違いないけど、そんなに悪いクリスマスでもなさそうな気がした。少なくとも、これまでの人生で僕が過ごした十何度かのクリスマスの中では、かなり上位にランクするかもしれない。

 僕には父さんが居ない。

 僕が物心を付いた時には亡くなっていた。

 母さんは何度かクリスマスを盛り上げてはくれたけど、母さんの仕事が忙しくて僕一人で過ごすクリスマスも多かった。だから、クリスマスに関しては、恋人の有無に関わらずそれほど大層な思い出があるわけじゃない。

 それを考えると、もしかしたら今回のクリスマスは上位にランクされるどころか、断然トップのクリスマスなのかもしれない。非常に不本意ではあるんだけどね。

 だけど、そんな中で時折先生が見せる寂しげな表情が、僕の胸に刻まれていた。気になってしまう。いつも無駄に明るい表情を見せる先生の愁いに満ちた顔が。

 こんなにも。

 胸の中に。

 そもそも、クリスマスなのに、先生はどうして僕を連れ回しているんだろうか。

 待っている家族がいるはずなのに。

 夫もいて子供もいて、幸せな家庭生活を送っているはずなのに。

 それなのに、何故?

 僕はその答えを出す事が出来なかった。

 答えを出す事を拒否していたと言ってもいいかもしれない。

 口に出してしまったら、この時間が終わってしまう気がしていたからだ。

「ねえ、貴方」

 カップルをからかうのに飽きたのか、唐突に僕の隣に座って先生が声を掛けてきた。

「彼女は居るの?」

 ほっとけと言いたかった。

 ほっとけと言わせてもらいたかった。

 だけど、その口調は今までのからかった口調じゃなくて、

 ひどく真剣な声色が混じった物だったから、僕は何も言う事ができなくなった。

 何を言うべきか分からなかった。

 仕方ないじゃないか。 僕は女の人の扱いには慣れてないんだ。

 それが先生相手でも……。

 そのまま長い時間が過ぎた。……と思う。

 二人とも何も言わない。

 冬の冷たい空気が二人を包んでいるだけだ。

 冷たい風が、僕達の気持ちを代弁してるみたいだった。

 しばし無表情だった先生だったが、突如柔らかな微笑を浮かべた。

 何かのスイッチが切り替わったみたいに。

「そりゃそうか。彼女が居たら、寂しくクリスマスを一人で過ごしたりしないわよね。……分かってはいた事だけどね」

 口調は元に戻っていた。

 語調も今までと似た感じだった。

 だけど、少し違っていた。

 先生は無理をしているんじゃないか。何となくそんな感じがした。

 聞いてはならない事だと分かっていた。

 口に出してしまえば、この時間は終わりになる事も分かっていた。

 それでも僕は先生に訊ねていた。

 僕は少し不器用なのかもしれない。いや、不器用ってのは言い訳っぽいな。

 単に僕は重い空気に耐えられない小さな男だってだけだと思う。

「先生こそ、どうしてクリスマスに一人なんですか?」

 怒られるかと思っていたが、先生は小さく苦笑していた。

 それから、長い髪を掻き揚げ、眼鏡を鼻の頭に掛け直すと小さく口を開いた。

 その口調は寂しそうなのか楽しそうなのかは分からなかった。

「まあ……、女も三十過ぎると色々あるって事よ」

「そうですか……。そうですよね……」

 そうだ。色々ある。色々無いはずがない。

 生きてるんだから。

 生きて、家族を養っているんだから。

 それに僕が干渉しようだなんて、何ておこがましいんだろう。

 自分の不躾さに嫌気が差し掛けたけど、先生は話を続けてくれた。

 その色々な事を僕に教えてくれるために。

「先生もね、いつも面白おかしく生きているわけじゃないのよね。辛い事もあるし、生きているのが嫌になる事だってあるのよ? でも、そういうことばっかり考えててもさ。ますます辛くなるだけだしさ。だから、ね……」

 先生は僕に初めて見せる表情をしていた。

 夜の空気がそう見せているんだろうか。

 それとも、僕の心の中の何かが変わってきてるんだろうか。

「旦那とは普通に恋愛して、普通に結婚して、普通に生活してきたのよね。子供もできて、家族と一緒に過ごして、安定した生活を送って。そういうのが幸せなんだって信じてたし、そう思いたかったのよね。そりゃあね。でも、何かが……、違ってたのかも、ううん、何処かで私が間違ってたのかもしれないなぁ……」

 人に恋するという事。

 結婚するという事。

 それは僕が思っている以上に、複雑なものなんじゃないだろうか。

 先生の話を聞いていて、僕はそう思った。

 先生は幸せなんだと思ってた。

 いつも見せてくれる笑顔は幸せだから浮かべられるものだと思ってた。

 でも、本当にそうだったんだろうか。

 僕はいつも先生の笑顔に安心させられて、その裏にある物を何も見てなかったんじゃないだろうか。

 何も先生に限った話じゃない。

 いつも、さっきもだけど、僕はクリスマス・イヴに一人で寂しくて街に出てた。

 ハンバーガー屋で『あいつ』を見掛けないかな、なんて思ったりしながら。

 結局、幸か不幸か『あいつ』の姿を見掛ける事は無くて、多くの幸福そうなカップルの姿に僕の胸を抉られただけだった。

 幸福そうで羨ましかった。僕もそうなりたいと思った。

 でも……。

 あのカップル達は本当に幸せなんだろうかって今は思う。

 いや、多分、ずっとそう思ってたから、今日は予定も無いのに外に出てみたんだ。カップル達は本当に幸せなのか知りたかったから。

 勿論、独り身よりは幸せなはずだ。

 傍に誰かが居る事は幸せになれる事のはずなんだ。

 だけど、幸せそうなカップルの裏にある本当の姿を、僕は知らない。

 先生の抱えてる何かを知らないみたいに、僕は何も分かってない。

 僕はいつのまにか声を出していた。

 言葉にしていた。

 誰にも話した事がない事。

 でも、誰かに聞いて欲しかった事だ。

「僕は普通に恋愛する事をずっと夢見てきました。普通に告白して、普通に付き合って、普通にクリスマスを過ごしたりしたかったです。高校生男子ですからね、そういう夢くらい見ますよ。だけど、何て言うのかな? 別に自分に自信がないわけじゃあないし、恋する事に臆病なわけでもないと思います。でも、何て言うのか、何かが違うような気がするんです。恋愛をしようとして、どうしても踏み出せないんです。勿論、僕が単に女子から人気が無いってだけでもありますけど……。でも、恋愛ってそんな簡単な物なんでしょうか?  皆、恋をしているつもりで、ただ自分を愛しているだけなんじゃないかって。何だかそう思うんです。それは僕自身がそうだから。自分がそんな人間なんだって気がしちゃってるから……。『あいつ』に彼氏が出来た時に、そう傷付かなかった自分が嫌だったから……。だから、恋愛が分からなくて、恋も愛も、それどころか友情とか人間の絆とか、そういうのも全部分からなくなってきて。そう思い始めると、何も分からなくなっちゃって……、僕は……」

 どうしてこんな事を話しているんだろう。

 話しても何の意味も無い事だ。

 何て無駄な事をしているんだろうという気がしてくる。

 それでもやはり、僕は誰かに聞いて欲しかったんだと思う。

 とても無駄な事でも、それでも……。

 先生は何も言わなかった。

 ただ座って聞いてくれていた。





 二年前、僕は少し遅い初恋をしていた。

 相手は同じクラスで隣の席の女子。

 その程度の事で運命なんかを感じちゃうくらい、その時の僕は幼かった。

 その子を好きになった理由はよく憶えていない。

 人に恋をするのに理由なんて必要無い、なんて気障ったらしい事を言いたいわけじゃない。

 ただ単に本当に憶えてないだけだ。

 でも、今思い返すと見当も付けられないでもない。

 多分、僕がその子を好きになった理由は、外見が好みな方で、隣の席だから話す機会が多かったって、それだけの事だと思う。単純過ぎるけど、そんな理由で誰かに恋してるのは僕だけじゃなかったはずだ。特に高校一年生なんて時期は、色んな事に夢見がちな時期だから。単純な事に過剰な期待を寄せちゃう時期だから。

