4月17日( ) 新入生宿泊研修最終日

 最終日となった。

 昨日の疲れが残っているはずなのだが、体質の影響で携帯の時間表示はまたしても午前五時を指している。


 ……おい、昨日よりも早く起きてるじゃねーか。


 おかげで身体のダルさは抜けていない。

 けれど、眠気もない以上、このまま横になっても暇な時間が続くだけなのは明らかだ。


 仕方ない。顔を洗って、歯でも磨くか。

 音を立てないようにそろりと動くと、俺は廊下へと出る。


 ――って、おい待て。

 さすがにデジャブが過ぎるぞ、この状況……!


 静かに扉を閉めた俺は、振り向いて二度三度辺りを見回した。


「…………誰もいない、か」


 大きく息を吐く。

 さすがのアイツも疲れて起きてこられないようだな。


 夜目のおかげで歩くには困らない。

 特に支障もなく洗面所まで移動をすると、中へと入り、手探りでスイッチを付けた。


「――うお、眩し!」


 いきなり点灯する明かりに思わず目を覆う。


 目が、目がぁぁ!


 某有名な映画のセリフを動きまで完璧に模倣したうえで、内心で叫んでみた。

 声に出さなかったのは、皆を起こしてしまう危険があったから。そして、想像以上に恥ずかしかったからだ。


 でも、やってたら数少ない俺の黒歴史の一つになっていたと思うから、自重してくれた理性には感謝しかない。


 サンキュー、俺。良くやった。


 とまぁ、実際には言うほど眩しくなかった光に目の慣れた俺は、冷たい水で顔を濡らす。


 次いで、旅行用の小さな歯磨き粉の側面を右手で潰すと、持ってきた歯ブラシに塗りたくった。


 ――シャコシャコシャコシャコ。


 前後に動かし、時には向きを変え、歯の奥や裏を一本一本磨いていく。

 歯医者さんをイメージし、丁寧に、丹念に。


「あら、そらくんって左利きでしたっけ……?」


 背後からかかる突然の声に、ビクッと体が浮く。

 鏡越しに目を向けると、ウチの担任が扉からひょっこりと顔を覗かせて、こちらの様子を伺っていた。


「あ、あんええんえーあ――…………」


 驚きのあまり思わず声を出してしまうが、口内には歯磨き粉の泡や唾液が溜まっており、ちゃんとした言葉にならない。


 行儀もあまり良くないと感じ、一度吐き出してリトライ。


「な、なんで先生がここにいるんですか? 一応、男子専用なんですけど……」


「それはもちろん、洗面所から奇妙な音がしたからです。起床時間にはまだ早いし、不審者かもしれないんだから様子を見るのは当然でしょ?」


 いつもの笑顔で悪びれもなく先生は答える。

 いや、事実、先生は悪くないか。ただ、俺たちにもプライバシーはあるというもので……。


「それだったら、男の先生も連れてくださいよ。実際に不審者だったら、どうするんですか……」


「その時は、大声で叫べばいいんですよ。女の人の声は甲高くて皆起きてくるでしょうし……ね?」


 この人、見た目と雰囲気と口調の割にふてぶてしいというか……強かな性格してるんだなぁ。


 そんなことを、タオルで濯いだ口を拭きながら俺は思う。

 ほんわかな緩い先生だと思わない方が良いかもな。


「そんなことより、お暇なら私の部屋でお話でもしましょう? 生徒とのコミュニケーションは大切なことですし、先ほどの質問の答えも気になります」


「……は?」


 思わず、素で返事をしてしまった。

 案の定、先生からは注意が飛んでくる。


「そらくん、目上の人――それも先生にそんな口の利き方はいけませんよー?」


 口調こそゆったりとしているが、目が笑っていない。怖い。

 けど、先生にも原因があるのではないだろうか。


「いや、でも――」


「――何か?」


「あっ、はい。すみませんでした」


 ヤバい、目が本気だった。

 この人はアレだ。忠告とかなく問答無用で成績を落としにかかる、面倒なタイプだ。


「……でも先生、年頃の男子生徒をホイホイと自室へ招くのはどうかと…………」


 だけど、さすがに引き下がるわけにはいかない。

 しっかりと謝ったうえで、件の失礼な態度を取ってしまったポイントについて指摘をしておく。


「んー……。でも、昨日も来ましたよね?」


 ……あぁ、かなたと怒られたときか。


「でも、少なくとも俺一人じゃありませんでしたよ。男女ペアを――それも指導を理由に招くのと、俺一人を個人的な理由で招くのとでは、さすがに天と地ほどの差があるでしょう……」


 倫理観的にどうなんだ教育者。もうちょっと考えて行動してくれ教育者。

 そんな思いから俺は必死に弁明する。


 だって、担任と二人きり――なんていう鬼の時間を過ごしたくはないだろ。


「そうですね……分かりました」


 しばらく頬に指を当て考えこんでいた先生は、熟考の末にそう口に出す。

 分かってくれたようで、何よりです。


「では、先ほどの教師に対する言葉遣いについて貴方を指導します。ついてきてください」


 違う、そうじゃない!

 「分かった」ってそっちの意味かよ!


