二重感染の悲喜劇
俺はウイルスである。名前は、もうない。人間からウイルスに転生してしまったので……という話は、既に一度したと思う。あの時に語ったように、俺は今や『俺』ウイルスとして、生と死を繰り返す毎日である。
今日も、そんな一日となるはずであった。
出来立てホヤホヤの新たな子孫ウイルスの中で覚醒し、ウイルスとしての何度目かの『
そして薄れゆく意識の中、俺は気づいた。今回侵入したこの細胞、どうも今までとは勝手が違う。といっても、細胞の種類そのものが違う、という感じでもない。ただ、細胞の中が、妙に騒がしいのである。
いやもちろん、俺たちウイルスとは関わりなく、細胞は細胞で自身の生命活動を
こんな賑やかな細胞は初めてである。なんであろう? 妙であるな?
そう思ったところで、俺は気が付いた。この細胞には、先客がいたのである。既に、他のウイルスが感染していたのである。
見れば、『俺』ウイルスとは異なる種族のようである。ウイルスに転生して以来、別のウイルスと遭遇したのは初めてである。
わけもなく嬉しくなった。それだけではなく、後学のためにも、友誼を結びたいと考えたのであるが、はて、どうしよう。挨拶したくても、挨拶など出来ない。俺たちウイルスには、喋る口もなければ、身振り手振りで伝えることも出来ない。以前に述べたように、『手』に相当するタンパク質はあるけれど、あくまでもそれは感染を手助けする
いや、こういう場合、自分のことばかり考えてはいけない。相手さんの方の都合もあるであろう。しかし『先客』さんもウイルスであるから、
そもそも考えてみれば、この『先客』さんが、俺みたいに意識あるウイルスなのかどうか、それすら定かではないのである。俺が――人間であった魂を宿す『俺』ウイルスが――言うのも変であろうが、常識的に判断するのであれば、一般的にウイルスは意識など持たない存在である。ならばおそらく、『先客』さんには魂も意識もなく、何も考えていないに違いない。だから『先客』さんと親交を深めることは不可能である、と俺は結論づけるしかなかった。
では、友になれないのであれば、敵となるしかないのであろうか。縄張りを争う
なにしろ、俺たちが入ってきた細胞の中というものは、俺たちウイルスにとっては、広大な世界なのである。『先客』ウイルスも『俺』ウイルスと同様に、せっせと細胞内で遺伝子――ウイルスの
おお、なんと平和な共存状態ではないか! 俺は感動すら覚えつつ、さらに様子を見守っていた。すると、出来上がった新しい遺伝子やタンパク質が、宿主の細胞膜近辺へと集まっていくのが見てとれた。子孫ウイルス誕生の
ここで一つの問題が生じた。『先客』ウイルスのタンパク質と『俺』ウイルスのタンパク質と、それらのうちのいくつかが、細胞膜近辺の同じ場所で、押し合い
いやはや、これは困った。細胞膜だって、見渡す限りの広範囲に及んでいる。何も同じ場所に集まることはないのである。もちろん、狙って密集したわけではなく、偶然なのであろう。しかし意図的にせよ偶発的にせよ、問題は問題であった。実際、『先客』ウイルスのタンパク質と『俺』ウイルスのタンパク質が、一緒になって同じ一つの
当たり前であるが、構成するタンパク質と遺伝子が、上手く一つの
もしも、ごくごく近縁のウイルスであり、両者のタンパク質の性質や形状などが似ており、
まあ、
しかし、大げさに考えることなかれ。このような事例は、至るところで繰り広げられている、というわけではない。むしろ、稀有な例であると思ってくれていい。大海の中の一滴である。砂漠の中の一粒である。
実際、『先客』ウイルスも『俺』ウイルスも、きちんと正常な子孫ウイルスを大量に作り出していた。ほら、消えゆく俺の意識も、もうまもなく、そうしたウイルスの中で新たな覚醒を……。
そう。恒例行事として、俺の意識は、生まれたばかりのウイルスの中に移動した。だが、ここで俺は違和感を覚える。どうも体の具合が、いつもとは違う。はて、何が異なるのであろうか?
