殺人という甘美な誘惑

まきりょうま

第1話 青森に住む彼女

太一は大学卒業後、自動車電話を扱う会社に就職した。時代はまだ、バブル時代の残り香が漂っていた。とくに、中小企業は採用に熱心だった。太一は、大手企業の就職試験を全て落ちた。彼は仕方なく、何の興味もない業界に身を投じることにした。

しかし時代は、激しく移り変わった。すぐに携帯電話が現れた。太一の会社も、この新規事業に参入すべく着々と準備をしていた。太一が就職してすぐに、会社は自社製品販売に踏み切った。市場の評価はとてもよかった。あれよあれよという間に、彼の会社は携帯電話が主力商品になった。

太一は、この移動通信という技術を身につけようと、必死に勉強した。彼はもともとは、文系の人間だった。でも彼は、挫けず食いついた。次第に太一は、分厚い専門書や、まだ実用化されていない新技術の論文まで目を通すようになった。

たちまち太一は、社内でも有数の技術専門家になった。入社当初は営業部門だったが、すぐに企画部に異動となった。次の新製品について、市場の動向を見ながら作戦を練る仕事だ。開発部門と連携し、売れる商品の開発に知恵を絞った。

加えて太一は、とても人付き合いがよかった。彼自身は、あまり酒を飲まなかった。でも、誘われたら最後まで付き合った。相手が同僚、先輩、上司、役員と、誰でも太一は変わらなかった。日付が変わろうと、気にしなかった。それが人と酒を飲む礼儀だと、彼は「のっぽさん」から教わった。

さらに太一は、とても話題豊富だった。話題が仕事の愚痴ではなく、政治や文学や哲学や音楽になると彼の出番だった。誰もが、太一の知識にびっくりした。彼はそちらの世界でも、会社で一目置かれる存在になった。

大手電話会社が、太一の会社を買収した。そして傘下に携帯電話会社を設立し、太一の会社のメンバーはみんなそこへ移った。会社の技術が評価されたのである。太一は、入社試験で落ちた会社の社員となった。そして二十代後半で、企画部門の主任に昇格した。

出来過ぎの人生だった。でもそれは、太一のたゆまぬ努力の結果でもあった。ちょうど時代は、インターネットとWindows95 に代表される大規模ネットワークの時代へと移行しようとしていた。太一はこれも、徹底的に追求した。やがて太一はシステム部門に移り、自社事業に必要なシステムの開発に携わるようになった。トントン拍子で出世し、彼は33歳でシステム課の課長になった。


だが太一の心を、いつも濃い闇が覆っていた。社会で充実した毎日を送っても、時折サッと漆黒の闇が彼を包んだ。それは、「贖罪」の意識だった。どれだけ時間が経過しても、その思いが消えることはなかった。

「最近、青森はいつ行った?」と、のっぽさんは太一にたずねた。

「二週間前の土日に、行ってきました」

「希美(のぞみ)ちゃんは、元気だっだかい?」

「いや・・・、それが・・・」と太一は、答えに言い淀んだ。

「どうした?」

「今度の職場でも、また事件のことがバレてしまって・・・。希美ちゃん、すぐ退職しちゃったんです」

「そうか」のっぽさんは、さっと厳しい顔に変わった。その表情のまま、いつものように、しばらく考えこんだ。

のっぽさんは、もう六十代半ばになっていた。彼は努めていたレストラン経営の会社を定年退職した。そのあと彼は、自己資金で焼き鳥屋を開業した。場所は、勤めていたレストランのすぐそばだ。なんでも、前の経営者が後継者を探していたそうだ。のっぽさんは、わずかなお金でその店を引き継いだらしい。

希美ちゃんは、太一が大学時代に親しく付き合った友達の妹だ。太一は20歳のときから20年間、毎月必ず彼女に会いに行った。

太一は希美ちゃんに、恋をしていたわけではない。彼を突き動かしていたのは、恐怖だった。希美ちゃんの兄は、少女を何人も惨殺した。あまりの猟奇的犯行に、20年経っても話題にのぼるほどだ。希美ちゃんは、加害者の妹だった。彼女は死ぬまで、その十字架を背負って生きる。だから太一は、青森に通った。彼は、最悪の事態を恐れた。

「彼女は今も、青森を出る気はないのかい?」と、のっぽさんは聞いた。

「はい」と、太一は答えてため息をついた。「その話は、若いころからずっとしているんですが・・・。でも、子供のころからの友達と離れたくないそうです。誰も知らない街で一人になって、自分がバラバラになるのが怖いんだそうです」

