第9話 Iris
「明。Iris を、止める方法はないか?」あまり期待してはいなかったが、太一は念のため聞いてみた。
「ないことは、ないです」と、あっさり明は答えた。
「ホントに?」樺島さんと山田さんが、驚いて大きな声を出した。
「できんの?!」紗理奈くんは、最初から疑っていた。
時間は、14時。みんな、出張から帰ってきた。久しぶりに、事務所にメンバーが揃った。今日も、17時から記者会見だ。でも今回も会社は、回答を太一に丸投げだった。だから、何の準備も必要なかった。
「アイデアが、少しあります」と、明は小さな声で言った。
「是非、教えてくれよ」と、太一は頼んだ。
死人と殺人者は、増える一方だった。55人のリストのうち、犯罪に係わっていないのは、五人だけだった。うち、三人は自殺していた。
25人の死者と、25人の犯罪者。その上、リストにない死者と共犯者が加わった。この国は、一瞬にして犯罪大国となった。この事件を、海外のメディアも取り上げた。もう、たくさんだった。何としても、太一はIris を止めたかった。
「みんながデータを集めてくれたので、いろいろわかりました」
「うん、それで?」樺島さんが、早く教えろという調子で言った。
「Iris は、少なくとも五つのグローバルIPアドレスを持っています」と、明は説明した。
「はあ?」ピンとこない、紗理奈くん。
「この世にIris は、少なくとも五台あるんだな」と、太一は聞いた。
「そうです。ですが、もっとあるかもしれません」
「マジかよ・・・」山田さんは、気味悪そうな顔をした。
「五台のIris は、連携していないと思います。もし全台が情報を共有していたら、各台の間で、莫大なネットワーク負荷が発生します。システム自体も、同期のための計算が増えます。だから、みんな個別にユーザーと会話していると思います」
「釧路のIris と、尼崎のIris は別かもしれないのか」樺島さんが、そう言ってうなった。
「そうです。Iris のコピーは、他にもあるかも知れません」と、明は断った。
「そうかもしれない。でも、とりあえず五台を止めよう」と、太一は言った。
「ですが、今日までで全台消えました。アクセスできなくなったんです」
「いったい、何が起こったの?」と、紗理奈くんが聞いた。
「いわば、夜逃げです」と、明は答えた。「グローバルIPアドレスも、URL も変えて消えてしまう。でも、ユーザには新アドレスを伝えるんです」
「じゃあ、ダメなのか?」と太一は答えた。
「いいえ」と、明は答えた。「こうなるかと思って、5台のIris に全部ユーザー登録しておきました。そのうち、四台の新アドレスが掴めてます」
「さすが!」と、紗理奈くんが明を褒めた。
「じゃあ、その四台を何とかしてくれ。これから、殺人指示を出すかもしれないんだから」と、太一は頼んだ。
「そうですね」と、明は納得した。
「そうだよ!」と、樺島さんがハッパをかけた。
「で、どうやる?」と山田さんが、技術者らしく聞いた。
「ひとつ目のアイデアは、四台のサーバーのハードウェアを止めることです」
「ハードウェア?どうやって?」と、太一は明に聞いた。
「ファームウェア(ハードウェアを制御するためのプログラム)に、偽のアップデートを実施します。こうすれば、サーバー自体を止めることができます」
「でもさ。もし、そのサーバーが銀行とか医療機関のシステムだったら?」と、すぐ紗理奈くんが聞いた。
「そのシステムも、ストップします」と、明は答えた。
「そりゃ困る。止まったら大変だ」と、樺島さんが大きな声を出した。
「Iris は、いろんなシステムに寄生しています。所有者の知らぬところで、中に入りこんでいます」
「すると、第一案は取れないな」と、太一は落ち着いて言った。
事務所が、一瞬シュンとなった。他の人たちも、聴き耳を立てていたのだ。ただ、普段は静かなコールセンターが、昨日から俄然忙しくなっていた。事件を聞いて、みんな不安になったのだ。
「次の手が、あります」明は、穏やかだが自信に満ちていた。彼の持つ才能を、最も発揮できる機会だった。
