峠の黒髪アイスクリーム

今田ずんばあらず

黒髪の娘

 間もなく峠にさしかかる、と直感に近いものを抱くことがある。


 それは、はたから見れば野生の勘なのだろうと思われるかもしれないが、この旅人には、彼なりに理屈があった。それは「風吹かば峠近し」という単純な経験則であった。風が山をのぼるとき、標高の低い峠に集中する。

 だから峠の付近では風が強まるのである。


 深緑が芽吹きだしたある日、旅人は大きな風呂敷を担ぎ、坂をのぼっていた。広葉樹林の山道である。上空の葉が擦れる音と、めじろの鳴き声と、それから北からは開通して間もない隧道を抜ける幌付自動車オートモビルの唸る音があった。



 旅人は一度立ち止まった。風が吹いたのだ。登坂は間もなく終わる。その直感に、大きく肺に空気を入れた。春の気配がする、匂いたつ空気であった。そして、そびえるは四丈にもなる立派な切通しである。ここが峠であった。あの切通しを越えれば、さとが変わる。

 とはいえ、一度ここらで半刻ほど腰を落ち着かせようと旅人は考えた。矢先、切通しの奥に木組みの小屋がちんまりと構えてあることに気付いた。


 茶屋か。そう珍しいものではない。平地からの街道と、尾根の山伏道、この交点が峠である。むしろないほうが不自然である。しかしながら、その小屋は幾分新しすぎた。

 幌付自動車オートモビルの普及によって、町と町の移動に変革が訪れつつある昨今、峠の茶屋は滅びゆくものとなっている。寂れた茶屋や、崩れた茶屋があるのならば理解できよう。

 しかし、新築同様、というのは、旅人の目からすると奇妙に映った。


 訝しみつつも、暖簾をめくった。旅人や商人や出稼ぎの姿はない。

 ただ一人、木綿着物のうら若き娘がいそいそと囲炉裏に木炭をくべていた。


 旅人の姿に気付いたのか、娘ははたと立ち上がった。

「どうぞおくつろぎくださいませ」

 娘は、囲炉裏の前に敷かれた、布きれのようなものを指した。どうやらそれは座布団のようであった。


 旅人はしばし暖簾をめくった所作のまま固まっていた。


 娘の、その長い黒髪に惹かれた。


 入口からわずかに洩れる光を受けて、その髪はあでやかな光沢をまとっていた。それから、ようやく旅人は囲炉裏の前に座るよう案内されていることに気付いたのだった。




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