まず気づいたのは、ウイルス全体の形状からして異なる、ということであった。本来『俺』ウイルスは、やや細長い、丸い形をしている。専門家は『砲弾型』と呼ぶらしいが、ウイルスである俺には、砲弾も鉄砲もありはしない。ともかく、まあ、そのような外観であった。
ところが現在の俺は、むしろ球状である。
続いて俺は、大事な大事な遺伝子にも異変があることを、今さらながらに察知した。今までの『俺』ウイルスは、他の多くのウイルスと同様に、長い長い一本の遺伝子を大切に抱え込んでいた。もちろん直線状では体の中にしまい込むのに不便であるから、バネのようにぐるぐると縮めて、いわゆる螺旋状にして運んでいた。
ところが、どうしたことか。今の俺の体の中では、その重要な遺伝子が、ぶつぶつと何本かに分断されているのである! これは
……などと思ったところで、俺は、人間であった頃に聞いた言葉を思い出した。それは『分節ウイルス』という学術用語である。そして、理解した。今や俺は、分節ウイルスとなったのである。『俺』ウイルスではなく『先客』ウイルスの中で、俺の意識は覚醒してしまったのである!
いや『分節ウイルス』といわれても、ピンとこない人もいるであろう。実際、初めて聞いた時の俺も、そうであった。だから、少し説明しておきたいと思う。
おそらくウイルスの専門家でなくても、インフルエンザウイルスという言葉ならば、ほぼ全員が知っているのではなかろうか。そう、そのインフルエンザウイルスこそが、『分節ウイルス』の代表例である。
ウイルスにとって遺伝子とは大切な設計図である。それは既に理解してもらったと思う。先ほど述べたように、多くのウイルスは『俺』ウイルスのように、一本の遺伝子、つまり一枚の設計図しか持っていない。だから『手』に相当するタンパク質の遺伝情報も、『顔』タンパク質の情報も『心臓』の情報も、何もかも全てが、その一枚に書き込まれているのである。
一方、インフルエンザのような分節ウイルスでは、遺伝子が複数に分かれている。つまり、何枚かの設計図に分散されている。『顔』や『手』や『心臓』など、それぞれの遺伝情報が、それぞれ別々の設計図に描かれているのである。
さて、インフルエンザウイルスという言葉を御存知であるならば、おそらく
ここで、両者が感染し得る動物の同じ一つの細胞の中に、偶然、
しかし、二種類のインフルエンザ同士の二重感染であるならば、俺の体験とは話が違ってくる。なにしろ、どちらもインフルエンザウイルスである。お互いの
ここで、一つ注意してもらいたい。インフルエンザウイルスの
分節ウイルスである以上、
遺伝子が非分節、つまり設計図が一枚であれば、
一方、遺伝子が分節、つまり設計図が何枚にも分かれていたらどうであろう。例えば、
さあ、大変である。この新型は、『顔』が
つまり分節ウイルスとは、非分節ウイルスに比べて変異しやすいウイルスである、といえよう。もちろん非分節ウイルスも、
ともかく。
このように、俺が獲得した新しい
しかし
そのためには、まず、新しい宿主となる動物に入る必要があるであろう。俺はウイルスとなって以来――つまり『俺』ウイルスとして暮らしてきた間――、ずっと同じ宿主の体内で、細胞から細胞へと渡り歩きながら、生と死を繰り返してきた。この宿主の体から、外に出たことはない。この宿主が
他のウイルスを見かけたのも、今回の『先客』ウイルスの
しかし、残念なことに、俺はウイルスの
まあ、構わない。細胞を移り歩く中で、いずれは、宿主の体の表面に近づいていけるに違いない。ウイルスの
こうして考えている間にも、俺の意識は再び薄れゆき、次の子孫ウイルスへと向かう。そして、新たなウイルスとして再び生まれ
そう、これは『先客』ウイルスではなく、『俺』ウイルスの特徴である。つまり俺は、また『俺』ウイルスとなっていたのである。
ああ!
俺が、他のウイルス――分節ウイルス――となったのは、一代限りであった!
戻ってみると、なんとも感慨深い。
いつもの
不思議な話である。もしかすると俺は、夢でも見ていたのであろうか。
しかし「非分節ウイルスは分節ウイルスの夢を見るか?」と聞かれて、簡単に肯定できるものでもない。
とりあえず。
あれが夢であったにせよ、現実であったにせよ。
俺は、勝手知ったる『俺』ウイルスの体に復帰したわけである。つい先ほどまで「分節ウイルスは素晴らしい」という主旨で語ってきた俺が言うのも変かもしれないが、この体はこの体で悪くない。慣れている分、居心地よく感じてしまう。そう、戻れたことに感謝したいくらいである。ああ、ありがたい、ありがたい。
(「二重感染の悲喜劇」完)
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