 なんて達観出来るほど、僕もそんなに年を取ってるわけじゃないが。

 その初恋の子とはそれなりにいい関係になれていたはずだ。何度か街に遊びに行った事もあるし、二人きりで文化祭の準備をしたりもしていた。

 文化祭の準備の途中、夕焼けに照らされるその子のはにかんだ顔を見て、綺麗だな、なんて思ったりして、そんな気恥ずかしくなる初恋だった。

 初恋は実らない。

 なんて言い出したのは誰だったのか。

 例の如く、僕のその初恋が実る事はなかった。

 あれは高校一年の冬休みの元日の事だ。

 その日、特に予定も無かった僕は何となく初詣に行ってみていた。

 初詣なんかあんまり行った事が無かったし、たまにはいいかな、なんて軽い気持ちで僕は一人で近くの神社に向かったんだ。

 神社は予想通りの盛況で、大勢の人がごった返していた。

 その人混みの中、僕は初恋の子を見つけていた。

 その子は知らない男と手を組んで、楽しそうに神社を巡っていた。

 見つけない方がよかったってその時は思ったけど、よく考えればその時にその子を見つけさせてくれたのは、ひょっとすると神の思し召しってやつだったのかもしれない。

 少なくとも、何も知らずにその子に告白して玉砕してたよりは、数段はマシだろう。

 どうしようもなくやるせない気分になったけど、

 僕は大きく溜息を吐いた後、一応初詣を終えてから家に帰った。

 何となく分かっていなくもなかった。

 多分、いや、きっと、僕はその子の恋人に値しない人間なんだろうなって。

 だから、思ってたより衝撃は少なかった。

 勿論、数日間はその子の幸せそうな笑顔を思い出して、

 思わず大きく嘆息しちゃうくらいの事はしてたんだけど。

 小学生の頃はおぼろげだったけど、中学に上がってから完全に自覚し始めた事がある。

 それは僕の容姿や性格は、女子にとってあんまり好ましい物じゃないらしいって事実だ。

 自分の外見を不細工と嘆いてるわけじゃないけど、どうも周囲の女子の反応を見る限り、少なくとも僕は美男子の部類じゃないらしい。

 いや、外見だけならまだしも、僕は性格的にも女子に受けが悪いようだった。幼い頃からよく読書をしていたせいなのかどうなのか、理に適わない女子の行動に冷静に口出しをしてしまったり、たまに真面目に過ぎる反応を見せてしまうのも、彼女達にはつまらなく見えてるみたいだ。

 それは仕方が無い事だとも思う。

 僕自身、自分は多少面白味の無い人間だって若干思ってる。

 授業の自習時間中、周囲が騒ぐ中で、真面目に勉強してる自分自身に苦笑したくなった事も一度や二度じゃない。

 その性格だけは変えるわけにはいかなかった。

 母さんに迷惑を掛けるような人間にはなりたくなかったから。

 だから、その事について、後悔はしていない。

 僕は間違っていないはずだ。

 でも、少しだけ考えちゃう時だってあった。

 神社の中で初恋のあの子と一緒に歩いていた男の事をたまに思い出す。

 一度見ただけだけど、何故だかはっきりと印象に残ってる。

 背が高く、茶色い長髪の男で、美男と言える顔立ちだった。

 外見だけで判断する事じゃないんだろうけど、軽薄そうな印象を持った。

 多分、実際に軽薄なんだろう。

 半年もしたらあの子と別れて、何事も無かったかの様に違う女と新しい蜜月を過ごすんだろうと思う。

 いや……、過ごしてるんだろうな。

 あの初詣から二ヶ月後、あの子が彼氏と別れたという話を又聞きした。

「おまえあの子と仲良かったみたいだし、あの子がフリーの今ならチャンスなんじゃないか?」

 なんてクラスメイトによく分からない気を遣われたりした。

 でも、僕はそれには苦笑して首を振る事で応じた。

 彼女への想いが冷め切ったってわけじゃない。

 フリーだろうとフリーでなかろうと、きっと僕の想いは彼女には迷惑だろうと思えた。

 彼女は僕と仲良くしてくれていた。

 一緒に遊びに行ってもくれたし、僕の手を取って笑い掛けてもくれた。

 だけど、それは別に僕の事を好きだったから取った行動じゃない。

 単なる友人として、気さくに振る舞ってくれていただけなんだ。

 その真意を勝手に取り違えられて、恋心に発展させられるなんて、迷惑以外の何物でもないだろう。


 それに……。

 どんなに軽薄だろうと、あの男の方が彼女は好きなんだろうと思うから。

 僕の様に面白味の無い人間よりも、遥かに。

 きっと。

 ちなみに彼女を初詣で見掛けてからも、僕と彼女の友人関係は二年に上がる直前まで続いた。クラスの行事を二人で過ごす事も何度かあったし、メールのやりとりも数回はあったけど、二年に上がって僕達のクラスが別になってからは疎遠になった。僕は僕で新たな人間関係を構築しなきゃいけなかったし、彼女も新しい生活に馴染んでいかなきゃならなかったんだろう。

 つまり、僕等の関係はその程度だったんだって事だ。

 それから更に一年経った頃。

 メールアドレスを変更した時、僕は彼女にそれを通知する事はしなかった。

 どちらにしろ、二年に上がる直前から僕と彼女は一度もメールをしていない。

 だから多分、それでよかった。





「旦那はさ……」

 黙り込んでしまった僕を気遣ってくれたのか、先生は独り言みたいに続けた。もしかしたら、先生も誰かに自分の話を聞いてほしかったのかもしれない。僕じゃなくても、とにかく誰かに話したいのかもしれない。


「旦那はいいマイホームパパよ。子供をすごく大切にしてる。家事を欠かさないし、家族も大切にしてる。私以外の家族を大切にしてる。子供は私に懐かないわ。何を言っても私の言う事は無視してる。クリスマスは旦那と旦那のおばあちゃんちに行ってる。だから、私は今日一人ぼっち。一人きりなのよ。……クリスマスだけじゃないわ。お正月も、雛祭りも、色んな行事でもね。いつも一人なのよ、同じ家に住んでるのに」

「そうですか……」

 それ以上、僕は何も言えなかった。

 何も言わなくてもよかったんだろう。

 先生は話をしたいだけで、返事を求めてるわけじゃないんだろうから。

 僕がさっきやったのと同じみたいに。

 横目に先生の表情を少しだけ覗き込んでみる。

 先生は自嘲めいた表情を浮かべて、更に絞り出すみたいに喉を震わせていた。

「滑稽よ? 毎日、私を無視して食事が始まってるの。家族三人で、お母さんなんて家には最初から居なかったみたいに。家族なのに、同じ家に居るのに、誰も私を見てくれないの。……私、何かそんなに悪い事をやっちゃったのかな? 仕事で忙しくはあったけど、家にはちゃんと帰って子供の面倒は見てたつもりよ。時間を作って、一年のイベントの時には家族で過ごすようにもしてたのに……。家族の事を大切にしてたつもりなのに……。なのに……。私、そんなに悪いお母さんだったかなあ……っ!」

 言葉の最後の方は泣き声も混じっていた。

 先生の悲痛な叫びが夜の公園の虚空に響いて、消える。

 僕は先生に何かを伝えようとして口を開き掛けて、すぐに閉じる。

 僕に何が言える?

 先生の家庭の事情を何一つ知らない僕に何が言える?

 きっと、何を言ってもそれは意味を成さない。

 僕の言葉も先生の独り言と同様に虚空に消えていくだけだろう。

 そうだ。

 僕等はクリスマス・イヴを共に過ごしているけれど、

 その行動には必然性も無いし、意味も無いし、何も無い。

 単に街で擦れ違っただけの顔見知りに過ぎないんだ。

 お互いの人生に関われるほどのそんな深い関係じゃない。

 いや、もしも仮に……。

 仮に僕と先生が年の離れた恋人同士であったとしても、僕等の抱える問題はお互いが交わす言葉程度で解決できる問題じゃない。

 でも、思った。

 僕等の会話が意味を成す事は無いだろうけど、お互いに独り言を虚空に向けて呟く事で、僕は思い始めていた。

 僕と先生は同じだ。

 幸福になりたかったんだ。

 幸福とは何なのかを知りたかったんだって。

 それが分かり掛けてきた時、

 僕の記憶の扉がまた一つ音を立てて開いた。





 遅い初恋が終わりを告げた後、

 僕が気にしていたのは一つ年下の幼馴染みの事だった。

 いつも一緒に居たというほどではないけど、僕には一人の幼馴染みが居る。

『あいつ』は元気で、小柄で、髪が短くて、弟みたいな女の子だった。幼い頃から何度も遊びに行った事があるし、僕は『あいつ』を弟みたいに扱ってた。まあ、多分、『あいつ』と僕は意外と結構ある幼馴染み関係だったと思う。

