第70話 前を向いた

 一方サイは、動き出した軍服を倒しつつ、一足跳びでアシュラドの元へ向かっていた。

 アシュラドの放心はさらに酷くなり、防御のための『操作』すら放棄している。ひとりの軍服が刀を振りかぶったところへ、サイは青竜刀を投げ付け、正確に弾いた。

 そして駆けながら、叫ぶ。

「坊主、歯ぁ食いしばれぇええっ!」

 アシュラドの視線がサイに向く。

 前傾姿勢で突っ込んだサイは、その鳩尾に渾身の拳を放った。

「がっ……は!」

 アシュラドの身体が宙に浮き、一瞬の後、地面に叩き付けられる。

 仲間のはずのサイが殴ったことで、周囲の軍服が一瞬怯む。

「お、おまっ……歯、関係ねぇ」

 歯を食いしばれと言うなら殴るのは普通、顔面である。咳き込むアシュラドがそれを抗議したいことは十分理解した上で、サイは怒鳴る。

「甘ったれんじゃありません!」

「……えぇえ」

 それから怯んでいる軍服を素手で三人ほど殴り飛ばして、アシュラドに背中を向けたまま言った。声には優しさと申し訳なさが滲んでいた。

「ごめんなぁ坊主。俺ぁお前を甘やかし過ぎてたみてえだよ」

「……あ?」

「《絶望》を倒した後、俺はずっとお前に『生きなきゃならねえ』と言い続けたが……あるころから本当は、別に言いたかったことがあるんだ。

 だが、反応を恐れて言えなかった。

 今のお前なら、正しいほうを選んでくれると信じるぜ」

「なに、言ってやが」

 一瞬、サイが首から上だけアシュラドに向けた。横顔から、色眼鏡の中が僅かに覗く。

「もういい加減、生きるか死ぬか、お前が選べ」

 アシュラドは尻餅をつく体勢で、口を半開きにして漏らした。

「…………サイ」

「ああ」

「お前、そんな目してたのか」

「今そこ!?」

 突っ込みつつ、サイは飛びかかってきた軍服を徒手空拳でさばいていく。

 ひとり、しゃがみ込むアシュラドは呆然とした目を地面に向けたまま、歯を食いしばった。

「…………なんだよ」

 愚痴のような響きが漏れた瞬間、同時に頭の中へ、声が響く。

『……行くところが、ないんだ』

 マロナの声だった。

『信じさせてよ。裏切らないで。信じさせて。あたしを……ここに、いさせて』

『あたしにとっての鬼は、アシュやパニーじゃない。あたしを虐げ、脅かしてきたのはいつだって『人間』だった!』

 流れ始めた言葉は、次々に溢れ出す。

『お前は、確かに生き残った。確かにひとりかもしれねえ。だがだからこそ、生きなきゃならねえ。皆の分まで』

『お前が牙なら、俺は角だ。これなら、家族っぽいだろ?』

 サイの低い声が響き、そのあとにパニーの透き通った声が続く。

『たすけ、たい。おどう、ざん……っ、おが、ざん……にぃ! っねぇ……っ!」

『わたしは……城のみんなを助けたい。力を貸して』

『わたしはもっとみんなと一緒にいたい。おとうさんもおかあさんもにいちゃんもねえちゃんもみんな、みんないなくなったこの『今』でも……生きていたいんだ』

 アシュラドは一層強く歯を噛み合わせる。欠けそうなほど、強く、強く。

「……なんなんだよ」

 そこへ飛び込んできたキリタの叫びが、止めを刺しに来る。

『愛に年齢は関係ない!』

『キリタァタァァァアアアアックウィズラブッ!』

『ひと呼んで『タツマキリタ』!』

『今の僕は『ムテキリタ』だぁあああああっ!』

 アシュラドの口の端が、上がる。

「く」

 今にも泣きそうな眉と目で、鼻を鳴らす。

「く、は、はは……」

 そして、顔を上げた。

 混戦の中、もはや軍服の数は当初の十分の一近くまで減っていた。

 だが、数が減れば減るほどガダナバは憤りを増し、余計に手強くなっていくようだった。実際、キリタが弾き飛ばした右拳以外、ガダナバには一度もダメージを与えられてはいない。

「……手、いたぃい」

「これが……っ、『最硬』かよ」

 パニーとキリタも体力を削られている。攻撃が当たっても当たっても全く勝機が見えないとなると、精神も磨り減った。

 たとえガダナバひとりになっても、このままではいずれやられてしまう。

「だははは……!」

 ガダナバが殺気を浮かべながら笑いを漏らす。

「そろそろ観念しろ。もう解っただろう? お前らの攻撃は俺には効かん。そうやって、勢い付いて向かってきた色鬼どもも、最後には全て死んだ! 殺してやった!

 生まれながらの身体能力に劣る『人間』は、技術によって力を獲得し、他種族の頂点に立ってきた。所詮鬼は『人間』に退治される存在! だはは……ははは……ははははは!」

 その笑いを忌々しく思いながらも、打開する術を見つけなければ、なにを言い返しても空しい。キリタもパニーもサイも、歯を食いしばってなにか手はないかと頭を回転させる。

 だから、

「ハーッハッハッハッハッハッハァッ!」

 ガダナバ以外の笑い声が逆側から響いたことに、三人とも怪訝な顔をした。

 一番最初に反応したのは、他でもないガダナバだ。

「っ……牙鬼ぃ!」

「ったくよ……」

 皆の視線が同じところへ向く。

 そこには開き直ったような顔で、心底愉快そうに牙を剥き出しにする男が立っている。

「なんなんだよ、おめーらは」


 その男。

 アシュラドが、前を向いた。

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