第45話 バー

 

 いつになく酔っている。


 カウンター席で大声を出して笑い、怒り、酒のグラスをぶつけ合う二人が居た。マスターは客が居なくなった頃合いを見計らい扉の外に閉店、の文字を掲げて洗い終えたグラスを拭き上げる。


 客の好みに合わせ薄暗くした店内。カウンター席を照らすのは数席毎に空けて置いたカンテラ。一枚布で覆っているため強い光は届かず布の隙間を縫って差し込む光は模様となって机を彩る。もちろん、店に残った二人の客からは随分遠ざけている。既に幾度も行われた力強い乾杯のおかげで四つのグラスが駄目になっている。いつもと違う雰囲気を感じてお気に入りのグラスではなく一見の客に出すようなグラスを出して正解だった。


 拭き上げたグラスをカウンター裏の棚にしまい、向き直ると聞こえていた声は鳴りを潜めふたりともマスターを見ていた。蒼と紫。薄暗くとも見慣れた色が見えるようで、マスターはいつものように緩く口を持ち上げて笑う。お話は終わったんですか? 問いかけると蒼は細くなり笑う。紫はそのままの色を残し、グラスに残った酒を一気にあおった。良いお酒なのだからもう少し楽しんで欲しいが。マスターの願いも虚しく、紫の様子を見た蒼はずるいずるいと笑って同じ酒を同じように飲み干した。ああそれもまた貴重なお酒。


 揃って差し出された空のグラスに、飲み干したものと同じような酒を注いでやると紫の男から感じた不機嫌な雰囲気は一瞬で消える。がちん。強すぎる音でグラスは合わされ、二人は勢いよく中身の半分ほどを流し込んだ。笑い合う二人の視線がマスターから外れれば乾杯の勢いで飛んだテーブルの酒は拭き取られる。


 高い酒が軒並み飲み尽くされそうだ。


 いつになく酔っている。


 いつもはどれだけ飲んでも一切酔わない二人。共に店に訪れながら席をわざと離して座り、帰るときだけ共に在る。良い距離感だと思っていた。


 だから、今日はいつになく酔っている。


 何があったのか気になってもマスターから話しかけることはない。客と店員の繋がりはテーブルで遮られ交わらない。相手の話に耳を傾けることもない。ぎゅきゅ、とグラス独特の音を聞き、明日は休みにしてしまおうかと思ったマスターの前に空のグラスが一つ現れる。


 誰の手からでもなく。マスターがしまったグラスはひとりでに棚から浮き上がりマスターの前へと静かに降りて現れる。


 手元のグラスから視線を上げると目を細め酷く楽しげに笑う蒼の女性と、煙草を持つように緩く曲げた手のひらをカウンター向こうのグラスへ向ける紫の男。彼もまたマスターの視線に気づくと口元だけで薄く笑った。今日は皆一緒よ。女の声に男の笑みは深くなる。


 逃げられる気もしない。


 仕方なく度数の低い酒を現れたグラスに注いで軽く持ち上げる。せめてお手柔らかに。小さな願い。


 きん。と軽い音と痺れのような刺激が指先に伝わる。先程とは違う三人の乾杯。こんな乾杯も出来るのかと驚けば二人の客からは揃って失礼だ、と声が返る。グラスを互いにふたつずつ割っておいて誰が失礼というのか。マスターの声に二人はまた笑う。本当によく笑う。


「力、よろしいのですか」


 グラスの端に口を付けていた紫の男は先程グラスを動かした手を見つめ笑ってそれを傾けた。先程とは違う味わった飲み方。


「マスターと飲めるなら、寿命の一日くらいくれてやるよ」


 いつ死ぬかわからない仕事をしているんだ。構わないさ。


 ああそういえば。騎士なのでしたか。


 言ってからマスターは軽く頭を下げた。これは踏み込んだお話でした。蒼の女性はケラケラ笑ってグラスを持っていない片手を振った。酒の席に遠慮はいらない。それにお互いどれだけ酒が入ろうと話せない話はしないから。


 自分たちが騎士なのは知れた話。今更言われてもどうということはない。気になることがあるなら聞いてくれても。


 男が話している間に女性はグラスを勢いよく傾ける。おかわり。差し出されたグラスに同じ酒を注ぐ。


 恐ろしくはありませんか。


 がん、と男と女性のグラスが重なりマスターはグラスの無事を祈りながら聞いた。騎士は国境付近の巡回を普段の業務とする仕事。立場のある目の前の二人に仕事があるとしたらそれは国外との紛争や魔物の掃討。どちらも死が隣りにあると言っていい。バーのマスターには縁遠く、そして考えの及ばない世界。