 何故だか『あいつ』は、僕みたいなつまらない人間の傍から離れようとしなかった。実を言うと、僕は自分の傍から『あいつ』がすぐに離れていくものだと思っていた。少なくとも、僕が高校生なった時点で、『あいつ』との縁は切れるものだと半分は確信していた。

 でも、僕が高校に進学しても、『あいつ』からの連絡が途切れる事は無かった。『あいつ』は何も変わらないで、年頃の女の子になっても僕と変わらずに遊びたがった。

 今思うと、『あいつ』の母さんは少し厳しい性格だったから、その息抜きのために僕と遊びたがってたんだろうと思う。

鬱陶しいと思わなくもなかったけど、僕を慕ってくれる年下の子が居るってのは、結構嬉しい事でもあった。

『あいつ』とはその関係のままで居ればよかったんだ、僕は。

 その関係のまま、『あいつ』を大切にするべきだった。

 それができなかったのは、僕が本当に愚かしい人間だったからだと思う。

 遅い初恋が終わった後、『あいつ』は僕を追い掛けるみたいに同じ高校に進学して来た。

 一年違う学校に居たあいつはいつの間にか成長していて、態度は変わらないながらも、弟とは全く異なる女の子の雰囲気を纏い始めていた。美少女というわけではないけど、笑顔の可愛らしい愛くるしい女の子に『あいつ』は成長していたんだ。

 その笑顔を見ていて、僕は思った。

 もしかしたら、僕にはこの子しか居ないんじゃないかと。

 自分に男としての魅力が一切無い事はよく分かった。

 軽薄に見えるあの男よりも数段劣る生き物だと自覚させられた。

 でも……、だから……。

 僕には『あいつ』しか居ないんじゃないかって、思った。

 長い間、傍に居た『あいつ』なら僕を受け入れてくれるんじゃないかって。

 本当に『あいつ』には迷惑この上ない話だと思う。

 それくらい、僕は焦ってた。

 それなりに深い仲ではあった初恋の子と疎遠になってから、不安で仕方無かった。

 あの子と付き合えなかった事は、別にいい。

 もっと早くあの子に告白していれば何かが変わってたのかも。そう思わなくもなかったけど、現実的に考えればそういう事も無さそうだ。早く告白してた所できっと僕とあの子の関係は何も変わらなかったはずだ。クラスが離れただけで疎遠になった関係だ。あの子と仲良くなれたと思った事自体、そもそも単なる僕の勘違いでしかなかったんだろう。

 だから、あの子に告白する前に振られた事は自業自得だ。

 でも、不安になる。

 僕が『あいつ』以外でそれなりに深い仲になれたのはあの子が初めてだった。

 あの子とそれなりに深い仲になるためには半年以上の時間が掛かった。

 それほどまでの時間を掛けて、それほどまでの関係になって、でも、僕は彼女のお眼鏡には全く適わない男でしかなかったから。これからまたあの子より深い仲になれる子が出来るなんて思えなかった。他の子との関係を一からまた構築し直すなんて、気が遠くなった。

 だから、僕は単純に『あいつ』に逃げようとした。

 そこそこの関係である『あいつ』となら、自分の胸の孤独を癒せると感じた。

 それこそ恋と呼べもしない浅ましい打算だ。

 その打算に身を投げようかと何度も思った。

 多分、誰だってやってる打算だ。僕がそれをやったって悪くないはずだった。

 だけど、僕はその打算をなけなしの理性で振り払った。

『あいつ』を思っての行動じゃない。

 浅ましい自分の妄想に嫌気が差しただけだ。

 そんな打算に身を任せるのが悔しかったからって、それだけだ。

 その程度の安っぽいプライドだけはあった。

 その安いプライドのおかげで、僕はどうにか『あいつ』の傍に逃げ込む事だけはしなかった。

 それだけはしちゃならなかった。

 でも、結果的に僕は『あいつ』を傷付ける事にもなった。『あいつ』と遊びながら、『あいつ』に逃げ込まないなんて、そんな器用な事は僕には出来そうになかった。

 だから、僕は『あいつ』への浅ましい感情に気付いてから、

 一度も『あいつ』からの遊びのお誘いに応える事はしなかった。

 一度でも一緒に遊びに行ってしまったら、僕は『あいつ』の胸に逃げ込んでしまっていたかもしれないからだ。

 それを拒否されるのはまだ構わない。

 一番恐ろしいのは僕を慕う『あいつ』がそれを許諾してくれる事だった。

 僕を受け入れてくれるのは嬉しい。

 でも、それは恋心でも何でもなくて、憐みの心からの行動でしかないだろう。

 僕は『あいつ』にそんな事をされたくなかった。

 それだけはどうしても耐えられなくて、僕は『あいつ』から離れた。

久し振りに顔を見た『あいつ』に、「彼氏が出来たんだ」と言われたのは三ヶ月前の事だ。読書なんて滅多にしないくせに図書室に顔を出した『あいつ』にそう言われた。『あいつ』はそれを伝えに図書室に僕を捜しに来たんだろう。

「そうか。よかったな」

 僕は多分笑って、『あいつ』の頭を撫でながらそう言った。

 これでよかったんだ。

『あいつ』のためにも、僕のためにも。

 その確信だけは今も揺らいでない。

 それでも気になるのは、僕が頭を撫でた際に『あいつ』の見せた寂しそうな表情だ。

『あいつ』が殆ど初めて見せる今にも泣き出しそうなあの表情……。

 瞬間、思った。

 ひょっとすると『あいつ』は本当に僕の事が好きだったんじゃないかと。

 心から僕を受け容れてくれてたんじゃないかと。

 自己陶酔にも程があるけど、僕にはそう思えてならなかった。

 だけど、それに気付いたところでもうどうしようもなかった。『あいつ』には彼氏ができたのだし、『あいつ』がいつかその彼氏と離れたとしても、僕が僕のその考えを『あいつ』に伝える事は永久にしない。してはならない。

 失恋の痛手に耐え切れず、『あいつ』に逃げ込もうとしてしまった時点で、

僕と『あいつ』の関係は終わってしまった。終わらせてしまったんだ、僕自身が。

 僕は『あいつ』にそれを背負わせてはならない。

『あいつ』は幸福になるべきだ。

 こんな浅ましい僕の事なんて記憶から消し去って。





 先生がイヴの夜の虚空を静かに見つめている。

 その瞳は寂しげと言うより、諦念に似た感情に支配されてるように見えた。

 嘆息を交えながら、また先生は僕に聞かせるわけでもない独白を続ける。

「別に嘆いているわけじゃないのよ? 一人で居るのは好きな方だしさ、私は一人でも生きていけると思う。私は一人で生きてかなきゃいけない。……子供が居る身でそんな事を考えるなんて、本当はしちゃいけない事なんだろうけど……。でもさ、私は必要とされてないのに、それでも私は私の子供達のために生きなきゃいけないなんてね……。当然、人の親になるってそういう事なんでしょう。孤独から逃げるために異性と肌を重ねるって、それを覚悟してやらなきゃいけない事なんでしょうね。私は目の前の幸せが欲しくてそれを選んだんだから、選んだ以上は一生自分の選択肢に責任を持たなきゃいけないのよね。分かってる……。分かってるのよ……。でもね、たまに疲れちゃうわよね。特に他の皆が幸せに見える日なんかは特に……」

 そうなのだろうと思う。

 僕も……、いや、僕だけでなく、人は根本的に孤独な生物なんだと思う。

 僕も先生も孤独で、きっと最終的には一人で死んで逝く。

 僕達は孤独なんだ。

 でも、孤独なのは僕達だけじゃない。

 生きている限り、誰もが孤独なんだろう。

 孤独だから、他人の幸せな姿を見ると堪らなく不安になってしまうんだ。

 自分は孤独じゃなくなれるんじゃないか?

 誰かと肩を寄せ合って、胸の中の孤独感を払拭する事が出来るんじゃないか?