「今度は?」と、樺島さん。
「なになに?」と、紗理奈くん。
「プログラムは、その実行を終了するコマンドがあります。それは、『End of File 』と言います。略して、EOF です」
「ふうん。それで?」樺島さんは、結論を聞きたがった。
「現代のシステムは、膨大なプログラムを組み合わせた高層ビルみたいになっています。個々の小さなプログラムは、モジュールと言います。モジュールが集まって、巨大システムが出来上がっています」
「難しいなー」紗理奈くんが、もう音を上げた。
「それで、どうすんだ?」と、山田さんも明を急かした。
「個々のモジュールは、他のシステムの使い回しが出来ます。違うシステムでも、印刷とかメールを送るプログラムは同じにできるからです。そこで・・・」
「Iris に、偽のモジュールを組み込むのか」と、太一が聞いた。
「そうです」と、明は短く答えた。でも彼は、とても堂々としていた。
「え、え、えっ?」樺島さんは、目が点だった。
「わけわかんない」と、紗理奈くんが言った。山田さんだけ、うつむいて考えこんでいた。
「つまりさ」と、太一はみんなに言った。「Iris に『End of File 』、つまり終了のプログラムを感染させるんだ。Iris が騙されてくれたら、システムは終了してくれる」
「あくまでも、思いつきですから。上手くいくかは、やってみないと・・・」
「いいんだよ。今は、どんな小さな可能性だってやってみよう」と太一は言って、明を励ました。
「あの、警視庁のサイバー部隊は・・・?」明は、心配ごとばかり言った。
「あいつらは、あいつらだ。何か考えてんだろ。でも、成果は出してない。だから、ほっとけ!」太一は、明の背中を軽く叩いた。それから押した。さあ、ワンマン・ステージに立てよ。
明は無口になり、ノートPCとにらめっこを始めた。カタカタ、カタカタと、彼は猛スピードでキーを連打した。太一は、部長の席へ向かった。夕方の記者会見のためだ。
些細な出来事があった。明のノートPCから、微かな歌が流れてきた。それはラップというか、お経というか、リズミカルで抑揚のない曲だった。でも不思議だった。PCのスピーカーは、OFFだったのだ。でも気がつくと、ONに変わっていた。
紗理奈くん宛てに、電話が入った。記憶にない名の女性からだった。紗理奈くんが出ると、電話口から電子音が聞こえてきた。混線しているのか、相手の方とまったく会話できなかった。彼女は諦めて、電話を切った。
10分後に、別の女性から電話が入った。でも出てみると、また電子音だった。
「ちょっとお!うちの電話、壊れてんじゃないの」
彼女は、会社の電話を疑った。でも他に誰も、そんな故障には出くわしていなかった。おかしい。おかしいけれど、相手の電話のせいにして、話は収まった。
明、紗理奈くん、樺島さん、山田さんは、打ち合わせ用の机に集まっていた。明がPCを操作し、みんながその様子を見守った。異変は、すぐに始まった。
紗理奈くんの、ブラウスのボタンが外れた。最初に、一番上。次に二番目、続いて、三番目。まるで透明人間が、ボタンを外しているようだった。
「やっ、やっ。やー!?」
紗理奈くんは驚いて、大声を上げた。両手を振り回したら、逆に何かに肘や肩を掴まれた。背後に引っ張られ、紗理奈くは座ったまま床に倒れた。ガチャンっと、大きな物音を立てて。
「ぎゃー、ぎゃー!?」
紗理奈くんは、悲鳴を上げた。でも不思議なことに、テーブルの三人は、彼女に注意を払わなかった。黙々と働く明と、彼を見守る樺島さんと山田さん。冷たいくらい、彼らは紗理奈くんを無視した。でも彼女は、それどころではなかった。スーツのパンツにも、異常が起きた。ベルトが、何かによって外された。ファスナーも、チーッと下された。
「ひーっ、いーっ!?」
紗理奈くんは、もうパニックだ。脱がされる。職場の中で。彼女は必死に抵抗した。けれど、見えない何かが邪魔をした。両腕両足の全てに、何かが絡まっていた。そのせいで、自由に動けないのだ。紗理奈くんは、床に転がってジタバタともがいた。
ビリビリビリビリッ!