「こっちはどうか知らないけど、オレは怖いよ」


 俺の隊は特に竜に乗るから、そこから落ちるだけで死ぬし。男の話を女性は笑う。


「私は怖くないわ。だって強いもの」


「はいはい。これが例外なだけで多分恐ろしく思ってない奴は居ないと思うなあ。その分の給金を目当てにしてるか、自棄になってるかは知らないけど。恐ろしい分慎重だから」


 その分のお給料は、少し羨ましいですね。


 マスターの言葉に二人で笑う。マスターも来る? 二人の問いかけに慌てて首を振る。体力も無ければいい年なのだから騎士になるなど考えたくもない。


「えー、でも龍騎は体力ないわよ」


 え。マスターの視線に男は目を細めた。


「化け物じみたお前と一緒にされてもな。マスター、普通の人よりは体力あるから。……といってもそうだな。警兵みたいに普段目にしないからわからないか」


 確かに警兵は街の中でよく見ますね。大概の人が優しく、悩み事にも親身になってくれる。


「あいつらは街の中しか動かないじゃない」


 ふん。鼻を鳴らした女性は不機嫌そうに酒を流した。


「仲が悪いのは本当なのですね」


 警兵と騎士は仲が悪い。よく聞く噂なのか。男に問いかけられてマスターは頷いた。警兵に騎士のことを聞くと顔をしかめるのが一番の原因とは思いますが。


 ふうん。男は視線を落として酒をくるりと回す。


「お前のせいだと思うが。遥?」


 問いかけられた女性は酒のついた唇をぺろりと舐めた。


「だって騎士を馬鹿にするもの」


「うん。だからって騎士が警兵馬鹿にしたら駄目だろ」


 優等生。女性はそれだけ言うとカウンターに頬を付け、男とは反対方向を向いて突っ伏した。


 心配そうに女性を見やるマスターに、酔ってるわけじゃなくて拗ねてるだけだから大丈夫、と男はグラスの酒を一口飲み込んだ。


「職業柄もあるだろうからな。警兵はこれが言うみたいに街の中に居るから」


「街の人の人望は必要と?」


 正解。男は空になったグラスをカウンターの向こう側に押し付ける。後は安酒が良い。唐突なリクエストだったがマスターは迷わず彼の好きそうな安酒を注いだ。安酒とはいえ見目が良く、飲みやすい甘口。


「言ってしまえばオレたちはある程度戦えて考える頭が有れば人望はそんな要らないから」


 給金は街からと言うより国のお上から出るわけだし。


「でもお二方は好かれていますよね。とてもお優しい」


 いつも表情を浮かべないマスターがにこりと柔らかく微笑んだ。


「……どうだろうな」


「だから今日、最後までこの店に居てくださっているのでしょう?」


 もう明日には無くなるお店に。


 女性も顔を上げグラスを傾ける。ただ静かな時間。マスターのグラスに入った氷が形を変えて音を立てる。


「マスター、まだ出来るでしょ」


「ふふ。そうですねえ、まだ出来ますが私の希望と最近の流行りは噛み合わないものですよ」


 最近は賑やかなお店が流行っているでしょう? ああいったお店にはしたくないのです。


 だからおしまい。


「惜しいんだよなー。オレたちはこれからどこで飲んだら良いんだよ。それこそ、流行りの店は興味がないんだよ」


 嫌われてる騎士様だし。わざとらしく言った言葉に三人でからりと笑う。


「ねえマスター。騒がしいお店は嫌い?」


「どちらかと言えばとてもお若い方が騒いでいるのが苦手ですね」


「若いかあ。ねえ龍騎」


 いたずらっぽく笑った女性がわずかにグラスを差し出し持ち上げる。


「お心のままに。総長」


 グラスを傾けていたマスターの手が止まる。


 総長? それは知らない情報だ。せめて隊長程度かと。


「ああ、酒で口が滑ったなあ。外に出せない情報だった。というわけでマスター、悪いけど道具は片付けずに。待っててくれ」


 いずれ口封じという名前のスカウトに来るよ。


 とんでもないことを笑って言いますね。お待ちしています。差し出したグラスを三人で合わせて笑う。


 

 騎士の士気上げ、なんて適当な理由で騎士隊舎の一室にバーカウンターが作られた。騎士たちの給金の一部で作られたため経費の担当も何も言えず、騎士たちの士気は間違いなく上がった。


 きゅ。バーカウンターのマスターは今日もグラスを拭いて彼らの来訪を待つ。

 

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