夜汽車

yura

明訖

少女は乗り口から足を踏み入れる。

下関発の深夜列車に乗って東京への途に出る。時は十時か十一時とつかぬ所で街の明かりは静まっていた。

四人掛けのボックス席に相席となったのは疲れ切ったような成人男性であった。老人と云って良いやも知れぬ。

まるでお通夜のような顔。その顔に少女は、どこか見覚えのあるような気がした。

至って丁寧に一礼。男性は癖となった作り笑いを一瞬、ぎこちなく浮かべて一礼返す。だがそれは疲労と虚脱感と、案じと哀悼で、最早笑いの体を成していなかった。

ただ大人のひとはこういうものだと少女はさして気に留めず腰を下ろした。


斜め向かいの男性はちょっと車窓に目線を投げていたが直ぐ話題を彼女に向けて一息、「御嬢さん、御一人。」「ええ。」

「何処で降りるのかい」「東京へ。」 …ああ僕もだ、と男は普段だったら笑う間なのでそうしようとして、哀惜と悲痛に顔を満ちさせ、すぐにそれを引っ込めた。笑いというものが長く続かない。彼の顔色は徒労に染まり切ったままだ。


「府に着いたら仕事が山積みだ。一眠り。しても罰は当たらぬかもしれんが、眠れたものでない」

疲労がその意を物語っていた。恐らく彼は何か重大なものを手離した。

多くを語るは野暮なうえ億劫で、少女は勿論、何も言えなかった…何を訊こうが子供の勝手でも、それは許されてはいけないような気がしたのだ、少女も恐らくこの空気に染まっているからであった。それは分かるような分らぬような、少女に近しい者共の空気。この夜汽車は―何か、得体のまだ知れない底なしの沈痛を抱いている。


府、というには二か所思い当たる。僕もだ、と賛同するから彼も同じ終着かと思った。ここは大阪には停まらない。京都か。私より近い…少女は男を少しうらやましく思った。


――客がまるで少ない。人々が計らって沈んでいるような錯覚を叩き呼び起こされる。夜汽車は沈痛な面持ちで発車を決行する。

アナウンス、汽笛。 明かりの去った車窓。空に小さな粒が佇んでいるのを、少女の目は漸く認めた。


この夜汽車には初めて乗りましたが、こんなに静かなものなのですか。 

そう訊こうとした。少女は彼の閉じた瞳を見詰めて頭の中だけでそう問う。男は本当に眠っている。やがて少女が目を休めようと身体を背凭れに預けたと時を同じくして、彼がゆっくり眠りからかえってきた。 

少女ははじめから寝るつもりなんて無かったように姿勢を戻して窓の外を見ていたふりをする。

「真暗だね」

「余りに真暗過ぎませんか」

「それはそうだよ、暗過ぎるなんてことは無い、

 皆、弔いの火を掲げているんだ…」

「…火、」

少女が小さく繰り返すと、「暗闇が彼らの哀悼の意の火であるんだよ」と表情の変化を潜めて小さく詩を暗唱するように、当たり前のことを少女に指南するような口吻で状況的説明を弁す。


「街がみんな死んでゆくみたい」


少女の呟きに、男は少しだけ間を置いた。

「一つの時代はきっと死んでゆくように映るだろう」

男は目を閉じて過去を咀嚼した。少女はわけの分かるような、否、全く理解できぬような、初めての遭遇をしたような気だった。


街は、この男一人だけではなく、重大なものをおくったのだ。

沈み切った一様の沈着が美しくも思える。

それは少女の未知に対する好奇と敬愛からだけであったろうか。過ぎてなお人心を纏めるような重大なものを失った街は、廃すというよりもそれを期に更に一体と紡がれてゆくように思わせる。


「だけれどおくっても尚忘れずにいて」 男は再び口を開く。

「受け継いで拓いてゆく。ゆかねばならない」

少女はじっと聴いていた。男は少女と少し目を合わせる…うつろだが確かにしっかりと、悪い気のしない目配せだった。


「留まって死んではいけない。引き続き渡っていかなければいけない、其れが正しき奉公」

これからすぐにでも消えてしまうような大切な人に、のち地層の下部に紛れて忘れられてしまうような美しい金言を聴いて受け取ってしまった様だと少女はまともに考えた。



 窓にちょうど北斗七星が掲げられていた。少女はもう少しその位置が違っていたような錯覚を起こした。よく似た別の世に来てしまっているような気もしている。

根拠など何も無い。あるとすればその星の違和感。こんなものだったろうか。近しく星を見ていなかったわけではないが。

北極星も少女を見下ろすその目が、列車に乗る前のそれと色を変えている気がするのだ。

これも街と、不思議な沈痛を負う斜め前の男と、夜汽車の静寂が異様に一致して同時に存在している所為であろうか。 灰色か青、藍の画布を一面に被せた上に銀と金を乗せ、ナイフで傷を付けたような背景がそこに在る。

 車内が複雑で重なった大前提に纏われている。 暗い。

 一言で表すとこう、不粋なものになるが確かにそうだった。

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