ジャケットと、パンツが裂ける音だった。紗理奈くんは、もう涙目だった。彼女のスーツは、ものの十秒でボロ切れに変わった。ボロ切れは、ことごとく紗理奈くんから取り払われた。
あとはもう、どうすることもできなかった。人は効果的な対策がないと、無抵抗になるものだ。ブラウス、ストッキング、下着・・・。全てが、荒々しく引き裂かれた。紗理奈くんは、同僚たちの前で全裸にされた。
「えーんっ、えーんっ(T . T)」
「おいっ、いい加減にしろっ!」樺島さんが、たまりかねて一喝した。
「へ!?」
紗理奈くんは、飛び起きた。彼女はテーブルに座っていた。そして、服も着ていた。一切乱れはなかった。彼女は、わけがわからなかった。
「これで、顔を拭きなさい」と、樺島さんがティッシュを渡した。
「え!?」紗理奈くんは、まだ現実に戻れなかった。
「まったく。仕事中に居眠りして、おまけに号泣するヤツなんて初めてだよ」山田さんが、呆れたという調子で行った。
「あっ、あっ、・・・」
紗理奈くんは、まだ信じられなかった。たった今経験した恐怖は、本物だった。両腕両足の感触は本物だった。
「紗理奈くん。君、早退した方がいいよ。若倉さんには、俺から言っとく」と、樺島さんが言った。
「はい・・・」彼女は、家に帰ることにした。
明の高校は、有名な進学校だった。男子校で、全寮制。朝から晩まで、徹底的に管理された。その高校の目標は、東大の合格者数。学校は、それしか興味がなかった。部活動も、熱心ではなかった。生徒たちに友情は教えず、代わりに競争を教えた。生徒同士で競わせ、鞭で尻を叩いた。
明は、その学校に順応した。競争社会こそ、現実の世界と考えた。友だちはいらなかった。大好きなプログラムを楽しみながら、彼は勉強もそつなくこなした。成績はいつもトップ10で、東大合格間違いなしと思われていた。
だが、明は失敗した。東大どころか、私大も全て落ちた。明も、学校の先生たちも信じられなかった。けれど、来年があるさ。明は一浪して、東大に再挑戦した。だが翌年も、明はどこの大学にも受からなかった。
原因は、明の緊張癖のせいだった。試験中は、緊張のあまり頭が回らなくなるのだ。高校時代に、こんなことはなかった。大学を受験してからだった。しかも緊張は、現役よりも一浪のときの方が酷くなった。
人生で初めての挫折だった。二浪になると、緊張は日常でも起こるようになった。勉強が手につかず、いつも焦燥感に追われていた。明は友だちを避けた。みんな、大学に進学した。彼らと会う気にならなくて、明は自分で自分を孤独に追い込んだ。
彼は、母親を殴るようになった。父が帰ってくると、今度は明が殴られた。彼は、酒に逃げた。美味くもないウイスキーを、ストレートでガブガブ飲んだ。気持ち悪くなって、吐いた。吐き終わったら、まだ飲んだ。
「明!」と、樺島さんが声をかけた。
「おい、どうした?」と、山田さんも声をかけた。
明は、いつの間にか手が止まっていた。そして泣いていた。ポロポロと、涙が幾筋も流れた。困ったことに、なかなか止まらなかった。あの頃のことは、彼にとってもっともつらい記憶だった。もうずっと、目を背けてきたことだった。
「お前、平気か?」山田さんが聞いた。
「少し、休むか?」と、樺島さんが彼を気遣った。
「いいえ、大丈夫です」と明は答えた。「もう少しで、終わります。ありがとうございます」
「紗理奈くんも、お前もおかしいよ・・・。うっ!?」樺島さんが、小さくうめいた。嫌な予感に、彼は一人狼狽えた。
太一に、早く帰ってきてほしかった。だが今は、俺が踏ん張らねば。脂汗をかく樺島さんを、山田さんは不思議な目で見ていた。
紗理奈くんは、家に帰った。彼女は、ワンルームの狭い賃貸マンションに住んでいた。狭いけれど、新宿に近いので楽だった。あの街は、彼女の庭だった。とくに二丁目が、彼女のお気に入りだった。でももちろん、今日はそんな気分ではなかった。
部屋に入って、彼女は不機嫌そうに服を脱いだ。スーツを床に放ったまま、下着姿で焼酎のボトルとグラスを用意した。それから慌てて、カーテンを閉めた。テーブルにつき、氷を用意してグラスに入れた。
紗理奈くんは、リーズナブルな酒をいつまでも呑むタイプではなかった。高級な酒を、短時間で飲むのが好みだった。酒は、いつもロック。最近は、焼酎が気に入っていた。
彼女にとって、一番つらいこと。それは他人に身体を見られることだった。具体的には、腹部の大きな傷だった。誰もが羨む容貌でありながら、彼女はとうの昔に性欲を捨てた。理由は、その傷だった。
