樹海

柴田尚弥

第1話 樹海行きのバス

 

 誕生日に親から貰えるのは決まって新しい靴だった。子どもの頃はそれが嫌で、何度か反発してみたこともある。


 僕の父親は靴職人で、一部ではそれなりに有名らしい。自分で店舗を構えられる程度の評価を受けられている。それは立派なことだと思うのだが、僕はその仕事を継ぐつもりはなく、かといってやりたいことなど存在しないため中卒で働くことはせず高校に通っている。


 世の常識的に大学にも進学しなければならないかもしれない。しかし、行きたい大学もなければやりたい勉強も僕にはない。熱心に受験勉強をするつもりもないため、いったいこの一大イベントをどうやり過ごせば良いものか、そのうち考えなければならないだろう。


  趣味はある。読書だ。ただし、字の通り本を読むのが好きなだけで、読書家ではない。SFに詳しくないし、文学のこともよくわからない。夏目漱石も読んだことがない。だから人に趣味を訊かれた場合はそう答えないようにしている。


「趣味は?」

「散歩です」


  そんな感じだ。実際に訊かれたことはないけれど。


  この答えは嘘ではない。正確には、僕は外出先の適当な野外で本を読むのが好きなのだ。野外の何とも言えない開放感の中ぽかぽかと陽に照らされながら本を読むのは最高だ。金がかからないというのも良い。


 遠出しようと思った場合は自転車のカゴにクッションをひとつ詰め、適当に道路を走らせる。日本はたいへん恵まれた国で、自転車の速度で彷徨えば大抵そのうち人気の少ないベンチを探し当てることができるのだ。


 この日は自転車に乗るのではなく歩いて出掛けるつもりだった。今読んでいる本がそろそろ終わりそうだからだ。近場の緑豊かな公園のベンチで物語の最終部を消化し、そのまま図書館に本を返しに行こうと目論んでいた。そして何か新しい1冊を借りるのだ。


 僕はカラビナで腰のあたりに固定したバッグに借りものの本と財布と鍵を積み込むと、スマホを持って家を出ることにした。


 時刻は10時、休日であることを加味すれば十分早い時間帯だ。


「啓太」


 僕に気づいた母さんに声をかけられる。「出掛けるの? ご飯は?」


「いらないよ」と短く答えた僕は振り返ることなく家を出た。


○○○


 しかし、確かに食料は必要だった。じきに腹も減るだろう。


 少し考え、予定を修正して自転車に乗ることにした。カゴにクッションは入っていないがしょうがない。バイト代を貯めて買った愛車に跨り、僕は自転車の速度で道路を走る。行き先は『マカロニ』という飲食店で、アルバイトで働く僕の勤務先だ。


 お昼の開店前に到着した。今日は定休日ではない。合鍵を持てる程度の信頼を得ている僕は施錠されていても構わなかったのだが、つまみ食いをするつもりなので、店長には居てもらえた方がありがたい。


 カランカラン、とドアに付いた鐘が鳴り、僕の訪問を店内に知らせてくれる。カウンターでは店長である西片にしかたさんがグラスをひとつひとつ磨いているところだった。


 西片さんは僕の予定外の訪れにも動揺することなく、小さく首を傾げただけだった。「黒原か。どうした?」


「来ちゃいました」

「来ちゃったのはわかるけどさ。君今日シフトじゃないだろ」

「そうですね。ブランチをいただきに来ました」

「客として来るなら開店時間を守ってもらいたいものだね」 

「まあまあそう硬いこと言わずに。半ば従業員として来たわけです」

「どういうこと?」

「何かまかない料金で食べさせてくださいってことです」

「厚かましい話だね」


 西片さんは眉を上げてそう言った。『マカロニ』のまかないはタダだ。従って、僕はタダで何か食わせろと言っていることになる。


「しょうがないなあ。それじゃ何か食べさせてあげるから、店の掃除でもしといてくれよ」

「アイ・サー!」僕は敬礼をして見せた。


 僕は高校1年生の頃から『マカロニ』で働いている。学校でバイトが禁止されていないからだ。基本的には西片さんのお手伝いをする程度の仕事内容だが、最近では西片さんが留守をするときの店番のようなこともできるようになっている。料理の仕込みは西片さんがすべてを行い、僕はそれを温めたり盛り付けたりして客に出すだけだが、はじめてひとりにされた時は生きた心地がしなかったことを覚えている。


 今では慣れたもので、店内業務にストレスはない。簡単な料理なら調理することも許されている。労働力を搾取されているんじゃないかと思うほどに時給が低いが、居心地は悪くない職場だった。