 そんな気がして、誰かの傍に居たくなってしまう。

 誰かの優しさに期待したくなる。

 でも、それは自分勝手な妄想だ。

 哀しいだけの祈りなんだ。

 クリスマスの時期はそういう事を否応無しに実感させられる。

 クリスマスは自分以外の誰もが幸福に見える時期だから。

 幸福に見える人達の表面に胸を揺らされ、他人の幸福の裏側にある孤独や虚無感が見え難くなる時期だから……。

 だから、僕は今日寂しかったんだ。

 孤独なのは分かり切ってるのに、寂寥に胸を支配されそうになって、思わず街に脚を踏み入れてしまったんだ。

 僕が孤独なのは僕自身の責任もあるし、今はそれでいい。

 胸が張り裂けそうに痛むのも構わない。

 でも、せめて……。

 せめて、他人の幸福の中には、真実の幸福もあるはずだって思いたかった。

 真に心から安心して誰かの傍に居られる幸福もあるはずだって思いたかった。

 これまで何故か僕の傍に居てくれた『あいつ』が、

 今その幸福を噛み締めていてくれるはずだって信じたいんだ。『あいつ』だけは誰かの傍で幸福で居てほしい。その『あいつ』の姿を目にしたくて、会えるはずもないのに、広過ぎる冬の街に独り身で乗り込んだんだ、僕は。

 愚かな事をしたもんだ。

 馬鹿な事をしてるもんだってずっと考え続けてる。

 そもそも、それは多分、僕の得られなかった幸福感を、せめて『あいつ』には感じていてほしいっていう自己欺瞞に溢れた代償行為でしかない。『あいつ』が幸せになれているのなら、僕もいつかは幸せになれるんじゃないかって期待したいだけの醜悪な行為でしかない。

 だけど……、だけど、そうでもしなきゃ僕は……。

 僕は胸の痛みに浸食されて孤独の海に溺れてしまいそうで……。

 クリスマスってのはそういう時期だ。

 幸福でいなきゃならない。

 幸福でなければ生きてる意味が無い。

 そう思わされる時期だから、誰もがこぞって幸福になろうとしてるんだと思う。

 例えその幸福が完全無欠な見せ掛けだったとしても……。

「ねえ、先生?」

 僕は何となく立ち上がってみて、独白を続けていた先生の言葉に茶々を入れてみた。本当は先生の独り言に何らかの答えを出させてあげるべきだったろう。何かの言葉を掛けるべきだったんだろう。でも、残念ながら僕には、上手い言葉を先生に掛けてあげる事は出来そうにない。

 僕に独白を邪魔された先生だったけど、流石に不機嫌な表情を浮かべたりはしなかった。

 本当は不躾な僕の行動にかなり苛立ってるはずなのに、そんな素振りは微塵も見せなかった。変わって見えるけど、やっぱり先生は落ち着いた大人の女の人で、心を削ぎ落としかねない社会の荒波の中でも立ち続けてる教師なんだ。

 それが今の僕にはとても嬉しく思えた。

 先生が眼鏡の縁を軽く手で弄りながら、軽い感じに言った。

「どうしたの? もしかして、冷えてきたのかしら? 公衆トイレは公園の裏側にあるけど、あんまりお勧めしないわね。イヴだからねえ……。野外でハッテンするカップルも居ないわけじゃ無し。もしも、貴方がそれを出歯亀したいってんなら、教師としては一応止めなきゃいけないんだけど……」

「いやいやいや! 何を言ってるんですか、貴方は!」

 つい僕は普段の先生みたいな発言に突っ込んでしまっていた。

 さっきまでの孤独な独白が嘘みたいだ。

 でも、分かる。

 この下ネタだらけの普段の先生の姿も、さっきの孤独に溺れそうになってる先生の姿も、どっちも先生の本当の姿なんだと。

 僕達は孤独だ。

 ずっと孤独で、多分、これからも孤独だ。

 胸の中の寂しさが消える事は恐らく永久に無い。

 でも、きっと……。

 僕は軽く苦笑してから、先生の表情を見つめながら続けた。

 先生はいつの間にか笑っているみたいだった。

「違いますよ、先生。ちょっと寒くなってきましたし、場所を少し変えようかなって思っただけです。僕に付いて来てくれません? それに、そもそも生で覗くもんじゃないですよ、人のそういう現場は。そういうのはちゃんとしたカット割で演出を交えるから面白く観賞出来るんです。アダルトビデオってのは、そういう芸術なんです。生の現場とは全然違います」

「貴方も中々マニアックねえ……」

「伊達に先生の教え子じゃありませんから」

「褒め言葉?」

「一応は」





 ほんの少しだけ街の外れ。

 僕は先生を連れて古ぼけたマンションの屋上に来ていた。

 昔、小学生の頃に友達に教えてもらった場所だ。

 結構管理が適当で、誰でも屋上に上がれるちょっと珍しいマンションだった。

 高所だけに寒さが身に染みる。

 寒くなってきたから場所を変えよう、とはさっき言った事だけど、よく考えなくても公園よりマンションの屋上の方が寒いのは当たり前だった。先生には恨みがましそうに睨まれている気がしたけど、僕はそれを気にしない事にした。

 別にいいじゃないか。

 イヴを過ごす二人が肌寒さを気にしても仕方が無いってものだろう。

 屋上から先生と二人で見下ろした街並みは多くの灯りに彩られていた。

 眩いくらい、街は光に溢れている。

 綺麗で、輝いていて、その煌めきの数以上の人が、現在街で過ごしているのだという事を深く教え込まれる気がした。街には人が溢れている。僕達も含めて、幸せになりたかった人達が。

「これは穴場ね。こんな所を知ってるなんて、貴方も意外とやるじゃない?」

 屋上のフェンス越しに街を見下ろしながら先生が呟く。

 意外という言葉に否定が出来ない自分を情けなく思わなくもない。

 でも、それは気にしない事にして、僕は軽く微笑んでから先生の背中に声を届けてみる。

「いい場所……でしょ? 実は辛い時、寂しい時、僕は此処に来るんです。此処から街並みを見下ろしていると、自分ってすごくちっぽけな存在なんだなって思うんです。ちっぽけな自分が抱いてる悩みなんて、本当にどれくらい小さいんだろう。

そんな小さい悩みに苛まされるなんて下らないし、何だか馬鹿馬鹿しい……。そう思えるんですよね……」

 僕の言葉を届けると、先生は僕の方に振り返った。

 風に靡く髪を掻き上げ、小さく微笑んで言った。

「そうね……。って、何言ってんの、貴方は。新種のギャグか何か?」

「冗談ですよ、先生。言ってみたかっただけです」

「……冗談でよかったわ。こんなシチュエーションだし、言ってみたいって気持ちは分かるわよ。だけど、ネタでもそんな事言われたら、本気で引くわよ……。うわぁ……」

 先生はげんなりとした表情を浮かべた。

 その表情は僕に呆れているからというより、何かを思い出しての表情に見えた。ちょっと若く見える方だけど、先生もベテランの教師だ。これまでの教師生活の中で、本気でそんな台詞を言う生徒も何人か居たのかもしれない。

 ちっぽけな僕等の抱く悩みなんてちっぽけで下らない。

 その台詞は真理だと思うし、そう考えている人達を否定するつもりは無い。

 しかし、ちっぽけでも僕等の悩みは、確かに胸の中に……、此処に存在する。

 矮小で下等で愚昧でも、僕等は此処に居る。

 確かに此処にある苦しみから目を背けても、余計苦しむだけだろう。

 それは自分が自分でなくなってしまうという事だから。

 僕等はしがらみや安いプライドや下らないこだわりなんかで雁字搦めにされている。自分で自分を縛って、動き出せなくなってる。自縄自縛なんて、よく言ったものだ。だけど……。馬鹿馬鹿しいけど、僕は……、僕等は自分を縛る事をやめたくないんだと思う。

 棄てるのはいつだって出来るはずだった。

 でも、棄てたくない。

 これまで生きてきた自分を棄てられないんだ。

 結局のところ、自分を苦しめてるのは自分自身で、心の何処かで僕等はそれを望んでるのかもしれない。

 不器用なんて便利な言葉で片付けても仕方ない。

 単純に愚鈍なだけなんだろうな、絶望的なくらい。

 急に先生が笑った。

 僕と同じ考えに至ってるのかどうかは分からないけど、少なくとも先生と僕はすごく似通ってる考えを持ってるはずだ。だから多分、先生は僕と似たような事を考えて笑ったんだろう。

「下らない……。下らないよね……、私達は……。本当、馬鹿で笑っちゃうわよね」

 言いながら、先生が自分の鞄に手を突っ込んだ。

 しばらくして、先生は何かを掴んで鞄の中から手を出した。

 先生の手には大振りな出刃包丁が握られていた。

 僕は少し驚きながらも、心の何処かで納得していた。

 何度もそう思わなくもなかったんだ。

 だって、そうだろう?

