6月12日( ) 彼の恩師

 ――平成二十九年、六月十二日、月曜日。

 あれから一年、学年やクラス、担任の先生など変わったものを挙げればキリがないけれど、俺自身を取り巻く状況に何一つとして変化はなかった。


 相も変わらず味方はおらず、毎日のように殴られ続ける日々。

 その中でも見られる進歩といえば、ガードや受けが上手くなったことくらいだろうか。


 人間というものはどこまでも自分中心なもので、彼女の苦しみを少しでも身に刻もうと無抵抗でいても、いつしか痛みに負け、自然とよりダメージの少ない殴られ方をするようになっていた。


 そんな自分もまた嫌になり、自ら体を差し向けにいくも、数発後には自然と無意識に防衛本能をとっている。


 また、もう一つの進展として、ここ最近は保健室に入り浸るようになっていた。

 何でも六月の頭から教育実習として新しく養護教諭が赴任してきたらしく、男性という珍しい立ち位置なのもあり、今では気軽に利用している。


「…………先生、湿布くださーい」


 いつものように昼休み後の授業を抜け出し、スライド式のドアを開けながら声を掛ける。


「おや、蔵敷くん。また来たのかい?」


「家の在庫がまだ切れたままなもので……」


 ここに初めて訪れた理由は、今挙げたように家に常備していた湿布が切れたためだ。


 親に余計な心配をかけないためにもクラス内暴力のことを隠していた俺は、こっそりと湿布を消費する他なく、無くなったからといっておいそれと頼めるものでもなかった。


 でなければ、使用速度の速さに勘づかれてしまうだろう。それは困る。

 そうして思いついた手がこの場所なわけだけど、先生との相性も合ってか、自然と来るようになったわけだ。


「それにしても、また喧嘩ですか? 君も懲りないですね」


 …………まぁ、そんなこの場所でも事実はひた隠しにしてているのだけど。


「相手から仕掛けてきたんですよ。俺は悪くないです」


 毎回される質問。同じ答え。

 いい加減もう聞かなくてもいいのでは――とここ最近は感じ始めていたのだが、今日はいつもと流れが違った。


 重いため息を一つ吐き、湿布を手渡しながらこう続ける。


「はぁ…………いい加減、もうそろそろ嘘は止めてくれてもいいんじゃないんですか? 半月――には少し足りませんが、それなりに深い付き合いになってきたと思っているのは、僕だけなのでしょうか?」


 受け取ろうと伸ばしていた腕が止まった。

 交差する瞳はしっかりと俺の目を捉えており、不思議と外すことができない。離してくれない。


「…………嘘って、何のことです?」


 結局出たのはそんな言葉。

 その答えに、またしても先生はため息を吐く。


「自分から言った方が気持ち楽になると思うのですが……まぁ、いいでしょう」


 まるで推理でもするように咳払いを行い始めたので、俺もまた動揺を隠すように湿布をハサミでカットし、薄皮を剥いで、自身の身体へと貼る作業に入った。


「まずですが、喧嘩による怪我というのは十中八九嘘ですね? なぜなら腹部の傷に対して、あまりにも顔や拳が綺麗すぎる」


 つい、作業を止めて手の甲を見る。

 俺にはよく分からない判断基準なのだけど、養護教諭ってのはそこまで見分けられるものなのだろうか?


「だとするなら、考えられる傷の原因は家庭内暴力か学校内暴力の二択。あとは、暇な時間に君の様子を観察していれば自然と答えに辿り着きますよ。ですよね、虐められっ子の蔵敷くん?」


 …………普通にすげぇ。まるで探偵だ。

 同時に、あの現場を見られていたのか、という恥ずかしさもあるけど。


「だったら、どうするんですか?」


「別に何も」


 肩を竦めて発せられた拍子抜けな返答に、思わず転けそうになる。

 それでいいのか、仮にも教師だろ……。


「逆に聞きたいのですが、では何かして欲しいですか? 生徒が求めるのなら、僕は教員として全力で事に努めますよ」


「いや……それは別に…………」


 むしろ、勝手に口を出されても困る。

 そうされないために、今まで隠してきたのだから。


「でしょ? 僕がこの話をしたのは、単に真実を知りたかったから……それだけなんです。知るだけで、とやかく言うつもりも、何かするわけでもないですよ」


 だから、何があったのか教えてください――と、そう語る先生を前に、自然と俺はこれまでの経緯を話していた。


「――というわけなんですけど…………」


「……………………なるほど」


 …………………………………………。


「…………………………………………」


 …………………………………………。


「…………………………………………」


 …………えっ、それだけ?


