長寝は三百の損

@planet_f

長寝は三百の損

早く起きたって特に何もすることがなく、ただ眠いだけで、何が三文の徳だとよく思ったものだ。



だというのに、長寝の代償は余りに大きい。





僕の人生最大の危機。



一人暮らしはこれだから大変だ、と学生時代に家族から叩き起こされた記憶が蘇る。いつかはやるだろうと思っていたが、就職早々という一番気を張っているはずの時期でやらかすとは、僕は随分と肝が座っているのだろう。


勿論、そんなことなどあるはずがない。


僕は見てくれも中身も真面目人間。常に良く言えば堅実に、悪く言えばやる事以外何もしないでつまらない人生を送ってきた。


頭の中でぐるぐると喋っていても、今以上に速く体は動かないし、気持ち良く寝ていた時間も返ってはこない。


昨日寂しいと電話で泣きついた友人の電話を五月蝿いと冷たく切っておけば、


僕がもう少し朝に強い人間だったら、


会社が徒歩十五分圏内なら、


ここが電車がたくさんある都会だったら、


そもそもここが日本でなかったら。


そうだ。開始の時間に異様なまでに厳しいのは、日本の悪しき習慣じゃないか。

しかしながら、ああ悲しいかな。ここは日本だ。そして僕は生まれも育ちも日本人だ。バスが一分遅れればいらいらしてしまうザ・ジャパニーズ・ハートを持った日本人だ。

僕は一生時間に追いたてられ、他人を同じように追い立てる性分なんだ。失望した。この世に。人間に。欲に勝てなかった自分自身に。


ちなみに僕はゆとり世代ではない、悟り世代だ。


そんなくそどうでもいいことばかりに、思考が捗る。


頬も手足も暖まっているのに、頭は醒めて、やけに冷静だ。これは試験で答案の半分も埋まらなかったあの絶望した状態によく似ている。


つまりはそういうことだ。


僕のすっかり覚醒した頭でも、緊張と極度のプレッシャーをかけた心臓でも、常に動く視界と忙しく廻る体にとてもついていけない。


人間には、能力の限界が存在する。

だからこそ、何をとり、何を捨てるか、見極める必要があるのである。

つまりは、優先順位をつけるのだ。

ネットの偉い人もそう言ってた。間違いない。


さて、僕の優先順位、堂々の1位は電車の発車時刻。正直考えるまでもなかった。

ちなみにこの一本を逃すと、次に来るのはきっかり30分後。


朝食、ぼっさぼさの髪の毛、ちっとも見当たらない腕時計を次々と切り捨てる。


だって時間がないんだもの。


僕は振り返らない。ただ一心不乱に、鞄にきっといらないであろうものまで詰め込み、駅まで走った。


長らく運動していないので、今日の体が心配だ。

いや、大丈夫だろう。僕には若さという取り柄がある。逆に言えば、それしか無いのだ。


僕は狭い道路を全速力で走り抜けた。

横並びに広がって歩く学生が今日は一段と腹が立つ。

僕は、誰の目もくれず、時にはコケて周りの人の注目を引いても、駅まで駆ける他ない。

改札口が見えた。電車が見えた。


ここまで来たら、一か八かだ。



そうして僕は最後のひとっ走りを終えた。




結果を先に言おう。間に合った。



世の中に駆け込み電車という迷惑な輩がいるそうだが、危うく僕はなりかけた。しかし、僕の無駄のない、素早き行動は電車が閉まるまでに猶予を与えた。


これで何も文句はいうまい。誰にも言わせない。まさに品行方正。今日の僕を労ってもいいくらいだ。


ここが都会なら、と一回は思ったが田舎だからこそこうして疎らな座席がある。悪いばかりではない。

なんだ、やけに都合がいいって?