 イヴに生徒を無理矢理連れ回すなんて無茶な行為、普段から無茶苦茶な先生でもそう簡単な気持ちでやるはずがないじゃないか。

 それでも、それをやる理由と言えば、二つしかない。

 本気で僕の事を口説こうとしているか、後の事を何も考えていないかだ。

 前者は有り得ない。先生の好みの男性は僕ではない。

 つまり、先生は後者を理由に、今晩僕を連れ回したんだ。

 恐らくは自分の最期の残滓を世界に少しでも残すために。

 先生は包丁を少しだけ見つめた後、苦笑してから続けた。

 その苦笑は意外にも自嘲的な笑みというわけではなかった。

 多分、そう、何もかもにただ苦笑してるだけの笑みだった。

「先生さ、この包丁でね、今日自殺してやろうかなんて思ってたのよ。どうせ一人なんだし、旦那や、子供達の事なんか何も考えたくなくってね。それで何処で死んでやろうかなんて考えてた。迷惑極まりないけど、袖擦り合った程度の他人を道連れにしようかともね。今の私が幸せじゃないのは私のせいだけど、私以外の誰かが幸せそうに暮らしてるのが悔しかったわ。誰か一人くらい、私と同じ目に合わせてやりたかった。……本当、愚か極まりないけどね」

 先生が空を見上げる。

 僕も先生の視線の方向に目を向ける。

 夜空には多少の星が瞬いていた。

 孤独な僕達が孤独なままにその星の仲間になるのも悪くないんじゃないか。

 何となく、そう思えた。

 足音が聞こえる。

 先生が包丁を持って僕の方に歩み寄って来ているんだろう。

 先生は僕を星空への道連れに選んでくれたんだろうか。

 一瞬、僕は思い出していた。

 僕は孤独で辛くて、死にたくなった事が何度もある。

 誰だってあるだろうし、それは一般的な事だと思う。

 でも、僕は自殺しようと思った事は殆ど無い。

 死にたいけど、自殺したくないなんて、矛盾した考えを抱いていた。

 それすらも恐らくは一般的で日常的な考えのはずだった。

 日常茶飯事だけど、インターネットなんかを見てると、よく見かける言葉がある。何処かの国で戦争が起こったり、誰かがミサイル飛ばしたり、隕石が地球に衝突するって噂が流れたりすると、本当によく見る言葉がある。

"やっと死ねる"って言葉。

 死にたいのなら自殺すればいいのに、

 自殺以外で死にたい人達の、僕達の胸を支配してる言葉。

 自殺で死にたくない理由は、やっぱり死ぬのが恐いからってのもあるんだろう。

 臆病な言い訳に過ぎない事も多々あるんだと思う。

 でも、きっともう一つ理由がある。

 きっとそう、恐らく自殺は敗北だからだ。

 自分を追い詰めたのは世界なのに、自分だけ世界に敗北する形で死を選ぶなんて悔しいからだ。他人が幸せそうに暮らしているのに、自分だけ絶望して死ぬなんてどうしようもなくやり切れない。

 でも、誰かを道連れにする事も愚かしくて出来ない。

 だから、僕達は自殺以外で死にたいんだと思う。

 少なくとも他殺であれば、死を迎えるのは自分の責任じゃない。

 自分は世界から逃げずに立ち向かったって矜持を持てるんだ。

 それが世界に必要とされてない僕達の見つけた最期の救済だ。

 先生が僕の間近にまで近付いて足を止める。

 手を伸ばせば届く距離で、先生が包丁を見つめながら笑う。

「死にたい……。死にたくなるよねえ、特にクリスマス・イヴなんか特に……。死んじゃいたいけど、でも、一人じゃ寂しいよね。ねえ……?貴方も先生と一緒に死んでくれる?」

 今夜、僕と先生は死ぬ。

 幸福でなければならないはずの日に、僕達は命を絶つ。

 何だかそれは非常に素晴らしい事の様な気がした。

 甘美なる死への誘惑が僕の中で膨らんでいく。

 僕等に生きている理由は無いし、生きる理由も無いし、僕等が生きている事を望んでる人達もあんまり多くないだろう。こんな孤独感に苛まれながら生きる必要なんて、あるはずも無い。

 だから、躊躇う必要なんて何処にも無い。

 死んでもいいんだ、僕等は。

 無理して生きる必要なんてあっちゃいけないんだ。

 僕等が死にたいと思った時、それが人生の幕が降りる日でもいいはずなんだ。

 僕は包丁を持っている先生の右手に自分の手を重ねる。

 微笑んでみる。

 周囲からあまり好評でない笑顔を浮かべて、僕は言う。

「そうですね、先生。僕等は今日死んでもいいんじゃないでしょうか。幸せである事を強要される日になんて、生きていなくてもいいんじゃないでしょうか。僕もね、思うんです。自ら死を選ぶ事は間違った選択じゃないはずだって。何処何処までも生きていかなくてもいいはずなんだって」

 先生は僕の言葉に頷く。

 それ以上の言葉は必要無いかもしれない。

 多分、そう。僕と先生は同じだから。

 僕も先生も幸せになりたくて行動してた。

 結果が少し違っていただけで、僕等は同じ性質の人間なんだ。

 僕は目の前の幸せに逃げ込む事は出来なかった。

 幸か不幸か、僕の想いを受け止めてくれる女子は居なかった。

 だから、目の前の幸せに逃げ込めず、一瞬の幸せの後に新しい絶望に苛まれる事も無かった。

 先生は目の前の幸せを手に入れるチャンスがあった。

 幸せになるために先生はそのチャンスを掴んだ。

 先生には家族が出来て、束の間の蜜月を得る事が出来た。

 でも、何処かで歯車が狂って、いや、もしかしたら、それすらも予定調和の内に先生は幸福を失った。当たり前のように、幸せではなくなった。家族の中で、家族を失った。

 それが僕と先生の僅かな相違点。

 幸福になり切れなかった僕等の現実。

 イヴに独りで過ごす僕等の絶望の片鱗。

 今、死んでしまえたら、どんなに楽になるだろう。

 だから、僕はまた笑った。

 心の底から滲み出るような笑いを止める事が出来なかった。

「ねえ、先生? 死ぬのは魅力的ですよね。死は救いで、幸福でもありますよね。死んでしまいたいって気持ちは、これまでも、これからも消えないと思います。でも、先生……、それには一つ大きな問題があるんですよね」

「大きな問題……?」

 きょとんとした表情で先生が首を傾げる。

 出刃包丁を手に持ちながら、それは無駄に可愛らしい仕種だった。

 僕は大きく嘆息してから続ける。

「女性の自殺は衝動的な事が大半だから、目撃した際には止めなければならないと前に先生から教わりました」

 一瞬にして、二人で押し黙る。

 イヴの夜空の下、見つめ合う恋人みたいな沈黙が僕等を包む。

 数秒後、先生が包丁を持ったまま手を叩いて笑った。

「あはっ。あっははははははは! 何言ってんの、うひゃひゃひゃひゃひゃ!」

 普段、実年齢より少しは若く見える先生だけど、その行動は途轍もなく巷に溢れるおばさんっぽかった。まあ、先生もそういう年齢なんだから、行動がおばさんっぽくても何の問題も無い。

 うひゃひゃひゃって笑い声はどうかと思うが。

 一頻り笑った後。

 笑い過ぎて流れてしまったらしい涙を拭いながら、先生は持っていた包丁を自分の鞄の中に仕舞い込んで言った。

「確かに言ったわね。自分にその言葉が返って来るとは思わなかったけど、言ったわ、間違いなく。女は約束をすぐ忘れる生き物で、凄く刹那的に生きてる。感情で動く事もしょっちゅうだし、衝動的な自殺も多い。心中に憧れる男は少ないけど、心中に憧れる女は大勢居るものね。それに孤独に疲れてイヴに自殺を選ぶなんて、ありふれた自殺でしかない……か。ワイドショーでも精々二日騒がれたら、それで終わりなんだろうなあ……」

「二日も保ちませんよ、多分。視聴者は常に新鮮な話題とお涙頂戴の悲劇と他人の不幸を望んでるんです。まあ、僕に言えた義理じゃありませんけどね。僕だって痴情のもつれから発生した刃傷沙汰にほくそ笑む事がありますし」

「暗いわねえ、見た目に違わず」

「申し訳ありませんね、根が暗くて」

 その先生の言葉には概ね同意する。

 でも、恐らくそれは僕だけじゃないはずだ。

 幸せじゃない人間は、いや、幸せな人間だって、誰もが他人の不幸を望んでる。他人の不幸を笑いたいだけじゃなく、自分が他人より少しでも幸せなんだって思いたくて、他人の不幸を望んでるんだと思う。

