月曜朝、新宿のバーでワインを壊す

阿部 梅吉

月曜朝、新宿のバーでワインを壊す

 光で目覚めたわけじゃない。ただなんとなく、昔の夢を見て、悲しくてそれで起きてしまった。記憶は曖昧だ。目覚めるといつも私は夢を忘れてしまう。


 「ん……」

 私は起き上がる。隣にはあいつがちゃんといた。誰かが横にいたのは随分久しぶりで、ほとんど初めてに近いような気がした。なんだか変な気分だ。子供のころ、まだ私が父に抱っこされて守られていたときのような気分がする。

 「起きたの……」

 目も開けずにあいつが言った。ここには窓がないから光が射しこまないはずなんだけど。眠いのか。

「起きてたんだ」なんだかわけもなく恥ずかしくなった。

「まあ、寝たり起きたり、わかんないな」

「あっそう」なんとなく、あいつの顔を見ることができない。急いで昨夜着ていた服を探す。布団の中にぐしゃぐしゃにそれは折りたたまれてあった。私は皴を伸ばすこともせずにそれを着る。ふと布団を剥がし、彼の右腕を見た。包帯で、これでもかというくらいぐるぐる巻きになっている。

「……馬鹿」

「何?」

「包帯、つけすぎ。これ、昨日自分でやったの?」

「ああ、まあ」

「馬鹿。動きづらくないの?」

「まあ、でも傷つけるよりはまし」

「ふたロックにしておきなさいよ」私はため息をつく。

「オーダーメイドなんでしょ? それくらいできないの?」

「いやそんなことしたら、いざってときに抜けないでしょ」

「まあ確かにそうだけど」

「でもいいな。お休みロック機能とかあればいいね。今度丸さんに聞いてみるよ」

「そうしなよ。本当」私は彼の右腕を持ち上げ、包帯の上から口をつけた。

「……でも、ありがとう」

「……ん。大丈夫」彼は左腕で私を抱いた。

「スミが傷ついて悲しくなるのは自分だから。ただそれだけ」

「そう」

「うん」

「そうね」

「うん」

 私たちはもう一度抱き合った。


 彼の右手はそこそこ大きいナイフでできていた。彼は22歳で、交通事故で腕をなくし、家で目覚めた時には右腕がナイフになっていたらしい。おかしな話だ。国立の大学を出て、彼は4月から地方の銀行に勤める予定だった。これもまたおかしな話だが、なぜか入社式前日に突然解雇を言い渡された。彼は当然労基にかけあった。こんな特殊な例はあまり聞いたことが無い、と電話口の女は言った。しかし現時点では民事のため何も手が出せないとも言われた。彼は請求書を会社に送り付け、右手に包帯をぐるぐる巻きにしたその足で地元の包丁店に向かった。それが三カ月前の話。

その間、たまたま見つけたここ新宿のラブホテル「ふぃあっと」で従業員募集の張り紙を見つけ、飛び入りで面接したところ、見事採用したとこのことだった。


 私たちが今いる「ふぃあっと」の店長、四蒙さんは変わった人だ。彼がいなければ、私も彼もここにはいなかっただろう。彼は面接の際、四蒙さんに自身の右腕のことを包み隠さず話した。彼は戸惑いながらも興奮気味に語る彼の突拍子もない話を、うんうんとただ黙って聞いていた。聞き終わるとカフェオレを入れ、ただ一言、「それで、いつから来れる?」と言った。


 四蒙さんはいつもゆっくり歩き、ゆっくり喋る。私と彼はすごく早口でせっかちだから、いつもただただ圧倒されちゃう。なんていうか、四蒙さんといると何か大きなものに「包まれている」感じがする。不思議なんだ、なかなか言葉に言い表せないな。なんだろう。海みたいな感じ。すごく大きい何かの上で踊らされているのに、それが全く不快じゃない感じ。


「今日、何曜日だっけ」

「月曜日」

「……ああ、今日はしずえさん来るんだっけなあ」

 彼が布団から起き上がって言う。まだ目は半開きだ。しずえさんとはここ「ふぃあっと」のパートさんで、いつも12時から17時まで、部屋の清掃を一緒にする。ちゃきちゃきしていて頼りがいのある人だが、家庭の愚痴で昼休みの1時間延々と喋っているのがたまに瑕だ。

「カレンダー確認してないけど、来るんじゃない?」

「今何時かな?」彼が言う。私は携帯を覗き込む。

「まだ8時」

「そっか」

「なんか買ってくる?」このホテルの一階にはコンビニがあった。

「うん。そうだな。一緒に行こう。日の光を浴びないと」

「まあ、その方がいいよね」

「うん」彼はあくびをしながら服を着た。

「寝てなくていいの?」

「一回何か食べたいかな」

「わかった」

 私たちは着替えてコンビニに行った。


 店内は人がせわしなく動いていた。誰もが時間に追われているような気がした。月曜の朝とは本来そういうものなのだろう。私はコーヒーとおにぎりを買おうとした。

「コーヒーなら事務所で淹れてあげるけど」彼がレジの前で言った。

「そう?」

「四蒙さんと高橋君に聞いたんだ、コーヒーを淹れるコツってのをさ」高橋君はルームサービスを作っている従業員だ。明るくて普段は馬鹿な冗談ばかり言っているけれど、料理の腕前だけは一人前だ。