 実は匂いでわかっていたが、掃除を終えると大盛のカレーが待っていた。素晴らしいメニューだ。僕は西片さんに賛辞を贈る。


「素晴らしい考えだと思います」

「なにが?」

「この、カレーを頻繁に作ろうというのが。もっとカレーの頻度を増やしてもいいんじゃないかと河相さんもこの間言ってましたよ」


 カウンター席でカレーを頬張り、僕は常連客の名を出して西片さんにカレーの重要性をアピールしてみた。西片さんのカレーは絶品で、常備すべきメニューのひとつだ。何ならカレー屋をすればいいのにとさえ思う。


「でもカレーは匂いが強いからね。僕は色んな料理を提供したいから、自己主張が強いカレーを常備はしたくないんだよ」

「お客のニーズをそんなに無視していいんですか?」

「ここは僕の店だからね」と西片さんは笑って言った。「僕がルールだ」


 僕はアルバイトの従業員だ。メニューに関する議論から尻尾を巻いて逃げ出した。


 カレーを平らげ終わった僕は食器を片づけ、使ったカウンター席を整理した。西片さんが仕込みに使ったのであろう洗い物もついでに処理する。


「ごちそうさまでした」

「帰るのかい?」

「ちょっと裏をお借りします」

「どうぞ。なんならその後手伝ってくれてもいいよ」

「お借りした後はそのまま帰ります」


 僕は西片さんにそう断り、裏口から庭に出た。小規模な家庭菜園といくつかの木が立っていて、そのうち2本にハンモックが渡されているのだ。この読書をするのに絶好の宙に浮かぶベッドもこの店で働いて良かったと思える点のひとつである。


 網目にゆったりと体重を預け、木を蹴って全体を揺らす。それほど凶悪でない日差しの中、僕は借り物の本を取り出した。


○○○


 読み終えた。本を閉じ、僕は大きくひとつ息を吐く。


 ハンモックに小さく揺られながら、僕は今読み終わった物語の余韻を頭に浮かべ、しばらくそれに浸っていた。声をかけられ邪魔されるまではの話だ。


「啓太か?」とその声は遠くから僕の名を呼んだ。


 声の主はすぐにわかった。内藤昂ないとう たかしだ。高校2年生にしてプロ契約をクラブと交わしているサッカー選手で、僕の学校でもっとも有名な人物のひとりである。一応同じクラスの同級生だ。


 僕に構う必要はないだろうに、彼は僕にやたらと絡んでくる。他人のぞんざいな対応を気にしないこともサッカー選手として成功するために必要な要素のひとつなのだろうか?


 『マカロニ』の裏庭は簡単な柵に囲まれているが、道路から中を見ようと思えば十分見えるような造りになっている。取れた野菜が料理にも使われる小奇麗な家庭菜園は店の宣伝になるからだ。


 昂は柵の外から僕を見つけ、わざわざ読後の余韻を妨げてきたというわけだ。ご苦労様なことである。


「なんだよ」


 届かなくても良い、という程度の熱量で僕は昂に返事した。


「やっぱり啓太か! ん、これ、どうやってそっちに行けばいいんだ?」


 彼はとても興奮していて、柵を壊されかねないなと僕は思った。仕方ないので相手をするため僕はハンモックから抜け出て柵に寄る。もう一度、面倒くささを前面に押し出した声色で昂に声をかけることにした。


「なんだよ」

「いや偶然通りかかってさ。奇遇だな?」

「偶然? こんなところに何か通りかかる用事なんてあるか?」

「そこの店、俺にとって縁起がいい店なんだ。たまに寄ることにしている」

「本当に?」


 僕は驚きそう訊いた。「それが本当だとしたら、どちらかというと僕たち縁がないぞ」


 だって僕はその店でバイトをしている。裏方の業務で客に顔を見せない、ということでもないので、昂は僕の働いていない日にわざわざ来店していることになる。どうやらわざとでもなさそうだ。


 その旨をこのスポーツマンに伝えると、「すごい偶然!」と喜んでいた。


「いやだから、そんな偶然が続くわけだし、縁がないんじゃないのか、って話だよ」

「そんなことないだろ、こうして会えたわけだし。これから皆で何かしようと思ってるんだけど一緒にどうだ?」

「皆って誰だよ?」

「今のところ、俺とお前だね」

「計画全然ないじゃねーか」

「だから今思いはじめたとこなんだって!」


 そんな感じでぎゃあぎゃあとふたりで話していると、『マカロニ』裏口の方から注意を受けた。


「ちょっとうるさいよ、何やってんだい?」


 不審に思ったのか、西片さんが裏口から顔を出したのだ。「おや、内藤くん?」


「お久しぶりです」と昂は言った。この店に通っているのは本当らしい。

「どうしたの? また大事な試合があるのかい」

「そうなんです。出られるかはわからないけど、『上』の試合でベンチに入ることになりました」

「試合って、プロのあの試合か?」と僕は訊く。

「そりゃあそうだよ。俺プロだもん」

「ついにデビュー戦かい?」


 そう訊く西片さんに昂は誇らしげに頷いた。「そうです! 出られたら、の話ですけど」


 なんともキラキラした景気の良い話である。ふたりは話しながらお互いテンションを高め合っているようで、僕はそれについていけない。


 どんよりとした気持ちになった。高校2年生、17歳の若さでプロとして試合に出場するかもしれないサッカー選手に対して劣等感のようなものをもったところでどうしようもないが、それでもどこかで我が身と比べてしまうというのも、またどうしようもないことである。


