第5話 行方不明者たち

 佐奈江さんは、うつ病患者用の精神安定剤を大量に飲まされていた。その手の患者さんは、それを飲むことで日常生活を平穏に送る。だが普通の人が、その薬を飲んだら大変なことになる。佐奈江さんは、翌日になってもぼうっとしていた。

 昨夜佐奈江さんを家に送り届けた後、すぐ24時間の救急病院に向かった。樺島さんの強い要望により、太一たちも佐奈江さんに付き添った。幸いだったのは、彼女の傷が全て浅かったことだ。どれも数日すれば癒ると聞いて、お母さんも太一たちも胸を撫で下ろした。だが薬の影響が残っているので、佐奈江さんはその病院に一晩入院することになった。お母さんも、一緒の部屋に泊まることにした。ここらで、太一たちはお暇することにした。

 樺島さんの家は高尾だった。だから、新宿へ戻る太一とは逆方向だった。

「課長、ありがとうございました」

 二人で改札を通ると、樺島さんがあらたまって言った。

「こちらこそ、ありがとうございました。樺島さんのおかげで、本当に助かりました」と、太一は心を込めて言った。彼がいなかったら、自分は何もできなかっただろう。

「課長。私はこんなに、人の役に立つことをした記憶がない」と、樺島さんは真剣な眼差しで太一を見た。「課長のおかげです。これからも、なんでも言ってください。どんどん、命令してください」

「わかりました」と、太一も真剣な顔で答えた。「今回の件は、これで終わりじゃない。何か、とてもひどいことが隠れている。私は、そういうのが好きじゃない。明日も、よろしくお願いします」

「わかりました!」

 そう言って樺島さんは、右手を差し出した。彼と太一は、固く握手を交わした。

 樺島さんと別れたあと、太一は家に帰る気が起きなかった。中央線ではなく、横浜線に乗った。町田で小田急線に乗り換えた。のっぽさんに会うためだ。

 

 時間は、23時を回っていた。のっぽさんの店は空いていた。もう大半のお客たちは、明日のためにもう引き上げたのだろう。

「おう。珍しいな、こんな時間に」とのっぽさんは言った。

 太一の家は赤羽だった。まったく逆方向だ。だからのっぽさんの店に行くときは、早めに仕事を切り上げて20時には着くようにしていた。そして帰りは23時。それで終電ギリギリだった。今夜は、タクシーで帰るしかないな。

「いや、今日は忙しかったんですよ」と言って、太一は苦笑した。そして、カウンターの一番奥に座った。お客さんは入り口のそばに、中年のカップルがいるだけだった。

「どうしたんだ?」

 のっぽさんも、カウンターの奥に移動してきた。勘の鋭い彼は、眉間にシワを寄せて少し怒ったような表情を見せた。太一は小声で、長い長い一日の話をした。

「そりゃ、本当に危なかったな」さすがの冷静なのっぽさんも、口を大きく開けて驚いていた。

「危なかったです。もう少し到着が遅かったら、と思うとゾッとします」

「うーむ」

 のっぽさんは完全に仕事を放棄して、腕組みしながら考え込んだ。彼は考え込むと長い。だが彼の頭は、高速で動いている。コンピュータ並みのスピードで物事を吟味し、そこから回答を引き出す。だが今日ののっぽさんは、いつもとちょっと違う行動を見せた。

 彼はカウンターを出て、狭い階段を登って二階に行った。そして、MacBook を抱えて下りてきた。彼はそれをカウンターに乗せ、太一と並んで座った。彼は日経新聞のサイトを開き、過去のニュースを検索し始めた。のっぽさんは会員なのだろう。

「三月に、多摩川で胴体だけの遺体が見つかってる」と、のっぽさんはボソッと言った。「首も手足も切り落とされてる。被害者は二十歳くらいの男だそうだ。犯人は、まだ見つかってない」

「はい」

 太一はそのニュースを知らなかった。今は、四月。一月前のことだ。犯人が見つからない事件を、人々はあっという間に忘れてしまう。ニュースとは、繰り返されないと記憶に残らないのだ。