 人は幸せになりたいから、絶望に陥ってる。

 周囲の誰かよりも幸福になりたいから、自分独りで勝手に堕ちて行ってる。

 自分以外の誰かが幸福だと凄く嫌な気分になる。

 クリスマスはそんな醜い自分を何よりも強く自覚させられる日だ。

 だからこそ、クリスマスは自分の孤独が嫌になるし、衝動的に死にたくもなる。

 でも、思う。

 先生と話して、先生の姿を見ていて、自分の姿を見せられているようで、気付けた。

 他人が幸福に見えても、その他人の幸福も多分長くは続かない。クリスマスに感じられたはずの蜜月の時間はすぐに終わりを告げる。僕が初恋のあの子に感じたはずの絆が、気のせいであったように。家族が増えたはずの先生が、その家族から必要とされてないように。

 幸福は何時かは消える。すぐに消失する。

 別に絶望するべき程の現象でもない。

 極当然に起こる、極当然の人間の人生なんだろう。

 勿論、それは少しだけ哀しくて寂しい事ではあったけど……。

 皆、そうなんだ。

 孤独なのは僕と先生だけじゃない。

 人間という生き物自体が孤独な生き物なんだろう。

「にしても」

 不意に先生が真顔になって続けた。

「何となく出した話題を、貴方が憶えてるなんてね。女は衝動的な自殺が多いなんて私が話したの、四月頃でしょ、確か」

「憶えてますよ。逆に男性の自殺は散々思い詰めた果ての決心だから止めない方がいい。そう先生が付け加えてたのも記憶してます。単に何となく憶えてただけですけど」

「何となくでも安心したわよ。生徒達が私の話をちゃんと聞いてるか、たまに不安な事もあるからね。優等生の貴方には花丸をあげちゃいましょうかしら。……それにそう言われると、イヴに自殺するなんて、一般的過ぎてつまらなくなってきたわね。衝動的だったのも否定出来ないし、何か悔しいな。次に自殺を実行する時はじっくり考えて、何でもない日に独りで死ぬわ」

「そうですか……。その際は是非ともお独りで」

 僕がそっけなく言うと、先生は、分かってるわよ、と返してからウインクした。

 仕種がいちいち古臭い人だ。年齢が年齢だから、違和感は無いんだけど。

 それから先生は夜空を仰いだ。

 僕も先生の視線を追う。

 先生の視線の先に何があるのかは分からない。

 先生も別に何かを見ているわけじゃないだろう。

 でも、僕は先生の視線の先にある何かを見たかった。

 同じ物を見たかった。

 不意にまた、先生が口を開いて囁くように言った。

「正味な話、私も自分が本気で死のうとしてたのかどうか分からないわよ。イヴに家で独りで、旦那も子供も居なくて、何か色んな事が厭になっちゃった。ちょっとテレビを観てみたら、幸せそうな人の群れが映ってるしさ。世界の全部が私を追い込んで、孤独感で殺そうとしてるみたいに思えたわ。だから、つい衝動的に包丁を握って、外に飛び出してた。誰でもいいから、私を救ってほしかった。いえ、殺してほしかった……のかもね。自殺じゃ保険金も出難いでしょ? 子供には好かれてないし、正直、私自身も子供の事が好きじゃないけど……。でも、私はあの子達の母親だから。お金くらいは残してあげなきゃいけないとも思ってたのよね。それは別に真に子供達のためじゃないけどね。単純に無責任に自殺した私を後であの子達に責められたくなかっただけよ。……冷静になって考えると、支離滅裂で馬鹿馬鹿しくなってくるわね」

 言って、先生が笑う。

 その笑いはもう自嘲でも苦笑でもなかった。

 単に滑稽だった自分の姿を懐かしく思ってるだけみたいだった。

 釣られて、僕も笑った。

 先生の姿に未来の僕の姿を見た気がしたからだ。

 将来的に僕は幸せになる事はできるかもしれない。誰かと心を通わせ、孤独でなくなる事も一度か二度はあるだろう。傷の舐め合いみたいな形でしかないにしても、恐らく数回はあるはずだ。

 そして、その幸福は多分簡単に崩れ去る。

 幸福は永遠どころか多分二年も持続しない。

 僕は何度だって幸福を失い、絶望し、死にたくなるんだろう。

 死ぬまで、それを繰り返し続けるんだろう。

 クリスマスの度にそういう事を考え続けるはずだ。

 勿論、それは僕等に限った話じゃないけれども。

 僕はその場に座り込んで、また夜空を見上げた。

 雲一つも無い夜空だった。

 そう言えば、天気予報で今夜は雪が降るかも知れないと言っていたが、この様子では今日どころか明日も降りそうになさそうだ。気象庁に何件か苦情が来るかもしれない。

 御愁傷様です、と思いながら、僕は小さく言葉を紡ぎ出した。

「僕も今日死にたかったんで、先生の事をとやかく言えませんよ。でも、死にたいと思ったっていいじゃないですか。自分には生きてる価値が無くてもいいじゃないですか。死にましょう、いつかは。自殺をするかどうかは分かりませんが、僕等には死ぬ自由があってもいいはずです。生きる意味や生きてる価値なんて、多分、誰にも存在しませんよ。僕等は単に産まれちゃったから生きてるだけなんですから。だから、別に死んでもいいんです。生きてる事に耐えられないんなら。でも、完全に耐えられなくなるまでは生きましょうよ。生きたくなくても、死にたくない限りは生きてた方が面白いんじゃないですか? 少なくとも、僕は今日中は死にたくなくなりましたし」

「あらあら……。どうしてかしら? ひょっとして先生に惚れちゃったとか? 駄目よ、私には旦那が……、なんてね」

「そういう事は有り得ません。思い出したんですよ。読んでない小説が家に積んである事に。しかも、完結巻なんですよ? これはもう読まずに死ぬわけにはいかないじゃないですか。それが今の僕の死にたくない理由です」

「あはっ……、小さくて安っぽい理由ね。でも、私達が死にたかった理由も、似たようなものかしら? 誰かの幸せな姿を見てたくないから死にたいなんて、小説の完結巻を読まずに死にたくないってのと殆ど同じよね。人生なんて下らないって若い子は言うけど、確かにそうかもしれない。自殺したいなんて考える事自体、どうでもいい安っぽい感情のような気がしてきちゃうわ」

 僕は何も言わなかった。

 そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

 先生にとっての答えがそれならば、僕に出来る事は特に無いと思う。

 先生が僕に出来る事も多分無い。

 そう。今日の僕等は鏡越しの自分に独り言を呟き合った様なものだ。

 誰かに聞かせるためじゃなく、自分に言い聞かせるために呟いただけだ。

 たまたま似通った二人が冬の街角でぶつかった。

 それだけの事なんだ。

 もうこうして二人で独り言を呟き合う事も二度とは無いだろう。

 冬休み後、顔を合わせても、僕達の関係は何も変わらない。

 単なる教師と生徒に戻る。

 その後、僕は高校を卒業し、先生は教師を続ける。

 それだけの事だ。

 一瞬だけ、僕と先生の産まれた世代が同じだったら、という思いが僕の脳裏を掠める。

 もしそうなら、どうなっていただろう。

 僕達は出会い、お互いに何を感じ合っただろう。

 ひょっとして、傷の舐め合いに過ぎないにしても、恋人になってたりしたのだろうか。

 勿論、考えても仕方が無い事だった。

 僕の生きられる人生は今のこの時間と今のこの場所にしかないのだ。

 仮定の話は仮定でしかない。

 でも、だからこそ、僕は今日の夜の事を忘れない。卒業後、先生と個人的に会う事は無いだろうけど、僕は今日の事を忘れたくない。

 何時か死の間際に、先生と過ごしたイヴの事を思い出したいと思う。

 何となく先生に視線を向けてみる。

 すると、先生も僕に倣って屋上に座り込んでから夜空を仰いだ。

「……でも、今晩は貴方と遊べて楽しかったわ。走ってた貴方にぶつかれた偶然に感謝しなきゃ。久し振りに若返った気分で面白かった。話も聞いてもらえたしね。さっきも言ったけど、自分でも本当に自殺をしようとしてたかどうかは分かんない。そもそも本当に自殺をしたいんなら、包丁を使うより幾らでもいい方法はあるもんね。例えば屋上から飛び降りる……とかね。特にリストカットは自殺未遂じゃなくて、単なる自傷行為だもの。手首切ったくらいじゃそうは死なないし。もしかしたら、今日の私は単に精神的な辛さを誤魔化すために、身体の何処かを傷付けたかっただけなのかもしれないわ」