 その場からの脱出を試みることにした。時間を気にする素振りをみせ、ジェスチャーで退席を伝えて離脱する。何故僕が気を遣うような感じになっているのか甚だ疑問ではあるけれど、この空気に耐えつづけることを考えればその損失は微々たるものだ。


「まあ立ち話もなんだし、入りなよ」


 こうして僕は離席したわけだが、元々そこに席などない。僕が居なくなったのを機にそんな声掛けが昂にされるのを背で聞きながら、僕は返すべき本を持って『マカロニ』を後にすることにした。


 カラビナで腰のあたりに固定したバッグに本を入れ、自転車の鍵を取り出す。バスが停まっているのに気がついた。そこにバス停などなかった筈で、これまでの勤務で一度も見たことのない光景だ。


 なんとなく行先を見ると、『樹海』と表示されていた。


 樹海。なんだそれは。


 一般的に樹海といえば富士の樹海のことを指すだろうが、当然ここは富士ではないし、ほかに樹海と言えそうな深い森林は近くにない。少なくとも僕は知らない。


 そんな不審なバスは無視してもよさそうなものだが、気が向いていたのだろうか? 気づくと僕はその樹海行きのバスに近寄っていた。


 ドアが開く。アナウンスは何もない。僕はそうするのが当たり前のように入口の階段を上り、ほかに誰も座っていない座席のひとつに腰かけた。エンジンの余熱で温められているのか座席はホカホカと心地よく暖かい。


 運転手はいないのか? 確かめるより先に僕を乗せたバスは走りだしていた。


 バスが進むに従って景色が後方へ吹き飛んでいく。いつしか周りは真っ暗になっていて、まるでトンネルにでも入ったようだ。こんなところにトンネルはないし、そもそもトンネルなら照明が灯っている筈だ。いずれにしても不自然である。


 しかし座席が心地よいからか、その違和感だらけの状況に取り乱すこともなく、眠りに落ちるように僕は意識を失っていった。薄れゆく意識の中で、返す予定だった読み終わった本の返却期限はいつだったかなと考えた。


 思い出すことはできなかった。


○○○


 草原。

 僕の両手は空いている。


 見渡す限りの草原の中、僕はひとり立っていた。


 穏やかな風が吹いている。背の高い草がわずかに揺られ、かすかな音が耳に聞こえる。僕はバスに乗っていた筈だがその車体はどこにもない。アスファルトの道路もなければ車を乗り入れたような痕跡もない。


 ぐるりと一周見渡すと、元々の正面に女の子が立っていた。


「こんにちは」とその子は言った。


 彼女は真っ赤なワンピースに身を包み、ノースリーブの白い腕が僕に向かって伸びていた。その手には何か袋のようなものが下がっている。


 受け取れということだろうか? しばらく眺めてもその手は取り下げられないため、僕はひとまず受け取ってみることにした。


「これは? それから、ここは何です?」


 そんな僕の問いかけは質問になって返ってきた。


「ここに来るのははじめて?」

「そうですけど」

「ここは『樹海』、それはあんたの初期装備。それと、ほらこれ、これは足踏みスイッチ」

「あしぶみすいっち?」

「それからメダル」


 彼女は僕の疑問に対応することをまったくせず、機械的な説明をさらに続けた。


「自分でその場足踏みしてもいいわけだけど、面倒じゃない? だからこんなものがあるわけ。『樹海』にはルールがあるけど何をしても結構だから、あとはあんたの好きにしなさい。そのメダルは捨てちゃだめよ」

「ルールって何です?」

「やってりゃわかるわ」


 気づくと彼女の側に下り階段が出現していた。まるで最初からあったかのように自然で、いつからあるのか僕にはまったくわからない。


「いってらっしゃい」と彼女は言った。


 そして彼女は姿を消した。立ち去ったという表現ではなく、まさに”姿を消した”。気づくといなくなっていた。


 残されたのは延々と広がる草原に、僕とその階段だけである。


 しばらく待ってみたが、どうしようもないらしい。


 僕はその階段を下ることにした。

 

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