「一月にも印旛沼で、首のない二十代の女性の遺体が発見されてる。やはり、未解決だ」

 太一は嫌でも、川島のことを思い出した。胃液が逆流したような、苦い味を感じた。

 のっぽさんは、去年に遡ってどんどん未解決事件を挙げていった。驚くべきことに、この国はたくさんの未解決事件で溢れていた。

「これはあくまで、遺体が見つかった事例だ。若者の行方不明者で、同じ境遇にあった人がまだいるかもしれない」と、のっぽさんは言った。

「つまり・・・」と、太一は言いかけた。

「つまり今日のことは、一部に過ぎないかもしれない」と、のっぽさんは言った。彼の顔が、少し白く見えた。

 太一は、カウンターに両肘をついて手を組んだ。少し考えてから、思い出したように煙草に火をつけた。

「それは、私も考えてました」と太一は、のっぽさんに答えた。そして、「人はなぜ、人を殺すんだろう?」と言った。

「そりゃ、簡単。不幸だからだよ」と、のっぽさんは答えた。「幸せな人間は、人殺しのことなんか考えない。学校ではヒーロー、ヒロイン。社会に出ても、大活躍して名誉と金を手に入れる。子供を作り、贅沢な暮らしをする。人殺しなんて、思いつきもしない」

「確かに、そうですね」

「俺はうかつに、『世の中は、平等だ』というやつが嫌いだ。この世は、不公平極まりない。美醜、貧富、知力、体力、血統、民族・・・。ありとあらゆることが、格差を生む。虐げられたものが、恵まれたものを恨む。これは仕方のないことだ。理屈をこねて、克服できるもんじゃない」

 その通りだと、太一も思った。川島も、醜くなかったら罪は犯さなかった。また希美ちゃんは、加害者の家族であるために20年も差別を受けている。川島、つまり希美ちゃんの実家は、事件後に放火されて全焼した。この世は、理不尽で残虐だった。

「不公平を克服する鍵は、自分の中にしかない。太一、お前がいい例だ」

「私ですか?」

「お前、部下に信用されてるだろう?」

「多分・・・。そうだと思います」太一はさっきの、樺島さんとの別れの挨拶を思い出した。

「今日の行動もそうだし、信頼がないとできないことだ。実際、今のお前は堂々としている。普通の人は、それができないんだ」

「私のことは、もういいですよ」と、太一は少し笑ってのっぽさんに言った。「むしろ、佐奈江さんのような人が他にいることが怖い」

「まったくだな。しかし、コンピュータが命令するのか?昭和の人間には、理解不能だよ」と、のっぽさんは言った。

「コンピュータは、難しくないですよ」と、太一は言った。「あいつは結局、『 0 と 1 』、『 on と off 』しか理解しません。『010101010101・・・』と並べて、やっと『A』を理解します。人間に比べて、バカなんです。でも、計算スピードだけはやたら早い。だから、頭が良く見えるだけです」

 この世で最初にコンピュータを作ったのは、アラン・チューリングというイギリス人である。彼は数学者だったが、第二次世界大戦が始まって軍に徴用された。彼の使命は、ドイツの暗号機「エニグマ」を解読すること。彼はそれを成し遂げるために、世界初のコンピュータ「 bomba 」開発の中心的役割を果たした。

 それほど偉大な人の名が、歴史上に残っていないのは二つの理由による。第一はイギリスが、軍事機密としてアランの功績を秘匿したこと。第二に、彼が同性愛者であったことによる。1952年、アランは同性愛の罪(風俗壊乱罪)で警察に逮捕され、保護観察の身となった。1954年、彼は変死。自殺と思われる。まだ、41歳だった。

 戦後、コンピュータは軍事技術として発展する。米ソ冷戦の時代が訪れ、ミサイル発射制御システムが作られた。初期のシステムは、大きなフロアいっぱいに機械が立ち並んでいたそうだ。

 次のコンピュータの活躍の場は、航空券予約システム。民間技術へと、足を伸ばしたのである。さらに、大規模工場の生産管理、大規模小売店の売上管理へとコンピュータは進出していった。コンピュータの存在はすっかり生活に馴染み、現代社会がある。

「今回の件は、システムの裏に人間がいると思います。人工知能(AI)はまだ、人に命令を下せるほど進歩してません。チェスなんかで人間に勝つシステムはありますが、あれは過去のあらゆる試合を全部覚えてるからです。記憶力がすごいだけです。相手の打ち手を見てそれに類似するゲームを全部思い出し、相手の裏を書く手を選択しているわけです」