「あの……もう少し何かないんですか?」


「あぁ…………何か言った方が良かったですか?」


 長い沈黙についついツッコミを入れてしまうと、今度は逆に驚いたような表情を向けられてしまう。


「それでは……そもそもとして、君が虐められている必要性ってありますかね?」


「いや……だって、それは償いのため…………」


「とは言いますけど、手を下しているのは全くの赤の他人で、その幼馴染とやらではないですよね? 聞く限りでは、君はその事を体のいい理由として扱われ、皆の不満の捌け口とされているだけなのでは……?」


 言われた俺はポカンとしていた。

 そう説かれれば、そうとしか言い様がないからだ。


 一年越しの思わぬ事実である。


「償うのなら本人に。面と向かって話し、お互いが納得する形をとればいい。そこに第三者が関与する謂れなどありません」


 確かにその通りかもしれない。

 一番早く、確実で、無駄のない解決策だ。


 でも――。


「――でも、どんなことをしても、かなたは許してくれないかもしれない。俺は…………俺は、それが怖いんだ……!」


 今までは殴られるだけで済んだ。

 それさえされておけば、自分の体を傷つければ、自然と報われたような気分でいられた。


 けれど、この方法は痛みを伴う。

 否定されたが最後、俺は一生許されない罪を背負うことになる。


「それならそれで良いじゃないですか。許されないのなら、君が何をしようともう許されないのです。殴られようと、お金を払おうと、殺されようと――一生。であれば、もう考える必要はない。何をしても、何をしなくても許されないのだから、これ以上に余計な損をすることもない」


 …………何だ、その理屈。

 あまりにもバカげた理論に笑いたくなった。


「随分と他人事ですね」


「えぇ、他人事ですから。……でも、真理です」


 あぁ、確かにその通りだ。

 清々しいくらい合理的で、非情な考え方。


 でも、不思議とその考え方に憧れてしまった。


「――! …………まぁですが、答えを知って決める選択肢もまたあるのでしょうね」


 不意に呟かれた一言。

 その意味を汲み取れず、頭にはてなマークを浮かべていると、唐突にドアは鳴る。コンコンと硬い音が響くと同時に、先生は空きのベッドを指差した。


「君は恵まれていますね。しばらくそこで寝ているフリをしているといい。もちろん、カーテンは閉めたままでね」


 言われるがままに、何の用途かも知らない付属のカーテンでベッドの周りを覆い、頭から布団を被る。


「何か用かな?」


「はい……えっと、ここにそら――三年二組の蔵敷くらしきそらくんが来ませんでしたか?」


 その声には聞き覚えがあった。いや、忘れるはずもない。

 紛うことなき、幼馴染のかなただ。


「えぇ、いましたよ……つい先程までね」


「やっぱり……! ありがとうございました、失礼します」


 けど、ここ一年ずっと碌に会話もしてこなかったのに、今更なんの用なんだ?


「あー、待ってください」


「……………………? はい?」


「明日の、今より十五分ほど早い時間に来てみてください。きっと、その彼に会えますよ」


 そのアドバイスに返事はない。

 タタタッと駆けていく上靴の音を頼りに、再び俺は姿を現した。


 カーテンを開けた先には、ニコニコと腹が立ちそうな笑みを浮かべた先生がこちらを見ている。


「と、いうことです。君は今と同じように隠れて聞き耳を立てて、明日どうするか決めたらいい」


 ……本当、どこまで読んでいるんだこの人は。

 全てがこの先生の掌の上のような気がして、納得いかない。


 用事も終えたし、このままいても居心地が悪くなるだけだと感じ、無視してドアの方へと歩く。

 ノブに手をかける直前で、またもこんな言葉が。


「ちなみに教えてあげますと、彼女がどこぞの誰かさんを探している理由は『虐めにも屈せず登校している幼馴染が、六月に入ってから何故か昼休み後にだけ姿を見せなくなるから』ですよ」


 本当にこの人は…………。

 その返事について、俺もまた返さない。代わりにいつもより力強く扉を閉めておいた。

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