第一章 結成! 悪の秘密結社 1
第一章 結成! 悪の秘密結社
* 1 *
まだ朝も早いと言うのに八月下旬の日差しは強烈で、僕はうめき声を上げながら玄関ポーチを上がった。
肩に食い込む両肩を荷物を下ろして、携帯端末を使って玄関の鍵を解除する。
「うわ……」
綾子(りょうこ)さん――僕の母親も、フラワーアレンジメント教室だったかの旅行で、僕が部活の合宿に出かけるのと同じ日に出かけてしまっていた。
二日ぶりの家には熱気と湿気が籠もってて、玄関に荷物を放り出した僕はとにかく一階の窓を開けて回る。
家の中よりは少しはマシな空気が入ってきてるのを感じた僕はひと息ついた。
渋滞を避けて早朝に旅館を出発した部活の合宿。顧問の奥村先生の帰省も兼ねたそれはすごく楽しくて、みんなでずいぶんはしゃいでしまった。
それが終わって家に帰ると夏休みも終盤だという現実に引き戻されるわけだけど、たった二日空けてだけとは言え、自宅に帰ってくると安心する。
「さて」
ひと声かけて、僕は荷物を玄関に放り出したまま自分の部屋へと向かった。
合宿に出かける前に見かけてしまったニュースの情報を確認したかった。
「え……」
自分の部屋の扉を開けて、僕は思わず声を上げる。
予想もしていなかった状況に、視界が横を向くほどに首を傾げてしまった。
木が、生えていた。
日当たりのいい出窓に並んだ大小の植木鉢。
その中の一番大きな、ひと抱えもある鉢に、土に植え替えないといけないほどに幹と枝を伸ばし、青々とした葉を茂らせる木が生えていた。
二日前にはそんなものはなかった。
いや、正確にはその鉢のことは憶えてる。
合宿に行く直前の時間に届いた植木鉢キット。観葉植物なんかを育てるための最低限のものが揃ってるのが普通の植木鉢キットだけど、内容が少し奇妙だったのと、その品名に興味を惹かれて、思わずセットしていったものだ。
合宿は実質二泊二日。あれからまだ二日しか経っていない。そして僕があの鉢に植えたのは、種だった。
苗を植えたんじゃなくて、あくまで種。
たった二日の間に、種から木が生えるなんてことはあり得ない。
一番驚いたのは、そこじゃない。
音がしそうなくらい心臓が激しく脈打っていた。
身体に感じる熱さは、家に帰ってくるまでに日差しに当てられたわけでも、部屋に籠もった熱気にやられたわけでもない。
木の実がひとつ、ぶら下がっていた。
枇杷に似て橙色をし、少し光沢のある実は植木鉢キットに付属していたものと同じ色と形だ。種を取り出すために果肉を食べるよう指示されていたそれと、木にぶら下がってるそれは色と形は同じでも、まったく違っていた。
――桃太郎の桃が現実にあるなら、こんなサイズかな?
大人の人がすっぽり入ってしまいそうなサイズの木の実が、重力を無視するかのように突き出た枝に、床からわずかに浮いた位置にぶら下がっていた。
中身が詰まっているなら枝が折れるかたわむかしそうなのにそんなことはなく、むしろ鉢ごと落っこちてもおかしくなさそうなのに、風船くらいの密度なのか、木の実は確かにそこにあった。
何が起こっているのかぜんぜん理解できない。
あり得ない状況に頭が回らない。
でもなんでだろう。
「僕は、待っていたんんだ」
そんなつぶやきが、僕の口から漏れてきていた。
何を待っていたのかは、僕自身よくわからない。
でもその思いは植木鉢キットが届いたときから、いやたぶん本当は、あの一文を読んだときに生まれたものだ。
「それはともかく」
現実離れしたいまの状況を確認しなくちゃならなかった。
たいてい小冊子か外箱に説明があるだけの植木鉢キットだけど、届いたそれには人が殺せそうなほどの厚さの取扱説明書が付属していた。
