大きな桜の木の下で

赤河ゆい

大きな桜の木の下で

 目の前の女の子が勢いよく頭を下げる。

「好きです! 付き合ってくださいっ……」

 しかしその声は、必死さに欠けていた。まさか自分がふられることはないだろうと、自信を持っているように見えた。確かに彼女は校内で一番の人気を誇る美少女だ。

 おれが言うべき言葉はただひとつ。

 深く息を吸った。


 翌日、学校はそれなりにざわめいていた。昨日の彼女の告白のことがもう知れ渡っているようだ。驚くのも無理はない。おれ自身もかなり驚いたのだから。

「おはよう」

 ガタッ、といすや机が動く。次の瞬間にはクラスメイトたちに取り囲まれていた。

「おい、聞いたぞ! ゆう様に告白されたって? それで、ほんとにおまえ……」

 おれはそのあとを引き継いで答える。

「断ったよ、ほんとに」

 一瞬どよめき、さらに食いついてきた。

「まじかよ! 何であんな美人をふったんだよ?」

 興奮と驚きで、良くも悪くも瞳を輝かせる同級生たちに、色々あってねと答えておいた。


「知ってる。みんなが噂してるからな。信じてるやつは、少ないけど」

 放課後、親友のしげちゃんに昨日のことを報告すると、彼はそう頷いた。

「おまえ、意外とコクられるだろ? なのに何で誰とも付き合わねえの? あのべっぴんさんまでふっちゃってさ」

 しげちゃんはどこからか紙パックの牛乳を取り出し、ストローをくわえた。黒目だけを動かしておれをのぞきこむ。

「彼女つくる気、あんの?」

「もちろんさ」

 不満げに口をとんがらせて、じゅーっと飲む。

「おまえって、本当によくわかんねえやつだよな」

「そうかな?」

「ああ」

 しげちゃんは自信を持って頷く。それからどこか嬉しそうな笑みを見せた。

「だからおまえってやつは面白いのさ」

 おれたちの視線があう。西日が彩る世界の片隅で、おれたちは笑った。しげちゃんは豪快に、おれはきっと疲れたような顔で。それでも二人で笑っていた。彼の清々しいくらいに豪快な笑い方は、なんだか安心する。

「じゃあまた」

「おう、じゃあな」

 しげちゃんに手を振り、おれは歩き出す。

 空を見上げる。

 春を感じさせる、澄みきった透明な空だった。


 この町の南には、そこそこ広いひとつの公園がある。おれは毎日のようにここに通っている。

 ここには、思い出と約束があるからだ。

 いつものように遊んでいる小学生。いつものように談笑している犬を連れた人びと。いつものように風に揺れる古びたブランコ。

 いつものように、あの木の下に行く。

「……」

 昔からここにいる、立派な桜の木だ。追いやられたように公園のはじっこに、ひとりでたっている。けれど、その姿は堂々としていて、おれは昔からこの木に尊敬に似た感情を持っている。

 でもあの日から、この木を見るたびに胸が切なくなる。風に吹かれた木葉のように、弱くざわめく。

 しばらく見上げ、細い枝の先端を観察する。もうすでに咲き始めている。

 どさっと木の幹に背を預け、太い木の根に腰かける。ぼんやりとどこか遠くを眺める。

 おれはここで待っているのだ。

 世界でたったひとりの、大切なひとを。



 おれたちは八年前、小学三年生の時に出会った。

 厳密に言えば、もちろんおれたちはもっと前からお互いのことを知っていただろう。けれどおれたちは会ったことはなかった。おれたちはお互い少し人見知りだったから、わざわざ違うクラスのひとと会おうとは思わなかった。

 けれど九歳の時、おれたちはしっかりと話し、笑いあい、友と呼びあった。

 その子の名は、吉島香よしじまかおる

 彼女は丸顔でいつもにこにこ笑っていて、溶けたクリームのようなえくぼがあった。細い子よりもふっくらしていて、太っている子よりもスリムだった。水泳をやっていたため、髪が茶色っぽいのも可愛かった。ほんわかした優しい子で、男子からの人気も実は多かった。