まだ十代の頃、紗理奈くんはロック・ミュージシャンの追っかけをしていた。友だちと、都内のライブハウスに通った。まだ無名のミュージシャンたちから、将来成功するバンドを探すのが好きだった。
彼女の目は、確かだった。お気に入りだったバンドのいくつかは、今もメジャー・シーンで活躍している。ちょっと問題だったのは、紗理奈くんが、バンドメンバーと寝たことだ。もう、何人かわからないくらい。綺麗な彼女は、誰から愛された。紗理奈くんも、悪い気はしなかった。
男たちの何人かは、避妊を嫌がった。それは、よくある話だ。だが、女性が受け入れると大変になる。紗理奈くんは、その一人だった。なせだろうか?というのは、彼女が自分を大嫌いだったからだ。
紗理奈くんは、小さな頃からきつい性格だった。男の子や先生、そして同級生の女の子たちとまで、彼女はトラブルを起こした。頭のいい彼女は、いつも勝者だった。その代わり、どんどん孤独になった。
中学生のとき、密かに好きな男の先生がいた。でも紗理奈くんは、プライドが高かった。そんな素振りは、ひとかけらも見せなかった。運良く三年生のとき、その先生は彼女の担任になった。せっかくのチャンスも、紗理奈くんは活かさなかった。彼女は、あまりにも自己中心的で、楽観的だった。授業中に、平気でその先生と口論までした。あまりにも、不器用だった。
卒業式の日、その先生が結婚することを知った。お相手は、同じ中学の女教師。口が悪いかもしれないが、あまりにも地味で凡庸で退屈な人だった。紗理奈くんは、もちろん顔色ひとつ変えなかった。でのその日を境に、二週間水しか飲まなかった。この出来事が、彼女を大きく軌道修正させた。
二十歳を過ぎるころから、彼女は中絶を繰り返した。同じ男の子供を、二回堕したこともある。だが男たちは、紗理奈くんと一緒に生きる気はなかった。誰もが一目で、彼女の攻撃性を見ぬいた。とてもじゃないが、恋人にするタイプではなかった。だが男たちは女と寝たいとき、卑屈なまでに謙虚で優しくなる。当の紗理奈くんは、自分は好かれてると信じていた。
入社して二年経ったころ、三十代の売れっ子プロデューサーと寝た。彼は独身で、遊び人だが優しかった。紗理奈くんと彼は、たびたびデートするようになった。そのプロデューサーは、たまにしか紗理奈くんの身体を求めなかった。彼女には、それは驚くべきことだった。彼は、紗理奈くんという女性を求めていた。
売れっ子プロデューサーらしく、女の影を二、三人は感じた。でも若い紗理奈くんは、勝てると信じ込んでしまった。だから彼女は、妊娠しても彼に黙っていた。子供ができれば、二人は一緒になれる。そんな子供っぽい夢を、彼女は確信した。
彼が久々に紗理奈くんを抱いて、妊娠が発覚した。プロデューサーは、堕ろしてくれと彼女に頼んだ。もちろん、紗理奈くんは断った。一晩話し合って、二人は結婚することになった。けれど彼は、女性関係の精算を申し出た。その時間をくれと。
八カ月を迎えたときだった。その頃の彼は、仕事の合間を縫っては、紗理奈くんの部屋に来てくれた。二人で、新居の相談もしていた。そこに、事件が起きた。女の一人が、自殺未遂をした。しかも、プロデューサーの自宅でだ。この二人は、同棲していた。しかも、五年前から。ずっと。
彼から、婚約解消の申し出があった。もう紗理奈くんは、頭が真っ白だった。まったく頭が回らないけれど、彼女には仕事があった。出産だ。だが事態は、坂道を転げ落ちた。
真夜中に、陣痛が始まった。紗理奈くんはタクシーで、なんとか病院にたどり着いた。だが医者や看護婦の様子が変だった。子宮内で、原因不明の大量出血が起こっていた。選択の余地なく、帝王切開が始まった。仕方なかった。子供も母親も、とても危険だった。
それから三日後、紗理奈くんはやっと目を覚ました。彼女とプロデューサーの子は、この世で30分しか生きていなかった。紗理奈くんは、しばらくその事実を教えてもらえなかった。彼女が、何をするかわからなかったからだ。
まだ17時なのに、紗理奈くんはベッドに飛び込んだ。布団をかぶって、おいおいと泣いた。もう、十年経ったのに。こんなに、記憶はありありとしているんだ。あの重量感。あの鼓動。あの、喪失感。
いくら頑張っても、記憶から逃げられなかった。一時間もんどり打って苦しんだ。限界だ。一人でいたら、私は死ぬ。間違いない。布団から転げ落ちて、紗理奈くんは自分の鞄まで這っていった。腹這いのまま携帯を取り、電話をかけた。記者会見は、終わってる、終わってる、終わってる・・・。
「もしもし」と、相手が答えた。
