第46話 いつかの日

 妻が連れ帰ってきた男を見て、一度大きく目を逸らして意を決して再度視線を合わせた。


 妻が、遥が急いで――普段しないくせに――片手を引いて無理矢理に連れてきたであろう男は紫の目を細めて困ったように眉をハの字にして小首を傾げた。困ったときに首を傾げるだろう。そう指摘されたのはもう数年前のこと。


 それは遥が自身の夫である龍騎へ向けた言葉。


 遥が連れ帰った男は肩まで伸びた赤い髪を背中側で一つにまとめ、丈の長い黒いコートを着込み、引かれていた手を軽く払って礼を言った。案内ありがとう。『同じ』声に龍騎は遥を呼んだ。珍しく大人しく従った遥より前に歩み出ると同じ高さにある瞳と視線が合う。


 目尻や頬と口元の間に刻まれた皺は違うが、龍騎の前に立つ姿は龍騎に酷似する。


「うちに、何用でしょうか?」


 腰に得物が無いことを確認し声をかけると男はちょっと見てみたかっただけだよ、と片手を振って笑う。知らず龍騎の片手が彼女を護るようにわずかに広がった。


 真似るにしてはお粗末で精巧。


 驚いたんだ。男は龍騎の後ろに隠れる遥を見て笑う。


 本当に仲が良さそうだから。


 不意に背中から服を引っ張るような違和感があり、思わず片手が自身の腰元に伸びるが今日は龍騎にとって非番の日。休みの日の自宅でまで帯刀はしていなかったことを酷く後悔する。


「用がないなら」


 帰ってください。と、言おうとした言葉が消えた。


 背中から脇を通り、二本の腕が龍騎の胸元で交差し強く引き寄せられる。背中に当たる暖かさに驚き言葉を失う龍騎の前で、男は龍騎の肩から視線だけを覗かせる蒼を見た。


 酷く冷たく、酷く鋭い視線。


「用が終わったなら帰れ!」


 男を連れてきたであろう遥は龍騎を背後から抱え込んだ姿のまま怒声を吐きつけた。


 普段、人を嫌いはするが大きな声を出さない彼女が。


 龍騎に酷似した男は、はいはい、と気怠げな返事を返すと二人に背を向けた。扉から見えていた黒い背が消えるまでを見送り、龍騎は未だ背後から締める両手に左手を置いた。力は弱まらない。普段、彼女から触れてくることはあっても、人前でこんなことをすることはなかった。もちろん、叫ぶことも。


 肩に当たる小さな衝撃。頭を乗せられたのだろう。確認しようとすると頬に当たる蒼い髪。


 非番でも武器の一つは携帯しておくべきか。龍騎は遥に触れていない右手を扉に向けた。風に吹かれるようにゆっくりと動き始めた扉はかちゃり、と音を立てて外の景色を消した。誰も触れていない鍵がゆっくりと時計回りに回り、施錠される。


 扉を閉めた右手で彼女の頭に触れると締められる力が強くなる。


「なんかされた?」


「別に、されてないしさせないわよ」


 返る言葉こそいつもと変わらない。


「ふうん。武器持って追いかけるべき?」


「要らないし、多分……負けるから良い」


 それは、どっちが?


 龍騎の問に遥は応えず、顔も上げない。


「ただ、しばらく、絶対に振り向くな。こっち見るな」


「……そうだなあ。夕飯作り途中でなきゃそれを叶えてやれるんだが」


 左手に力を込めて思い切り下げればあっさりと拘束は解け、驚いている間に振り向けば彼女は顔を上げる。視線が交わされる前に普段よりも小さく見えるその体を両手で抱き込んだ。


 普段は絶対にやらないことだった。遥は先程まで締めていた龍騎の胸元に手を付くが、頭と肩を強く押さえられ身体が離れない。


「大丈夫大丈夫、な?」


 まるで子供をあやすように、それだけの言葉を耳元で聞いた。


 夕飯、火にかけてるからあの男については後でな。


 龍騎は居なくなり、遥は閉められた扉を見た。右手は不思議と自然に腰元に置いてある。今あの扉が開いて先程の男が来たら良いのに。そうしたらきっと、今度は迷わず。


――未来からやってきた――


 

 藤野の家から追い出された男はしばらく歩き続けた後、不意に止まって後ろを振り返る。彼女たちの家は既に他の家に隠れている。


 あら龍騎さん、老けたかしら。


 行き違った中年の女性に話しかけられ、男は優しげに笑みを返した。老けたなんて酷いなあ。


 強い風が吹き、縛られた灰色の髪が少しだけ揺れた。


――目の錯覚だ――



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選択お題

【未来からやってきた/目の錯覚だ】

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