内容に興味はあったけど、合宿に出かける直前だったし、紙の本でそんな厚さのものを読みたいとは思えなかった。植木鉢をセットするところしかほとんど読んでいないそれになら、いまの状況について何か書いてあるはずだった。
部屋に入って出窓を遠巻きにし、僕は取扱説明書を出しっぱなしにしてある机ににじり寄る。
ゴトン、という重々しい音がした。
その音は僕のこれまでの現実を、叩き壊す音のように思えた。
見てみるといまのいままで木にぶら下がっていた果実が、フローリングの床に落下していた。
そのまま転がっていった果実は、僕の退路を断つように半開きの扉の前で止まった。
「これはダメだな」
どうすることもできないいまの状況を、僕は諦める。
諦めて、受け入れて、果実の次の変化をしっかりと見ることにした。
桃太郎ですら割られなければ出てこなかったのに、果実は独りでに割れ目が入って、そこから煙が吹き出した。
刺激臭も圧迫感もない白い煙は、あっという間に部屋を真っ白にしてしまう。
その次に出てきたのは、人影だった。
「君の悪を示せ」
取扱説明書の一番最初に書いてあった一文を思い出す。
植木鉢キットの名前は、「悪の秘密結社キット」。
その取扱説明書には、君の悪を示せと書いてあった。
鼓動を激しくしている僕の身体の熱は、その一文を読んだときに生まれたものだ。
ある日突然手に入れるなら、たぶん「正義の味方キット」の方がふさわしいんじゃないかと思う。
でも僕の中に生まれた熱が、正義なんかよりも悪という言葉に惹かれ、期待しているものであることに、僕はいま気づいていた。
白い煙の向こうでシルエットになってしまっている人影。
女性なのか長い髪を振り乱して立ち上がる様子に、僕はこっそりとつぶやきを漏らす。
「僕の悪を示そう」
*
ステラートブリッジ計画。
それは十年前に発表され、その当時は毎日のように進捗がニュースをにぎわせていた計画だった。
その目的は月軌道以遠への進出。
調査や観測なんかじゃなくて、人類の生存圏を地球の外へと広げていくための、ステップとしての計画。長期的には火星開発も含まれたその計画は、百を超える国家が参加を表明し、発表された予算も人類史上最大規模になる予定だった。
『ステラートブリッジ計画、縮小必至』
あれから十年。
合宿に出かけるには少し時間があるからと携帯端末で受信したニュース記事にそんなタイトルを見つけて、僕はリビングのソファに身体を預けて深くため息を吐いた。
人類の夢だと、実現まで秒読みだともてはやされた計画は、ネットのニュースでも数行の記事にしかならない程度の規模と注目度になっていた。
「見なければよかった」
高校最初の夏休み。
その中でも最大のイベントとも言える合宿がこれから始まるというのに、僕は沈んでいく気分をどうすることもできないでいた。
その計画は僕の夢のひとつと言っても過言ではないものだったから。
もうひとつ深いため息を漏らしたとき、玄関チャイムが鳴った。
携帯端末に転送されてきた玄関カメラの映像を見てみると、宅配便の服を着た人が大きな荷物を抱えてるのが見えた。
「こんな時間になんだろ?」
まだ八時にもなっていないのに配達があることを不思議に思いながら、僕は気分を入れ換えるためにもソファから立ち上がって玄関に向かう。
「天野遼平(りょうへい)さんですね?」
「……はい」
認め印を持って玄関ドアを開けると、フルネームで呼ばれた。
三段の階段になってる玄関ポーチに一番下に立って、目深に帽子を被ってるから顔は見えないけど、かけられた声と帽子からこぼれてる長い髪からして、若い女の人らしい。
「こちらに印鑑を」
――あれ?
言われて受取票を見た僕は、首を傾げていた。
届け先はこの家だし、受取人は僕の名前になってる。でも差出人のところは空欄になっていた。
それから記事の欄に書かれた品名らしい文字列。
――悪の秘密結社キット?