「自傷行為はやめた方がいいですよ、先生。単に痛くて、血が出るだけです。

それに痛みってのは単なる危険信号です。それ以上身体を傷付けると危ないってだけの信号です。僕は昔、苛立って電信柱を蹴った時に捻挫してから、それに気付きました」

「あははっ、何よ、それ。お間抜けねえ、貴方。だけど、そうよね。心が苦しくたって、身体を傷付けても意味無いわ。痛みは生きてる証だけど、そんな事しなくても自分が生きてるのは間違いないものね。ああ……、情けないわ。本当に、馬鹿みたい。でも、ありがたかった。貴方に会えて、ありがたかった。……ありがとう」

 言って、先生が僕に手を差し出した。

 軽く、握ってみる。

 イヴの肌寒さに先生の手は冷たくなり切っていた。

 ひどく冷たい先生の小さな掌……。

 だけど、確かに鼓動している。生きている。

 生きていく。

 また死にたくなるまで。

 死を迎えるまで。





「さてと……」

 先生が不意に立ち上がって、ひどく明るく言った。

 もう普段の先生と何ら変わる事の無いいつもの先生だった。

「そろそろ帰らないとね。もうすぐイヴも終わっちゃう時間だし、貴方には家に待ってる家族が居るんでしょ?」

「まあ、そうですね……。うちの母親なんか、腕に縒りを掛けてクリスマスならぬ苦しみますケーキを作るとか言ってました。あんまり期待は出来ませんけど、どんなケーキかは気になるから帰らなきゃいけませんね」

「あはっ。何それ面白い。一体、どんなお母さんなのよ?」

「太めでよく笑います」

「いい家族じゃない?」

「……そうですかね」

「そうよ。そんなお母さんが居るだけで、貴方は自分で思うほど孤独じゃないわ。

それは貴方の求めていた形の幸せじゃないんだろうけど、でも、きっと幸せな事。

貴方くらいの年頃だと、彼女が出来なくて焦っちゃって、自分には一生彼女が出来ないんじゃないだろうか……って、悩んじゃうのはよくある事よ。恋に命を懸けられる年頃だものね。かく言う私も貴方くらいの頃は処女だったわ。処女で、乙女で、初めて出来た彼氏と迎えたイヴの日の破瓜は幸福の絶頂だった。恋に生きる事が人間の最優先事項だなんて思えるくらいにね。こんなに幸福を感じられる私は特別な人間だと思っていました。今では私がお母さん。子供に与えるのは勿論……」

「その何たらオリジナルはさておき。僕くらいの頃は処女だったとか、そういう赤裸々な告白はしてくれなくてもいいです。破瓜とか現実に言う人、初めて見ましたよ」

「お、照れてるのかね、童貞君よ」

「うるさいな」

 僕が目を逸らして呟くと、先生は楽しそうに僕の肩を何度も叩いた。

 敵わないな、と思った。

 僕と先生は倍以上も年齢が離れていて、人生経験ではどうやっても僕が先生を上回る事なんてできないんだろう。

「まあ、結局、私は特別な人間じゃなかったんだけどね」

 髪を掻き上げながら、先生が続ける。

 嘆いている様子は無い。単なる事実を口にしているといった様子だった。


「人間は誰もが孤独なんだろうけど、必要以上に孤独を感じるのも自意識過剰よね。孤独を感じるって事は、自分が誰かに必要とされる存在だと信じてるって事だもの。自分は特別な人間で、自分の事を好きになってくれる人間は多いはずだってね。でも、現実に自分には友達が少なくて、恋人も居なくて、特別なはずの自分が特別じゃない事に気付いて、孤独を感じちゃう……。結局、それだけの事だったんでしょうね。私も自分の子供には無条件に好かれるものだと信じてたわ。旦那との恋愛を成就させられた特別な私が、子供に、神様に愛されないはずがないって思ってた。でも、そうはならなかった。子供は私を嫌ってるし、イヴには家で独りぼっちの私。……そりゃそうよね。私は特別じゃない。特別な人間なんて本当に一握りしか居ない。何もせずに、誰からも好かれるほど、私は魅力に溢れてないしね。そう言えば、前に妙な博愛主義者が居たわ。特別な人間なんて居ない。皆同じ人間なんだから、特別な感情を持つ恋人なんて作らないって言ってた変な子が。あれは他人を特別視しない自分こそが、特別な人間だって思いたい子だったんでしょうね。結局、数ヶ月後には恋人を作って、その更に数ヶ月後には別れてたけどね。つまり、他人を特別視しないって宣言してたのは、恋人が居ない自分への方便だったわけよ」

「何ですかそれ。ひどいなあ……。支離滅裂じゃないですか、その人」

「貴方の言う通りだけど、それは私達も……でしょ?」

 言われ、僕は少しだけ息を呑んだ。

 そうだよな……。

 僕も自分を特別だと思いたかった。自分を特別だと思いたいのに、自分を特別視してくれない世界が憎らしかった。全部じゃないけど、僕が死にたかった理由の一部は確かにそれでもあった。

 馬鹿みたいだな、と僕は自嘲する。

 何時かは僕も死ぬ。

 ひょっとしたら、真に世界に絶望して自殺する事もあるかもしれない。

 きっと死んだっていいんだ、そんな時は。

 でも、流石に今日自殺しようとした動機は、哀れな自己陶酔以外の何物でもない気がした。そんな程度の理由で自殺するなんて、自殺という行為自体に失礼だろう。

 僕は立ち上がる。

 その場から。

 蹲っていた自分の殻から。

 眼前の先生と強く視線を合わせる。

 軽く、微笑み合う。

 安易に死を選ぼうとしていたお互いを嘲笑し合うみたいに。

 不意に。

 僕のジーンズのポケットに入れていた携帯電話が鳴った。

「着信音が『てんとう虫のサンバ』って、貴方ねえ……」

 呆れた様子で突っ込む先生を無視し、僕は携帯電話の液晶画面に目を向ける。

 少しだけ胸の鼓動が大きくなった。

 液晶には今彼氏と過ごしてるはずの『あいつ』の名前が表示されていた。

 何故?

 どうしてこんな時に『あいつ』から着信がある?

 イヴの夜に幸せに過ごしてるはずの『あいつ』からどうして?

 何かあったのか?

 イヴに彼氏と喧嘩でもしたのか?

 それとも、もっと他の理由で……?

 多くの考えが頭の中を交錯する。目まぐるしいくらいだ。

 電話には出ず、僕はその着信を放置する。

 鳴り続ける僕の携帯電話。

 先生がじっと黙って僕の様子を見つめていた。

 三十秒くらい後、名残惜しそうに僕の携帯電話は着信音を止めた。

「……いいの?」

 首を傾げながら、先生が僕に訊ねる。

 僕は携帯電話をポケットに仕舞い込んで、いいんです、と返した。

 そうだ。これでいい。

『あいつ』が彼氏と喧嘩したにしろ、他の何があったにしろ、少なくとも僕と『あいつ』はクリスマスに関わり合いになるべきじゃない。『あいつ』と話をするべきなのは、きっとこの季節が終わってからだ。

 クリスマスは僕みたいに幸せを求めて絶望する人が多くなる季節だ。そして、幸せになろうと焦り、眼前の幸福に視界を奪われる人が増える季節でもある。クリスマスが終わると、カップルの数が急激に減る事からもそれは明らかだろう。

 だから、僕は今日は『あいつ』と話をするべきじゃないんだ。

 今日、『あいつ』と話してしまったら、多分僕は自分を抑えられなくなる。

 クリスマスの雰囲気に流され、一瞬の幸福に身を任せようとしてしまうだろう。特にもしも本当に『あいつ』が彼氏と喧嘩をしていたとしたら、『あいつ』は気を迷わせて僕の情動を受け容れるに違いないから。

 それも一つの幸せの形なのかもしれない。

 そういう恋人達は数多いのかもしれない。

 でも、僕はそうするのが厭だった。

 深い意味は無い。

 結局、僕は単なるカッコ付けだって事なんだろう。

 少し真面目な顔をしていたせいか、先生が僕の顔を覗き込みながら楽しそうに笑った。その後に言葉にしたのは、普段通りの下世話な冗談だった。

「何よ、さっきの着信? 女の子? 女の子なんでしょ? いいわねえ、若い子は。女なんて関係ないって顔しながら、色々やっちゃってるんだから。でも、気を付けなさい。イヴの日に掛かって来る女の子からの電話は、一つ大きな危険性が含まれてるのよ。その子の彼氏がその子とのエッチ中に、「そういやおまえに気がある男が居たよな。丁度いいから、俺に抱かれながら電話越しに話してみろよ」とか命令したりしててね。喘ぎ声交じりの電話が掛かって来る可能性が高いのよ、イヴって日は。幸せに酔い痴れて、正常な判断ができなくなっちゃう日だものね。まあ、貴方が異性を寝取られる事に、極度の興奮を感じる特殊なタイプなら、それは御褒美になるかもしれないけど」