 何がきっかけで仲良くなったのかは、あまり覚えていない。多分隣の席になったとか、同じ班になったとか、そういう理由だろう。

 大切なのは、人気者の彼女がおれと話してくれたということだ。それ以外は重要じゃない。

 家も案外近所で、何度かおじゃましたこともある。おれたちの家の間にあるのが、公園だ。桜は彼女の家の方にあって、家から見えるんだ、と彼女は嬉しそうに言っていた。

 おれたちは相手が家に帰るとき、桜のところまで送って行った。優しい彼女は、ここまで送らなくていいよと申し訳なさそうに言っていた。それでもおれが送ると言うと、少しだけ笑った。その遠慮しがちな笑顔がまぶしかった。

 おれはいつかこう言ったことがある。

「ずっと一緒にいような!」

 今思えば恥ずかしい台詞だが、おれは堂々と言った。人付き合いの少ないおれは、ちょっと常識はずれなことを言うことが多かった。おれが何か言うたびに大人たちがおかしそうに笑うから、かなり嫌だった。

 香はとても喜んでくれた。

「うんっ」

 ふわふわの茶髪が桜の色を帯びていて、美しかった。

 --あぁ。これを幸せって言うんだ。

 香といて、そう思った。

 満開の桜のように鮮やかな色彩でひとを魅了するものを、そう呼ぶのだと。

 

 例えどれだけ美しい花だろうと、花はやがてちりゆく運命。

 おれはそのことを、理解していなかった。


 ある日突然、香は登校しなくなった。担任が言うには、香は交通事故に遭って意識不明らしい。頭からひどく出血もしているとのことだった。目覚めたとしても、何か障害が残ってしまうこともあり得ると。

 --香が、あの優しい香が……。

 頭が真っ白だった。香の事故。もちろん、それも恐ろしい。けれどあのとき、おれは周りのみんなが怖かった。

 --なぜ授業を平然と続けられるんだ? なぜおまえたちはいつものように、笑っているんだ? 香がいないのに。まるでいないのが当たり前のように……。

 一週間、二週間、一ヶ月とどんどん過ぎ去る。香がいないまま。香を置いていったまま遠ざかっていく。

 季節が移り、学年がかわり、みんなは香を忘れた。しげちゃんですら、香のことを忘れているだろう。

 でもおれだけは香のお見舞いに行った。大抵香のお母さんがいて、おれにいつも弱々しく微笑みかけた。

「ありがとう、しゅうくん。でも毎日来なくてもいいのよ。みんなと外で遊んでおいで」

 おれは首を振った。

「いいんです。ひとりだと、香はきっと寂しい思いをしてしまうから。おれはここにいたいんです」

 彼女は母親独特の目でおれに笑いかけた。

 きっとそれがいけなかった。

 あるとき、彼女はここから去ると言った。香を治すために、もっと良い病院に移るのだと。  

 香のことを考えてのことだろうが、おれを気遣っての行為でもあるとわかっていた。香とばかりいてはおれに友達ができないとか、こんな悲しい思いをさせ続けるのはかわいそうだとか、きっとそういう思いで。香といたかったが、香を想うのなら、新しい病院に行かせるべきだ。

 おれは黙って頷いた。

「香が起きたら伝えてください。これからずっと、公園の桜の木の下で待っているから、元気になったら会いに来てくれって。何年たっても、絶対に待ってるって」

 おれは真剣にそう言った。笑われるかなと思ったが、彼女は笑わなかった。それどころか、彼女は涙ぐんだ優しい表情をした。

「ええ。必ず伝えます。本当にありがとうね、秀くん」

 おれは香たちを見送った。遠ざかる車をじっと見つめていた。

 風が吹いて、周りの桜が散った。

 

 あれから八年。香は帰らない。


 風が吹いて、頬を花びらが撫でた。

 こんなに長い間、おれは待ち続けた。

 なのに、おれたちは会えない。

 きっと香が起きたことが嬉しすぎてお母さんが彼女に伝え忘れたんだとか、新たな町で出会ったカッコいいひとに香が夢中になっておれを忘れたんだとか、色々な言い訳を自分に与えて笑っていた。

 でももう無理だ。

 考えないように、意識しないようにしていた。

 でも、もう無理だろう?