「うえーん、うえーん、うえーん、・・・」紗理奈くんは、子供みたいに泣いた。いや、子供みたいに泣きたかった。だから、そうした。
「了解!すぐ、迎えに行くよ」と、太一は答えた。
「どこで飲む?」と、助手席ののっぽさんが聞いた。「四人だし、事情が事情だし。俺も悩むな」
「のっぽさんの店でいいですよ」太一は答えた。
「打ちひしがれている人に、焼き鳥屋でいいかな?」
「大事なのは、ムードでしょう。ほのぼのするなら、あの店が一番です」太一は、太鼓判を押した。
「そうかな?」のっぽさんは、珍しく自信がなさそうだった。
もともとは、のっぽさんと会社のそばで飲む約束だった。けれど、記者会見の後、すぐ樺島さんが不吉な顔で寄ってきた。それで、タクシーを拾って紗理奈くんの家に向かった。ついでなので、泣きべそかいた明も連れてきた。紗理奈くんの家に行き、最後にのっぽさんと合流した。時間が早いので、下り車線はまだ空いていた。
「で、催眠術なのか?」と、のっぽさんが振り向いて聞いた。
「わかりません。でも、そうらしいです」と、太一は真剣な調子で答えた。
「そうか」とのっぽさんは言い、いつもの長い沈黙が始まった。
後部座席は、右から紗理奈くん、明、太一の順に並んだ。自然に、紗理奈くんと明は抱き合っていた。お互いの身体にしがみついて、恐怖や自己嫌悪を振り払おうとしていた。この二人、このまま上手くいかないかな?太一は、そう考えた。
Iris は、遺失物捜索課に牙を剥いた。と言っても、まだかわいいものだが。これは、ささやかな警告か?邪魔をするなら、次は本気だぞ。Iris は、俺にそう言っているのか?犠牲者が出るぞ。お前のくだらん正義感のせいで。
明の話だと、Iris 停止は失敗したそうだ。ひとつ停めても、新たにコピーが現れる。そしてこちらに、メッセージを送るそうだ。想像した以上に、この世にはたくさんの Iris が存在する。どうやら、そういうことだ。
警察を、どう使うか?やつらも、俺たちと違う道で Iris に迫っているだろう。まずは、お互いの手駒を見せ合うか。もはや、腹を探ってる場合じゃない。身内が、出血するかもしれない。あのハッカーくずれの連中なら、刑事よりはまともだろう。
太一は、首都高から街の夜景を眺めた。もちろん、ロマンチックな気分じゃない。ゲームの相手は、誰かもわからない。人間かもわからない。だが、確実なことがある。その一。Iris のプログラムは、人間が作った。どんなに膨大であろうと、有限なフロー・チャートに過ぎない。
突然、渋滞が始まった。混むところじゃない。おかしいな、と思っていると正解がわかった。反対の登り車線で、事故があったのだ。その見物渋滞だ。大型のダンプが、どんな理由か全焼していた。燃え尽きて灰になったダンプは、ギリシャのパルテノン神殿みたいだった。
ダンプが燃え尽きたのに、下り車線の人は律儀に渋滞してまで鑑賞しているわけだ。事故で、死人が出てるかもしれないのに。だが、それが人間というものだ。俺は、勉強したよ。その二。俺は、川島を知っている。事件後の、人間たちも知っている。だから、俺は有利なはずだ。俺は、Iris を生んだやつを理解できる。
その三。Iris を作ったやつは、敗者だ。勝者は、こんな面倒なことをしない。成功し、人々に称賛され、鼻の高くなった勝者たち。彼らは贅沢をし、ふんぞりかえって敗者を見下し、選ばれた者の喜びに浸る。だいいち、勝者は忙しい。彼らのスケジュールはびっしりだ。敗者は、たいてい暇だ。あるいは、自ら生活を投げ出して、時間を持て余しているものだ。『世界を恨む』時間が、十分にある。
「太一さん」と、明が小さな声で言った。
「どうした」妄想を中断して、太一は明を見た。
「報告が、あるんですけど・・・」
「話なら、店に着いてからゆっくり聞くよ」と、彼は優しく答えた。「泣けるほど、つらいことなんだろう?今晩、ゆっくり聞くよ。朝までだって、いいぞ」
「いや、私のことではなくて・・・」
「うん?」
「Iris のこと、なんですけど・・・」
助手席ののっぽさんが、さっと後ろを向いた。彼はなぜか、ものすごく怖い顔をしていた。もう、のっぽさんの店はすぐそばだった。タクシーは出口レーンへ移り、天の川のように光る住宅街へ降りていった。
「Iris が、どうした」
「明日8時に、東京駅の中央改札口から中へ入ってくれ、と言ってるんです」と、明は言った。
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