店が暇なときは、のっぽさんは仕事を全て部下に任せた。カウンター席に座った太一の、真向かいに彼は立った。そしてずっと、二人で話し込んだ。金曜日や休日前なら、二人は2時で店を閉めて別の店に行った。とはいえ、太一とのっぽさんは飲んでもバカ話はしなかった。いつも話題は真剣で、重苦しいものばかりだった。ちょうど、今夜のように。

「前にも、話したと思うけど」と、のっぽさんは言った。「重要なのは、希美ちゃんがお兄さんの勢力圏から脱出することだ。それに成功しないと、どこにいっても事態は変わらない」

「その通りなんです。でも・・・、それができない。20年経っても」

「そういうことなんだな」のっぽさんも、諦め顔でうなずいた。

問題をややこしくしているのは、太一の親友(川島という名前だった)が、妹に性暴力をふるったことだ。それはお兄さんが高一、希美ちゃんが中一のときから始まった。それは単なる性行為ではなく、とてもサディスティックなものだった。ライター、カッター、ナイフ、釘、花火などが使われた。その傷痕が、今も彼女の身体中に残っている。

太一は一度、その傷を見せてもらったことがある。背中いっぱいに広がる、無数の傷痕を。太一は、直視するのが難しかった。しかし同時に、逃げちゃいけないと考えた。彼は彼女の傷痕を、しっかりと事細かに記憶した。希美ちゃんは、まだ結婚していない。彼女ももう、三十七になる。

「なぜ、川島があんなことをしたのか、私は未だに理解できないんです」

太一はそう言って、焼酎のお湯割りを煽った。それから、煙草に火をつけた。彼は一日に、四十本煙草を吸った。完全な、ヘヴィ・スモーカーだった。

「おいおい、その話はもう何度もしたじゃないか」と言って、のっぽさんは微笑を浮かべた。「繰り返しになるけど、潜在的にサディスティックな欲望を持つ人は多い。職場内のいじめ、パワハラもあるし、学校、部活動、軍隊にいたるまで、サディスティックな行為は日常的なことだ。共通項がある。する側が、圧倒的に優位な立場にあること。対等な力関係では、こんなことは起こらない。誰かが俺を傷つけようとしたら、俺は必死で抵抗するからね」

「わかります。抵抗できない、弱い相手を選ぶってことですよね。相手を服従させて、爽快な気持ちになるんでしょう」

「サディスティックな欲望を持つ人にとって、その実行は甘美な誘惑だ。いつかやりたいと、ずっと時が訪れるのを待ってるのさ」

太一はまた、煙草を取って火をつけた。煙を吐きながら考えた。俺は希美ちゃんを救えなかったな。心から、そう思った。思いつくことは、全てやったと思う。でも彼女は、川島を振り切れなかった。

川島のお父さんは、とても厳格な方だったそうだ。旧日本軍の軍人かのように振る舞い、川島を子供の頃から徹底的に鍛えた。体罰も、日常茶飯事だったらしい。だがそれは、圧倒的に強い立場の弱いものいじめになりかねない。

 川島が希美ちゃんに、それから被害者の少女たちにしたこと。それは、川島が彼のお父さんのように、弱い者を支配することだった。そうして川島家に、最悪の事態が訪れた。川島は、連続殺人のあとに事故死した。川島のお父さんは、事件後しばらくして自ら命を絶った。

希美ちゃんはお母さんと、親戚の家に身を寄せた。彼女は高校を中退してしまった。事件のあと、彼女は学校に行けなかったからだ。太一はまた、深いため息をついた。

「なあ、難しい話は一休みしよう。音楽を楽しもうぜ」と、のっぽさんは言った。

自分でマイクを持ち、彼は端末を操って選曲した。すぐに yes の roundabout が始まった。こんな曲をカラオケで歌うのは、のっぽさんくらいだろう。スピード感と緊張感あふれる曲に、太一は気分を持ち直すことができた。

次は、King Crimson の 21st Century Schizoid Man。のっぽさんは、カウンターの奥からアルト・サックスを出してきた。彼は歌いながら、サックスも吹きまくった。のっぽさんの歌と演奏が、この焼き鳥屋のウリだ。それ目当ての客が集まり、曲が終わると店中が大盛り上がりだった。

太一に、こんなことはできない。一生、のっぽさんに追いつくことはないだろう。だが、と彼は思った。私は私に、できることをやるだけさ。太一は、とてもタフな男に成長していた。

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