両手で抱えないといけないようなサイズの、印刷もロゴもない茶色い箱の中身がいったい何なのかはわからない。
差出人不明なのだから受取拒否してもよかったわけだけど、その記事を見て、僕は何故か反射的に受取票に認め印を押していた。
「確かに。それでは幸運を」
そんな不思議な言葉を言った配達の女性は、受取票を手にすぐさまデリバリーカーに乗って行ってしまった。
受け取った箱はずっしりとした重さがあった。
さっき見たニュースのことも忘れて、自分の部屋に箱を運び込んだ僕は掛け時計でまだ時間に余裕があることを確認する。
「植木鉢キット?」
箱の中から出てきたのは、十号の植木鉢と袋に入った土、土に突き刺して使うタイプの栄養剤、それから宝石のように小箱に収められた、枇杷に似た形と色の果実だった。
ずいぶん大きいけど、内容としては手軽に植物を育てられるようになってる植木鉢キットと同じだった。ただひとつ普通のと違うのは、もう図書館くらいでしか見ることのなくなった、分厚い本が入っていること。
簡素な印刷のその本の表題は、「悪の秘密結社キット 取扱説明書」。
「悪の秘密結社キット……」
なんでか身体が震えた。
これがもし、アニメやマンガなら、送られてくるのは「正義の味方キット」になりそうなものなのに、送り状の記事にも取扱説明書にも、書いてあるのは確かに「悪の秘密結社キット」。
「たぶん綾子さんだろうなぁ」
こういう不思議な物を送りつけてくる人は、綾子さんくらいしか思いつかない。出窓に置いてある調べないと名前もわからないような観葉植物も、あの人がどこからか見つけてきてものだった。
期待はしてないつもりなのに、高鳴る胸を感じながら、僕は取扱説明書の表紙をめくった。
心臓に、針を刺されたような衝撃が走った。
恋に落ちた瞬間にならありそうなほどの衝撃が、僕の身体を走っていた。
表紙を開いたすぐそこに書かれている、短い文章。
それを読んだ僕は、生まれて二度目の激しい衝撃を受けていた。
一度目はステラートブリッジ計画発表のニュースを見たとき。
それと同じくらいの衝撃を、その文章は僕に与えていた。
『もし君が、いまの自分に、いまの世界に不満を感じているなら、君の悪を世界に示せ』
別にその文字列だけなら、ありふれた言葉を組み合わせただけのものだ。
それなのに僕は、その言葉に胸が高鳴るのを感じていた。
「君の悪を、示せ」
空いた左手で激しく脈打つ心臓の上を抑えながら、僕は次のページをめくった。
*
そんなことがあってから二日。
正体不明の期待を抱いていたとは言え、まさかこんなことが起こるなんて思ってもみなかった。
立ち上がった女性らしい人影は、ゆらゆらと身体を揺らした後、倒れこむように四つんばいになった。
――まるでホラー映画だ。
四つんばいのまま近づいてくる人影を、諦めて、受け入れることにした僕は、妙に冷静な目で見ていた。
煙の向こうからまず見えてきたのは、黒髪。
うつむいていて顔は見えず、濡れているのか、つややかに光を放つ長い黒髪が目に入ってきた。
黒髪の向こうに見えてきた引き締まった腰から柔らかそうなお尻へのラインには、布地の類は一切見えない。
肌色に釘付けになりそうな視線を真下に向けると、僕に手を伸ばしてきた女性が掴まり立ちするみたいに身体を起こしていく様子が見えた。
――なんでだろう。
見えてきた女性の顔。
細くてくっきりとした顔立ちと、すっと通った鼻筋。ピンク色に染まる唇が、僕の目に焼き付いていた。
果実から生まれたばかりだからか、眠たげにも見える彼女の顔は、僕の見知った女の子によく似ていた。
けれどだんだんと見えてきた女性の胸は、僕の知ってる女の子よりも女性らしい膨らみをしている。
深緑にも見える女性の瞳に、僕が映っていた。
どこまでもどこまでも奥がありそうな深みのある瞳に映っている僕が、だんだんと大きくなっていく。
違う。
顔が近づいているんだと気づいたとき、僕の唇に柔らかい物が押し当てられていた。
口の中に滑り込んできた違和感に女性を突き飛ばそうとしたとき、微かな甘い香りを残して彼女の方から離れて煙の中に消えていった。
煙がもっと濃くなって、目の前のものさえ見えなくなってしまう。
「最新情報への更新完了」
そんな涼やかで、でもどこか人間味のない言葉が聞こえたと思うと、激しい風が吹いて目を開けていられなくなった。
風が収まってゆっくりと目を開けてみると、煙はすっかりなくなっていて、出窓のところに窓を大きく開けてるさっきの女性が立っていた。
もう裸ではなくて、どこから取り出したのか、白いエプロンのついた深緑のワンピースを身につけている。
丈の長いそれはヴィクトリアンメイドのようにも思えるけど、カチューシャの代わりにワンピースと同じ色のヘアバンドになっているその服が、喫茶店の制服であることを、僕は知っていた。
――この人って、もしかして……。
惚けている僕の側までやってきた女性は、にっこりと笑む。
「初めまして。わたしの名前は樹里。悪の秘密結社キットを芽吹かせ、イメージドライバーの起動に成功した貴方は、悪の秘密結社の首領となりました」
そんな彼女の言葉は、聞こえているのに頭の中に入ってこなかった。
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