「うわあ……」

 僕は軽く呻き声を上げた。

 実に厭な想像をさせてくれる先生だ。

 流石にそれは無いと思いたいが、その可能性が完全に存在しないわけじゃない。

『あいつ』だって人間だ。

 幸福に酔って、そういう事をしてしまう事もあるはずだ。

 そう思うと、こんな酷い想像なのに、僕は軽く笑ってしまっていた。

 クリスマスでは誰もが正常な思考力を失ってしまう。それが幸福だからにしても、不幸だからにしても、どちらにしても平時思考してる事とは全く違った考えを持ってしまう日なんだ。

 特に日本ではそうだろう。

 欧米ではクリスマスってのは家族と過ごす日なのに、

 日本では何時の間にか恋人同士で過ごす……、過ごさなきゃいけない日になった。それが悪い事だとは言わないけれど、そのためにクリスマスの日本全体がおかしな空気に包まれてるのは否めない。

 聖夜ならぬ性夜……って、先生なら言うんだろうな。

 自分以外の他人の多くがセックスしてるのを自覚させられる日なんて、何だか滑稽だな。勿論、セックスしなきゃと焦ってた自分も、それ以上に滑稽だけど。

 とにかく、今頃、幸福な人々は大切な人と過ごし、幸せを噛み締めている事だろう。恋人達は雰囲気に酔い痴れ、家族は久々のお祝いで笑顔を浮かべて。

 何があったのかは分からないけど、『あいつ』だって今は幸福に過ごしてるはずだ。

 僕と先生はあまり幸福とは言えないかもしれない。

 予期していなかった他人と独り言を応酬するなんて、幸福なわけがない。

 でも、少なくとも僕達は独りではなかったから……、僕達は孤独だけど、孤独なのは自分だけじゃない事に気付けたから……、ほんの少しだけ普段のクリスマスよりは幸福で居られたのかもしれない。

 だったら、それはそれで、いいのかもしれない。

 人は幸せになりたいから不幸になる。

 かと言って、最初から幸せを期待しないのはもっと不幸だ。

 幸福に生きよ! と昔の誰かは言ったらしい。

 その誰かに言われなくても、多分僕等は幸福に生きようとしてる。

 だから、苦しくて、絶望して、辛くて、でも、だからこそ、僕等は生きていけるんだろう。

 もう一度だけ僕は先生に手を差し出した。

 悪い笑顔を真顔に戻して、先生が僕のその手を握ってくれる。

「それじゃあ、そろそろ本当に帰りましょう、先生。今日はお付き合い頂き、ありがとうございました」

「気にしないで。ほら? 私って思いやりのある先生の代表格だし? 悩める青少年の指針になるのも先生の役割ってやつでしょ?」

「自分で言わないで下さい。僕はこれから自宅で苦しみますケーキを食べますけど、先生も自宅でケーキでも食べて下さいよ。その大きな包丁でも使って」

「これ、ケーキ用の包丁じゃないんだけどな……。まあ、いいわ。貴方がそう言うんなら、私も独りでケーキを食べてやろうじゃない。折角のクリスマス・イヴだものね。これから大きなケーキを買って、パソコンのモニターの前で蝋燭を点けてやるわ」

「……それ重度のオタクじゃないですか」

「知らなかった? 私って結構なオタク少女だったのよ? 流石に今は漫画とアニメをちょっと観てるくらいだけどね」

 それは知らなかった。

 僕はまだ先生の何も知らない。

 知ってるつもりじゃなかったけど、予想以上に何も知らないらしかった。

 何となく、それが嬉しい。

 僕にはまだ知らない事がある。

 僕にはまだ知れる事がある。

 その先に幸福が待ってるのか、絶望が待ってるのか、それは分からない。

 でも、現状から変わっていけるって考える事は、僕の気分を高揚させた。

 僕は最後に力を込め、先生の手を強く握った。

 忘れない。

 僕は今日の事を忘れない。

 もう二人きりで話す事も無いだろう先生の事を忘れない。

「私からもありがとう。……じゃあね」

 手を離すと、踵を返して足早に先生が去っていく。

 僕はその先生の背中を見送る。

 先生は屋上の扉に吸い込まれるように入って行き、すぐに姿を消した。

 もう少しだけ、僕は此処に居ようと思う。

 クリスマス・イヴの奇蹟。

 なんて陳腐なキャッチフレーズだけど、僕はその奇蹟を噛み締める。

 奇蹟はあったんだ、確かに。

 不意に思い立って、僕は自分の鞄の中に入れていた作業用カッターを手に取ってみた。

 家に何故か置いてある大きなカッターナイフ。

 僕は今日、これを鞄に入れて街に飛び出した。

 これで何をしようとしてたのかは分からない。

 誰かを殺そうとしていたのか、自分を殺そうとしていたのか。

 先生が自分の行動の真意を分かり切っていなかったように、僕も自分が何をしようとしているのかは分かっていなかった。

 僕と先生は真の意味で似た者同士だったんだ。

 もしかしたら、先生も僕の鞄の中身に気付いていたのかもしれない。

 だから、僕から鍵を奪い取って、僕を連れ回したのかもしれない。

 それを確かめる術はもう無いけれど……。

 でも、それは多分、僕にとっていい形の奇蹟だったんだと思う。

 瞬間、僕は重大な事に気付いた。頭の中からすっかり消え去っていた。僕と先生の奇妙なイヴが始まる切欠を、僕は完全に忘れ去ってしまっていたのだ。つまり……。

「先生に鍵返してもらうの忘れてた……」

 身に染みるほど寒いイヴの夜、呆然とした僕の言葉は虚空に消えた。





 結局、僕は家に連絡を入れて、母さんに自宅の鍵を開いてもらった。

 冬休みの後、先生にその僕の家の鍵を返してもらって以来、僕と先生はプライベートでの会話をしなかった。そのまま僕は高校を卒業し、先生は僕の母校で教師を続けている。僕と先生はクリスマスの奇蹟で擦れ違っただけの他人だから、それでいいのだと思った。

 逆にそれ以上の事を求めるのは、お互いにとってよくない事のはずだ。

 僕と先生は鏡像みたいによく似てる。

 だから、自らの反面教師とし合う以外の理由で深く関わるのは、やめるべきなんだ。

 数年後、先生の旦那さんが亡くなったという話を風の噂で聞いた。

 勿論、先生が殺したってわけじゃない。

 脳溢血だそうだった。

 年齢的に若くはあるが、若いからとは言え、起こらないわけでもない。

 人間はいつか自殺以外の原因でも簡単に死んでしまうものだって事だ。

 残された先生は学校を辞め、子供達と実家に戻ったらしい。先生の不幸の原因の一つである旦那さんを失い、先生が何を考えたのかは僕にも分からない。似た者同士として一つ言えるのは、恐らくは辛いとか悲しいとかより、寂しさを感じてるんじゃないかという事だけだ。

 僕はと言えば、相変わらず恋愛的には上手くいっていない。何人かとそれなりに仲良くなれたけど、やはり僕は彼女達の恋愛対象になるには物足りない印象を与えてるらしい。

 そこそこ仲のいい人止まりで、それから先に発展した事はまだ無い。

『あいつ』ともたまに連絡を取り合う程度の仲だ。

 結局、イヴの日の電話の用件は『あいつ』に聞いていない。

 気にならないと言えば、嘘になる。

 あの日、『あいつ』の着信に応じていた方がよかったのかもしれない。

 そう思うと、今でも胸がざわつく。

 でも、あのイヴの日の事を思い出すと、『あいつ』の電話より先生の表情を深く思い出してしまう自分も居た。それを思い出すと、『あいつ』より先生の事が気になって仕方が無かった。馬鹿みたいに下らない何気ない奇蹟が起こったあのイヴの日……。

 クリスマスが近付く度に、僕は何度でも先生の笑顔を思い出すのだ。

「折角のクリスマス・イヴだし、付き合ってあげる」

 どんな形で最期の日を迎える事になったとしても、先生のその笑顔とその声が僕の心の中から消え去る事は生涯無いだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゴールデンタイム・ブラックストレンジャー 猫柳蝉丸 @necosemimaru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