 八年、八年もここで待ってるんだ。服だって、昔着ていたものに似た配色のを買って、髪型だって変えないで、あいつがすぐにおれだってわかるようにしてきたのに。

 この八年であったことを話したくて、おまえの笑顔に逢いたくて、昔言えなかった、言いたかった言葉を伝えたくて。台風の日も雪の日もここに立って、話すべきことを一生懸命に考えて言葉を重ねて。車が通るたびに顔を上げておまえを探して。なのに、ずっと会えない。

 きっとよくあることなんだろう。この世界にはおれと同じ境遇のひとは多く存在するんだろう。

 だけど、あいつを待ってやれるのはおれだけなんだ。おれが諦めちゃいけないんだ。わかってるんだ、そんなこと。

 でも、八年も眠っていて、奇跡的に目覚めたとして、何も失わずにいるのだろうか。おれとの記憶とか、そういう何かが消えていてもおかしくはないんじゃないのか? 

 そもそも、八年も眠っていた当時九歳の女の子が、生きているのか?

 ぞっとして、ぶるるっと頭を振った。

 --なんてことを考えてんだよ。生きてるに決まってるだろ。

 必死にそう言うのは、感情か。

 --はっ。何言ってるんだよ。

 突き放したように鼻で笑うそいつが、理性というものか。

 そいつは何かを振り払うように、哀しげに言った。

 --そんな優しい奇跡が起こる世界なら、そもそも彼女は事故になんか遭わなかっただろうよ。

 目が熱くなる。首が絞められているかのように、息ができない。

 わかっていた。

 --諦めろ。

 知っていた。きっとそうなんだろうとは思っていた。

 それが嫌で、何もわからないふりをしていた。何も知らない、無邪気な子供のふりで、八年間自分を騙してきた。

「ごめん、ごめんよ。何もできなかった。きっと助けを求めていたのに、おれは……」

 言葉が続かなかった。のどはもう一ミリも開いていない。目が熱い。大量の水で視界が悪い。おれは死ぬのかな、と本気で思う。

 目の前にひとりの女性が立っていた。長くて柔らかそうなパステルカラーのワンピースを着ている。

 見覚えがある気がする。その遠慮がちなえくぼに見とれていたことがある気がする。

「秀くん、だよね?」

 まるで春の空みたいに澄んだ声。

「来るの、遅くてごめんね。二年間ずっとリハビリしてて、なかなか来れなくて。お母さんに、秀くんに言わないでって頼んでたの。私の口から、元気になりましたって伝えたくて……」

 サァ……と風が鳴る。涙が溢れて止まらない。

「ずっと、待っててくれて……」

「香」

 おれはしゃがれた情けない声で、香の声を遮った。こんな綺麗な声を、こんな声で遮るのは不本意だ。どんな声にせよ、香の美しい声を遮るのはこれで最後にしよう。

 かすれた声とぼんやりした視界のまま、香に伝えたい言葉を、八年間考えて、まず最初に言いたいと思った言葉を伝える。

「おかえり、香」

 香のふっくらした頬に何かが流れた。

「……ただいま、秀くん」

 やけに聞き取りづらい声で、ありがとうとささやいた。

 花が舞って、おれたちは空を見上げた。

 幸せを運ぶ花と深い青に染まり始めた透明な空が、おれたちを見下ろしていた。

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大きな桜の木の下で 赤河ゆい @clob

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