人生ってそんなものだろ。


余裕が出てきたからか、体から初めて力が抜けた。まだ、動悸は当分収まることはないだろうが。


まだ一日が始まって7時間程しか経っていないが、言わせてもらいたい。今日は散々だったと。


電車に乗るだけで一日の疲労は優に超えた。

寝坊の末に遅刻など、決してあってはならない。


早寝を薦める某ことわざは、得を取りあげず、長寝の損を強調するべきだ。その方が日本にぴったりだ、なあそうだろう。



ああ、だるいなあ。



電車の中は、学生やスーツだらけだ。

皆スマホを見たり、音楽を聞いたり、単語帳を開いて各々の時間を過ごしている。


僕は目が冴えきったまま、あまり変わりのない、青い山々が見える窓の外を眺めたのだった。


会社に入った瞬間に、さっそく後悔した。

録に整えもせず、加えて走ったことで風を受け続けた僕の前髪はあらゆる人からの笑いを誘った。丁度気になっていた事務の女性も笑顔に出来た。

何故だろうちっとも嬉しくない。


ますます、長寝は損だと思う。二度あることは三度あるとは、よく言われることだ。もしかして、重要な忘れ物でもしているんじゃなかろうか。


次は笑いではなく、上司の般若顔が迫ってくるのではないか。


とはいっても、今さら遅い。帰るまで家には帰れないのだから、腹を括ろう。


うん、若さがあれば、大丈夫。


変な安心をして、まだ慣れない手つきで仕事に取りかかった。


幸いにも、仕事に差し障る程の忘れ物がなかった。腕時計がなかったのは、かなりの痛手だったが、致し方あるまい。


むしろ、今日怒られなかっただけ素晴らしいと思わないといけない。



帰宅。


家のドアの前に立って、鍵を取り出そうとした。待てよ。そういえば、鍵をどこに仕舞ったか?いつもの鍵ポケットにはなかった。


そもそも、朝閉めた記憶がない。急いでいたからだ。電車に間に合うことが最優先だった僕は戸締まりが頭からすっぽぬけていたらしい。


なんて不用心な奴なんだ。


いくら人が少ないところとはいえ、半日以上も家を開ける馬鹿なんて存在するのか、おっと、ここに一人いたな。


僕はドアに手をかけた。けれど、何故か動かない。おかしい。もしかして、記憶はないが鍵を閉めたというのか?確かに、電車に乗る前まであまり覚えていない。


無意識に鍵を閉めてくれていたのか?


だとしたら、鍵は。


僕は鞄をひっくり返し、玄関周辺や駅までの道を探し始めた。けれど見当たらない。冷や汗が全身から溢れ出す。冗談はやめて欲しい。僕はアパートを借りている人間なんだ。僕自身の問題では済まされないんだ。

あんなに鍵を無くすなと念を押されていたじゃないか。


とりあえず、大家さんに連絡すればいいんだろうか。そしてまた玄関に着いた。電話をする間、罪悪感やら恥ずかしいやらで何もすることがない左手で頭を掻き、アパートの玄関ポストの中に勢いよく突っ込んだ。

こうでもしなきゃ落ち着かないんだ。

どうせピザの広告でも入っているんだろう。今は食欲どころではない。むしろ吐き気がする。


その時、固い、冷たい感触がした。ぴんときた。


鍵だ!


丁度大家さんに繋がってしまったが、気にはしない。鍵が見つかったことを伝え、ポストの前で何度も頭を下げた。その間、住人が来なくて心底良かったと思う。

鍵があったという事実に、僕は安堵し、盛大なため息をついた。体に上手く力が入らない。


頭では、どうするべきか冷静な思考を行っていたが、やはり緊張状態であったらしい。

本日2度目の感覚に、僕はうんざりしていた。


今日はやけに心臓に負担がかかりすぎているように思える。

ただの自業自得なのだが。


僕は力なくドアを開けた。こんなに家に入ることに感謝する日がくるなんて。


これからは、夜更かしはやめよう。


それから、目覚ましはたくさん掛けて、ああそうだ、家族にモーニングコールを頼もうか。本当はしたくないが、最後の保険には最適だ。今日の話をすれば、引き受けてくれるかもしれない。


余裕って、大事。


そうため息をつきながら呟き、僕は部屋着に着替えた。


ふと、散らかった机の上にキラリと光るものが見えた。


それが目に入った瞬間、誰かに体を押されたような目眩がして、同時に気持ち悪さを感じた。



嘘だろ。そんなことあるはずがない。


それは、鍵だった。

紛れもない、僕の鍵だ。


そうだ、朝、僕はポストに近づいていない。


わざわざ急いでいる時にポストを確認する余裕なんてあるはずがない。だから、明らかに鍵の場所は不自然だった。

いや、もしかして誰かが拾ってくれたという考えがよぎった。しかし、今やそんな考えなどできない。


合鍵はつくっていないはず。


それだけで、最悪なところにまで思考が及ぶ。


考えたくないのに、この部屋が不気味な空間に変わっていった。


僕は部屋を隈無く見た。



よく見たら、散らかした朝よりも綺麗だ。



その風景が僕に確実に恐怖を与える。



部屋は片付いている以外に、何もなかった。


今僕は、拠り所である家にいるはずなのに、落ち着かなくて不安で、自分の足下さえ信頼ができない。



七転八倒。



泣きっ面に蜂。




別に、今日に限る話ではないことは分かっていた。

けど、気づきたくないものに気づいたことは不幸じゃなくていったいなんだというのだ。


僕は朝よりも少しだけ整った部屋にずっと立っていた。きっと間抜けな顔をしてるに違いない。



長寝坊の損は、簡単に終わらなかった。




ピンポーン



ピンポーン




遠くの方でインターホンの音が聞こえた。




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