「ははは。そっちの世界では、お前には勝てないよ」と、のっぽさんは笑った。彼はいつの間にか瓶ビールを飲んでいた。店は営業中だが、彼だけは閉店らしかった。

「だからIris に、非人道的なことをしゃべらせているやつがいる」と、太一は言った。

「そうなるな」と彼は言って、グラスに入ったビールをじっと睨んだ。「太一、これは止めなきゃいけないぞ」

「そうなんです。私は犠牲者を出したくないし、川島みたいなやつも生みたくない。希美ちゃんみたいな、人生を送る人も生みたくない」

「ならば、どうする?」

「佐奈江さんのアカウントはもう使えない。背後に悪意を持ったやつがいるならば、彼女を逃したことに気づいている。彼女のアカウントを、もう無効にしているかもしれない」

「なるほど」

「正直言って、まだ次のアイデアがないです。会社組織を、事件の解明に使うわけにはいかない。孤独な戦いをするしかないです」

「今日のメンバーは、プライベートでも協力してくれるんじゃないかい?」

「そうかもしれません。でも彼らを、危険な目に合わせるわけにも行きません」

「そりゃ、そうだ。ならば、俺も参戦するよ」と、のっぽさんは力強く言った。「今日の資料と、時系列に事実を記録したメモを送ってくれ。俺なりに、考えてみる」

「ありがとうございます。助かります」

この上ない援軍を得て、太一はやっと張り詰めた気持ちから解放された。


翌日の午前は、不毛だった。佐奈江さんのお母さんは、八王子の警察署に行った。佐奈江さんの、昨夜の診断書も持参した。第一発見者である太一も同行した。彼は、樺島さんではなく、紗里奈くんを連れていった。それには、太一なりの理由があった。

「娘さんには、彼氏がいたんじゃないですか?」

まだ三十代で、四、五センチの短い髪を自然に分けた刑事は言った。彼は私たちの向かいでパイプ椅子に座り、踏ん反り返って偉そうに足を組んでいた。彼の顔は、大きなハンマーで上から何度も叩いたみたいに潰れていた。深緑のスーツはクタクタ、紺色のネクタイも下品なペイズリー模様だった。

「どういうことですか!」佐奈江さんのお母さんは、興奮気味に問いかけた。

「つまり、娘さんは彼氏とご一緒だったんじゃないですか?」

「その彼氏が、彼女を縛って傷つけたって言うんですか!」たまらず、紗里奈くんが口を挟んだ。

「警察には、民事不介入という原則があるんです」と、ペイズリー刑事は分かったような顔で言った。

「それは、言葉の使い方を間違ってる。佐奈江さんに対する、傷害事件を捜査するのは、警察の仕事だ。佐奈江さんが負った傷に対する、損害賠償請求事件は民事だ。警察はそれに介入してはならない」と太一は言った。

「とにかく、今日のお話だけでは事件性があるかわからない」と、ペイズリー男はさらに面倒くさそうな顔で答えた。

「飯田橋のビルに、行ってください!」怒り心頭の紗里奈くんが訴えた。

「管轄が違います」

「じゃあ、飯田橋管轄の警察に行けってことですか?」と、佐奈江さんのお母さんが言った。

「是非、そうしてください」

ペイズリー男は、もう話したくもないという顔をした。

「こんな、こんな・・・、許せない!」

紗里奈くんは、佐奈江さんのお母さんよりも怒っていた。こういうところに、彼女の正体が現れている。紗里奈くんは、強い正義感の持ち主なのだ。だから適当に仕事してる上司たちと、片っ端からケンカしたのだ。

佐奈江さんのお母さんは、がっくりと肩を落としていた。ペイズリー男のあまりのやる気のなさと不誠実さに、心からショックを受けていた。警察署を出て、歩道をあてもなく歩き出したところだった。

「あのね、今日の警察の態度は予想通りなんだよ」と、太一は二人に話しかけた。

「なんで!」と、まだ怒っている紗里奈くんが聞いた。

「警察はね。事件が起きてから、それを調べるのが仕事だ。犯罪を予防する役所じゃない」

「傷害事件じゃないの!」紗里奈くんは怒鳴った。

「今日の刑事は、そう考えなかった。彼は佐奈江さんと、彼氏との遊びだと決めつけてる。これはね、飯田橋管轄の警察でも多分同じだよ。というのは、私たちの話を真面目に聞けば仕事が増えるからさ」と、太一は説明した。「今日の収穫はね、事件の翌日に、警察に通報したこと。やつらは役人だから、私たちの面談をしっかり記録する。これが後で、効いてくるはずだ。あいつらを、本気で動かすときにね」

