凍っていた彼女の体が君の食卓に並ぶまで

小村ユキチ

フローズン

 冷風、白光、そして静寂。

 重たいドアを力いっぱいに引き開け、カートを押しながら冷凍庫に入り込んだ私を、凍りついた少年少女20体近くの死体が出迎えた。みな胎児のようにうずくまり、薄く開いた目で虚空を見つめている。脳はとっくの昔に除去されていることはわかっているが、それでもなお人が他者を識別する最大の特徴は顔であり、それを”人形”と断ずるのは難しい。仲間内では彼らに仮面をつけて保存する案も出ているようだが、恐らく採用はされないだろう。

 顔を隠してしまっては元も子もない。

 買い物カートにも似た専用のカートをカラカラと鳴らしながら、冷たい神殿を進み一体一体の顔と番号を確認していく。皮を剥がれて凍り付いた人体というのはいつ見ても不思議な煌めきだ。まるで桃かスイレンのように透き通った色彩なのに、筋張った肉にはすでに失われたはずの命の重さが纏わりついていて、自らが単純なタンパク質であるという普遍の事実を物言わぬ顔で拒否し続けている。昔誰かが、死者は哲学者に似ていると言っていた。何かの小説で読んだ言葉だったか、それとも映画のセリフだろうか。

 冷たい霊魂のような白い霧が首筋を撫でて、くしゃみが出る。マスクに跳ね返された息がやけに温く感じるのは、それだけここが寒い証拠。長居はできない。

 ……AF22101113・マナ。

 これだ。

 念の為ポケットからカードを取り出し、番号と顔を照らし合わせる。”マナ”、県籍日本・性別女。写真で見るよりもずっと愛らしく、そして儚げな面持ちをした黒髪の少女だった。

 背中のフックを外し、見た目よりずっと軽いマナを持ち上げる。貼りついていた霜が剥がれ、パサパサと音がした。軽いとはいえ文字通りカチカチに固まった人の体なので運ぶのは苦労するが、冷たさ以外は、生きている子どもを抱くことと違いはないように思える。多少取りこぼすような形でマナを段ボールに収めたとき、ほんのりと塩気を含んだ芳香がかおった。それに多少の胡椒も。

 仕込みは、悪くない。

 きっと赤ワインが良く合うだろう。



 パコリと人工の関節が外れる音を確かめてから、肩に彫られた目印の溝に従いノコを通す。ここにある死体はすべて、後に解体しやすいよう冷凍の前に関節部を人工品に取り替えられているのだ。解体の経験はあまり豊富とは言えないが、流石に四箇所目ともなると仕事も早い。凍らせすぎたアイスクリームのような肉を切り裂き骨を露出させてから、最後に一捻りして、左腕をマナの体から手早く切り離した。

 薄く張った霜を割りながら肘関節を伸ばし、凍った指も一本ずつ解きほぐし伸ばしていく。皮の剥げた肉体が生きた人肌に見えるよう専用の油脂で表面を丁寧に拭いてから、隙間がないようラップを二重に巻きつける。これでマナは両手両足、それに胴体の5つに分けられたことになる。

 残るは、1つ。

 低いテーブルの上に横たわる彼女の首にまたがるように首に指をかけ、力強く、けれども慎重に親指を押し当てる。溝の位置から人工関節の位置を確かめ、まずは両側から力をかけることで第一の繋ぎを外す。次に体を抱きかかえ顎と頭に手を添えてグラグラと動かしてから、へし折るくらいの気持ちで一息に捻り上げた。

 金属的な音と共に、ネジが外れる。勢い余って首が真反対を向いてしまい、色素が抜けた灰色の瞳と目が合った。乱れた髪をくわえながら、真っ直ぐにこちらを見上げている。

 そのとてつもないほどの美しさに、いつかの届かなかった夢の幻影を見た気がした。

 ……やはり、死者の顔を隠すなんてとんでもない。

 黒い髪をゴムでまとめてから、凍った首の肉に向けてノコを差し入れる。腕や足と違って、首の関節部は溝とのズレが生じがちなので注意が必要だ。

 頸動脈がちぎれ、内部に残留した不凍液がほんのしずく程度にこぼれだす。二次放血から冷凍までの短期間に体の膨らみを保つために使用される薬品の残りであり、大部分は冷凍後の精査処理時に尿道から抜かれるものだ。手先だけ軽く拭ってから、円周に沿ってズブズブとノコを回していく。途中頚椎に刃が当たった感触があったので、やや下にズラして続行。思いのほか手先が冷えている。作業用の薄手の手袋で凍った肉を扱っているのだから当然ではあるが……まあ、凍傷にさえならなければそれでいい。

 切り口が一周し、首が取り外される。抱えてみると、ボウリング玉と思えるくらいにはしっかりと重たかった。甘く柔らかな見た目に反して頬は石のように硬く、少しだけザラッと抵抗がある。その肌に、トングでつまんだ油脂をゆっくりと撫で付けていく。油が触れたところからわずかに暗く光沢が生まれ、死神の吐息に奪われていた生気と潤いがマナの顔に白さとして蘇っていく……そんな錯覚。

 耳の裏から顎の下、うなじやおでこの生え際に至るまで丁寧に油を塗りつけてからもう一度マナの顔を見る。湿度を帯びて艶めいた顔は、今にも目を見開いて喋りだしそうなほどに生々しく、不気味なほどにエロティックだった。

 だけど、やはり、彼女は人間ではない。

 これは死体だ。

 かつては生きていた。それは間違いない。その口でものを話し、その瞳で世界を見てきた。

 ……そういうものだ。

 作業台の下に落ちていたラップを拾い上げ、人工関節のネジがむき出しな断面から順に塞いでいく。顎や鼻、耳など、人の顔には隙間が生まれやすいところが沢山ある。空気が入らないよう丁寧にぐるぐる巻きにし、更に二重にラッピングを施すと、全体的にクラシカルなソンビのような見た目になった。そのゾンビの生首を、氷水の張った専用のボウルの中に浸からせて、蓋をする。

 あとは、胴体。

 最後に残ったダルマな胴体も、同じように油脂を塗りつけてからラッピングする。ラップをできるだけ伸ばし、氷山のような肋骨に手をかけてぐるりと巻き付け、わずかに膨らんだ乳房に沿ってピッタリと貼り付けていく。子どもとはいえ胴体は流石にサイズが大きく大雑把に作業したくなるが、自分を諌めてゆっくりと丁寧に二度巻きをする。

 ふと、首から切り離された胴体は、果たして”マナ”として数えていいものなのかと疑問になった。だがすぐに思い直す。それを言うならば首から上だってマナのものではないだろう。顔はあくまで人間の表面であり、たとえ一片残らず削ぎ落とそうとも人間は人間だ。人をヒトたらしめているものなんて、所詮は脳髄だけである。死者にとってはその脳ですらも命の残骸だろう……否、きっと、生者にとっても。

 ラップで巻きあがった胴体を持ち上げ、氷水の浴槽の中に沈めて蓋をする。その作業だけでびっしょりと汗が流れた。腰も痛い。歳は取りたくないものだ。

 かじかんだ手で作業用のエプロンの結びを外しながら、深く重たいため息をつく。分割したとはいえこのサイズの肉なので、解凍には半日以上かかるだろう。

 蛍光灯のスイッチを切り、私は暗い加工室をあとにした。

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