 断りたいけれど、その背中は肯定以外の返答は受け付けていないように感じた。

 ……なんで、こうなった。



 ♦ ♦ ♦



「というわけで、先ほどの質問から。そらくんって、左利きでしたっけ?」


 ホントに世間話を始めたよ、この先生……。


「あの……先生、その前に『そらくん』って呼ぶの止めてもらえませんか? 高校にもなって生徒を下の名前で呼ぶのってどうかと思うんですが……」


「でも、かなたさんと同じ苗字ですよ? 呼び分けがしづらいです」


 確かに、俺は『蔵敷』で、かなたは『倉敷』。

 漢字が違うだけで、読みもイントネーションも同じという珍しい関係だ。


「『さん』と『くん』で充分に区別できます。ですので――」


「――では、私が区別ができないです」


 理由が取って付けたものすぎる。『では』ってなんだよ。明らかに今思いついただろ。


「いや、でも…………」

「…………………………………………」


それでも言い募ってみるが、笑みが消えることはない。


「最近はそういう呼び方で差別だの問題になってますし…………」

「…………………………………………」


 響いた様子はなし。


「…………もういいです」


 はぁ、つまりは変える気がないということか。

 ならば、こちらが折れるしかあるまい。


「それより、先生に同じ事を三度も言わせるつもりですか? ちゃんと質問には答えましょう」


 そして、どうしても気になるようだ。


「……答えを言えば、俺は右利きですけど」


「では、なぜ歯磨きは左手で? クロスドミナンス――交差利きというものですか?」


 あぁ……何だったけか、それ。

 確か、行う動作によって利き腕が変わるみたいなものだったよな。


「いえ、別にそんな大層なものでは……。単に中学の部活の関係上、左手も使えた方が良いからと歯磨きで練習していたら慣れただけです。文字を書いたり、箸を使ったりは出来ないですし」


 ちなみに言うと、筆記に関しては目下左手で練習しているのだが……まぁ、別に話すような内容ではないな。


 俺のそんな物言いに、先生はゆるく首を振る。


「いいえ、それだけで十分ですよ。交差利きの条件は何か一つ以上の動作を利き手以外で行っていること、ですから」


「へぇー、そうなんですか……」


 なんとも厨二病の子らが食いつきそうな話だな。


 みんな聞いたか?

 左手で歯磨きをできるようになれば、「俺ってクロスドミナントなんだぜ!」と吹聴しても良くなるらしいぞ。


 それに、左利きの人だったらマウス操作は右でするだろうから、既に条件は整っているかもな。


「それにしても……昨日もそうでしたが、そらくんは早起きをしますね。ショートスリーパーだったり……?」


 あれこれ一人で盛り上がっていると、次の話題を振られる。

 昨日今日と起床時間前に起きたことが気になっているのだろう。


「いえ、特には。旅行の時だけ、なぜか無駄に早起きしてしまうんですよ。多分、気分が高揚しているんでしょうね」


 肩を竦め、何でもないようなアピール。


「そうでしょうか……? 私は誰も信用していない故の緊張感からくるものだと思っていました」


 鋭い……。

 自分自身のことなのに確証がなくて申し訳ないが、俺もそっちの理由の方が可能性は高いと思う。


 けど、そういう理由は俺の人間性に問題があるみたいで、肯定しにくい。

 なので、ここは戦略的撤退。素早く話題をすり替えて、逃げるに限る。


「そ、そう言う先生こそやけに起きるのが早いですよね。昨日も今日も、俺を見つけてますけど。ちゃんと寝ないと肌に悪いですし、男に――」

「セクハラです」


「えっ……。いや、俺は親切心で……」

「セクハラです」


「でも…………」

「女性がそうだと感じれば、それはセクハラなんですよ?」


 おかしい……これこそパワハラなのではないだろうか。

 脅されて言論の自由を束縛されている。生徒という立場上、強く言えない。


「――あっ、そろそろいい時間ですね。そらくん、もう戻っていいですよ」


「…………失礼しました」


 結局反論できないままに、俺は部屋をあとにする。

 窓から覗く白い世界は、なんとも言えない俺の心情とは対照的だった。



 ♦ ♦ ♦



 帰り道のバス。

 行きと同じ席――窓際に座ろうとした俺は、隣に座るはずだったかなたに「バス酔いしそうだから」という理由で無理矢理に席を奪われた。


 だというのに、眠いからと預けられた頭はなぜか俺の肩へと乗っている。


「おい、せっかくの窓際なんだからソッチにもたれ掛かればいいだろ」


 苦言を吐くも、全く聞きやしない。

 仕方なしに放置をすると、別の内容についてボソリと言及される。


「……朝、先生の部屋で何してたの?」


 ――――! こいつ、見てたのかよ……。

 横目でかなたの様子を見るが顔はこちらを向いていなかった。幸い、表情に写った俺の動揺はバレていない。


「…………なんで、知ってんの?」


「トイレに起きたら、そらが部屋に入っていくのを見た」


 また、起きて来てたのか。

 洗面所でのあれこれが終わったあとだから、大体五時半くらい。奇しくも、昨日と同じ時間だな。


「……別に。昨日みたいに早く起きたんで用意してたら、先生にバレて暇つぶしの雑談に付き合わされただけだ」


 嘘はついていない。

 なんなら、純度百パーセントの真実だ。


 ……なのに、なんだろう。このいたたまれなさは。


「…………だから、私も行ったのに」


「言った……? 何を?」


 距離が近いおかげで、小さく呟かれた言葉を捉えることができた。

 けれど、その意味までは読めない。目的語を明確にしろって、習わなかったのかよ。


「…………………………………………」


 そう聞き返してみるが、眠ったように返事はない。


 相変わらず、コイツの考えは分からないな。

 幼馴染といっても、所詮は他人同士。漫画のように、全部が全部を理解し合えるわけではない。


 だから、俺が分かることはその眠りが嘘であることと、若干の不機嫌を患っていることくらいなのだ。

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