「私は、どうすればいいでしょうか。」と、困り果てた様子の佐奈江さんのお母さんが聞いた。

「佐奈江さんを、しっかり見守ってください。当分、パソコンも使わせないでください。携帯も、代わりを買い与えたりしないでください。わがままを言ったら、私に連絡ください。私が叱ります。樺島さんという、怖いおじさんも連れてきます。佐奈江さんに、そう伝えてください」

 とはいえ、専門学校を放棄して、一年以上も部屋に閉じこもるのを許した両親だ。おそらく、娘を上手く叱ることはできないだろう。

佐奈江さんのお母さんは、病院に戻った。お母さんと別れ、太一たちは会社に戻ることにした。

「警察が、あんなに頼りにならないなんて・・・」

怒りを通り過ぎて、紗里奈くんは深く失望していた。

「でしょう?実はそれを知ってほしくて、君を連れてきたんだよ」

「そうなの?」

紗里奈くんは、目を白黒させていた。太一の言っていることが、さっぱり理解できない様子だった。でも彼女なら、いずれ答えに辿りつくだろう。太一はあえて、言葉を重ねなかった。

中央線快速のホームに立つと、次の電車は10分後だった。太一たちは、ベンチに腰掛けて待つことにした。彼はここで、どうすればいいかわからなくなった。

 紗理奈くんはベンチの一番はしに座った。足を組み、膝に肘をおいて頬杖をついた。彼女はまだ、太一の言葉の意味について考えているらしい。視線を隣のホームへ向け、口を真一文字に結んでいた。。

 太一が迷ったのは、彼女の隣に座るかだった。彼は醜い男だった。自分は所詮負け犬だと、太一は40歳になっても考えていた。

 対して紗理奈くんは、通り過ぎる人が次々に振り返るくらいの美女だ。そして、35歳。まだ独身。ストレートの髪を長めのおかっぱ頭(多分、正式な呼び名があるのだろう)にし、眉毛は細く、目は小さいがいつも鋭い光を放っていた。鼻は高く、口は大きくて唇も程よく厚かった。今日の薄紫のルージュが、とても妖しくエロティックに輝いていた。

 紗理奈くんは、スーツ派だった。いつもダーク系のスーツに白いブラウスだった。ジャケットに隠された胸は大きかったが、彼女は体型もガッチリしていた。大学時代に、新体操をやっていたそうだ。だから大きな胸も、彼女の体型にピッタリハマっていた。彼女は今日は上下黒で、下はパンツだった。スーツの裾から覗く彼女のお尻は大きいけれど引き締まっていた。いつも細いパンツを履くので、彼女のお尻は常にピチピチだった。

 そんな魅力的な彼女に、自分はそばにいるのも似合わないと太一は思った。混んだ電車の座席なら、こんなに気にならないのだが。かと言って、ひと席空けて座って彼女の機嫌を損ねるのもマズい。太一はそこに、しばらく突っ立っていた。

 そこへ、携帯が鳴った。のっぽさんからだった。助かった、と太一は思った

「契約中なのに、まったく使用されていない携帯を調べてくれないか?対象者は、とりあえず30歳以下でいい」のっぽさんは、いきなり用件を話し出した。

「使用されてないって、つまり通話もパケットも発生していないってことですか?」

「そうだ。つまり、家出というか失踪状態の人だ。でも若い人なら、携帯は絶対に使う。使用料は親が払うか、預金口座がゼロになるまで引き落とされてる人だ」

「でも、実際には使用されてないとなると、その人はもうこの世にいない。そういうことですか?」

「俺が恐れてるのは、それだ。そういう人をピックアップして、最終の信号発信地点を突き止めてくれ。とりあえず、過去一年でいい」

「わかりました。やってみます」と、太一は答えた。よし、この手ならうちの部署の仕事になる。私はすぐ、通信技術エキスパートの山田さんに電話をかけた。そして、のっぽさんの指示を伝えた。

「システムのデータ分析は、課長の力をお借りしないとキツイです」と、彼は答えた。職人らしい。自信のないところは守りに入る。能力が専門分野に特化してるのだ。

「わかった。すぐ戻る」と、太一は答えた。

「詳しくは、戻られてからご報告しますが」山田さんは、話題を変えた「佐奈江さんの一昨日の行動ですけど、小さなパケットのやり取りの前に大量の通信をしてます」

「大量?」

「はい、動画を鑑賞していたと思われます。パケット量が飛び抜けてますから」

「なるほど。わかった。とにかく急いで戻るよ」

ここで、パケットについて説明しておこう。誰もがスマホを持つようになり、パケット量が料金に反映するのは常識になった。でもパケットとは何を意味するか、それを知っている人は少ないだろう。

 パケットとは、その名の通り「小包」である。あるメッセージを人に送ったとき、それは細かいパケットに分割される。分割されたパケットには、荷札がついている。送り先と、何個口の荷物かだ。宅急便屋をイメージしてもらうとわかりやすい。大量のデータが行き交うインターネットの中で、正確に送り先に届くためだ。

 今、5個口のパケットが送られたとする。宛先は、メールアドレスまたは、スマホの電話番号だ。運悪く、5個口のうち3個しか相手に届かなかったとする。すると、受け取り側は送り元に対し、再送を要求する、「5個口全部送れ」と。これが、インターネットで使われてる「TCP /IP」という技術だ。難しいことをいうと「P」はプロトコル(規約)の意味だ。今の例でいうと、5個口パケットを絶対に全部送れというルールだ。これを守らないと、あるメッセージや写真、あるサイトの文字、画像、組み込まれた映像を完全に表示できない。通信状況が良くない場合、webサイトがなかなか表示されないのは、この理由による。「TCP /IP」は正確だが、時間がかかるという弱点がある。

 それに対し、UDPというプロトコル(規約)もある。これは主に音声や映像の送信に使われる。UDPは、5個口のパケットのうち一つしか届かなくても気にしない。なぜなら、あなたがプロ野球やサッカーの生中継をネットで楽しんでいたとしよう。あなたは、途中で画像が乱れる(パケットが全部届いていない)としても我慢するだろう。それよりむしろ、ホームランやゴールシーンをリアルタイムで見たいと望むはずだ。

 隣に座った紗理奈くんは、電車に乗ると寝てしまった。やがて太一の肩によりかかり、無防備に口を開けて熟睡を始めた。彼女がすっかり、子供に見えてきた。意識のない彼女なら、太一は緊張せずに済んだ。起きていたら、太一は彼女の辛辣さが怖かった。

 大学四年生になって、ついに太一にも彼女ができた。かなり太っていて、鼻が少し上がっていた。彼女は、いつも汗びっしょりでアルバイトに出勤したものだ。そんな彼女に、太一は好感を抱いた。彼女との距離が縮まったのは、真夏のことだ。太一がスポーツタオルを、彼女に手渡してからだ。彼女のハンカチは、水分をたっぷり含んでもう汗を拭き取れなかった。

「ありがとう」

 彼女は丸くて大きな身体を、目一杯小さくして恥ずかしそうに言った。そしてまもなく、二人は付き合いだした。

 だが、すぐ問題が発生した。原因は、太一の「毎月の青森行き」だ。土曜の早朝に出かけて、日曜遅く帰る。彼女はその行動を怪しみ、理由を知りたがった。

 太一は思い切って、全部事情を説明した。自分が行かなければならない、と彼女を懸命に説得した。しかし彼女は、わかってはくれなかった。どんな理由があれ、太一が月一回若い女と会っていることに代わりはなかった。青森行きの日が近づくと、彼女は決まって不機嫌になった。

 だが太一は、希美ちゃんと会うことをやめなかった。それは、死んだ川島のためだった。これは、絶対に守らねばならないことだ。その彼女とは、二年くらい付き合って別れた。つまらないケンカが、直接の原因だった。でも、本当の理由は希美ちゃんかもしれない。太一の心の中で、希美ちゃんの占める割合は大きかった。彼女はそれに、気がついたのだろうか?

 太一はその後、期間をおいて二人の女性と付き合った。でも結果は、判を押したように同じだった。付き合い出してまもなく、「青森行き」が諍いの原因となった。説明。無理解と嫉妬。その繰り返しに、太一はだんだん疲れてきた。そして最近では、女性と付き合いたいとも思わなくなった。

 希美ちゃんは、新しい仕事は見つかっただろうか?彼女は自分の収入とお母さんの年金で、細々と暮らしていた。近所付き合いは一切せず、母と娘だけで身を寄せ合って生きていた。しかし、彼女のお母さんも年とともに具合が悪くなってきた。70歳を過ぎ、入院することも多くなった。お母さんがいなくなったとき、茜ちゃんは悲しみと孤独に耐えられるだろうか?

 わからない。でも、何かしなくては。クソの役に立たないとしても。無駄だと絶望したら、死にたくなってしまうから。きっと、誰だって。

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