「ふうん。でもあんた、コーヒー飲めたの?」

「いや、ミルクが無いと無理」彼は歯を見せて笑った。

「そう」

 結局、私はおにぎりを二つだけ買った。


 事務所に戻ったら彼がサイフォンでコーヒーを淹れてくれた。

「こんなのあったんだ」

「四蒙さんがずっと使ってないから、ってくれた」

「ふうん。大してコーヒーも飲めない人にあげるなんて奇特な人」

「そうだね、なんでだろうね」

「さあ」四蒙さんの考えていることなんてわからない。きっと私たちなんて彼の手の平の上で踊っているだけだ。

「面接したときさ」と彼は静かに語り始めた。苦い、けれど温かい香りが立ち込めていた。

「僕の腕のことを言ったんだ。それはもう聞いたよね」

「うん」

「それでさ、四蒙さん、なんて言ったと思う?」

「知らない」

「彼はさ、『いい用心棒になってくださいね』って」

「ふうん」なんだか四蒙さんらしい。

「いいじゃない、用心棒」

「まあね」

「ちゃんと働いてよね」

「わかってるって」笑いながら言う。

 彼は左手でコーヒーをカップに注ぎ、それを私の目の前までもってきてくれた。湯気で視界が少しだけぼやついた。


「ねえ」私は気づいたら、頭に思い浮かんだ言葉をそのまま口にしていた。

「なに?」彼が湯気の向こうで返事をする。

「あんたは何かを恨んでいる?」

「僕が?」彼は一瞬戸惑う。

「うん」

「何かって何を?」

「何かをよ」

「何か?」

「なんでもいいの。何かよ。とにかく何か……」彼は腕を組んで、天井を見つめた。

「何かを恨んでいる、のかな。正直わからない」

「本当に?」

「うん」彼は淡々と答える。

「私は色々、破壊したくなるな」

「どうして?」

「わかんない」

「何を?」

「そうねえ」今度は私が考え込む番だった。

「……バーに置いてある、ワインの瓶とか」

「バーのワイン?」

「そう」

彼は目を丸くして、左手を顎につけて考える仕草をした。

「バーのワイン、か」

「うん」

「それは、バーの棚にあるワインだよね?」彼の目が私を覗き込む。

「そうだけど」

「なるほど……」と言い、彼はきっちり三秒間黙った。遠くを見ているようでもあった。私は熱いコーヒーを飲んだ。

「いいかもしれないな」彼はまるでそのまま頭に浮かんだことを口にしたように言った。

「え?」

「いいかもしれないね、それ」

「は? 何が?」

「だから、バーを破壊すること」

「何言っているの」

「バーのワインを破壊するんだよ」

「本気?」

「うん。まあ」彼は軽く言う。コンビニでおにぎりを買うみたいに。

「やめてよ、冗談なんだから」

「いや、やらなきゃだめだよ」と彼は言った。

「だって君は何かを恨んでいるんだろ?」

「まあ、そうだけど」

「だったらやるべきなんだよ」

「意味わかんない」

「そういうものなんだよ」と彼は自分のカップにコーヒーとミルクを注いで言った。視界がぐらつく。

「何かを恨んでいるなら、それは解消されなければならない」

「それは、ワインを壊せば解消できるの?」

「たぶんね」

「ふうん」わけがわからなかった。


「実は書類が辞めた会社から来てさ」彼は淡々と話しを進めた。

「昨日確認したら、賠償金として1年間給与相当分の300万円近くが振り込まれていた」

「嘘」私は思わず高い声を出す。

「本当」

「すごい」

「だから、誰かに頼めばバーのワインくらい破壊できるよ。金さえ積めばいいんだからさ」

「バカみたい」

「それでも、スミが呪われているよりはましだよ」

「本当に馬鹿」

「スミはやりたくないの?」

「やりたいけど、あほらしい」

「やりたいんなら、やるべきだよ」と彼は穏やかに言った。

「やりたいなら、やるべきだ」

「まあ馬鹿についていくのも、悪く無いわね」

「決まりだな」彼は笑った。彼の笑顔をまともに見たのは初めてな気がした。

「早速知人をあたってみるよ」と彼は言った。

 私は彼の言うことが本当には信じられなかった。とりあえず彼が淹れてくれた熱くて少しだけ苦いコーヒーを流し込み、歯を磨いた。少なくともコーヒーは現実なのだ。

 しばらくすると、スタッフルームの奥から声が聞こえてきた。

「一軒、めどができた」


 私は彼について行った。月曜午前の新宿は人が少ない。もうみんなどこかに行って、収容されてしまったのだろう。

「すぐ近くだよ」彼は足早に、凛とした表情で足を運んでいた。


 そこはホテルから徒歩十分のところにある、裏路地の小さなバーだった。当然開いていない。

「開けてみてよ」

「はいはい」

 私はピンを取り出す。鍵穴の形状さえつかめれば10分ほどでできる。まったく、私が開けるなら事前にカギの番号くらい調べておけっての。そんなすぐにはできないし頭も使うんだから。

「開いた」たまたま、よくあるカギの形状だったので3分くらいで開いた。

「うん」


 私と彼は薄暗いバーの店内に入った。彼はジュラルミンのケースをワイン棚の一番上に置いた。

「これは汚したくないから」

「そう」

 店内をざっと見まわす。いくつもの色とりどりのワインと冷蔵庫、テーブルといす、ジュークボックスがあった。こじんまりとしているが、雰囲気がよく、レトロなバーだった。

「なかなかいいお店じゃない?」

「まあね」

「店名はなんていうの?」

「わかんない。どうでもいいことはすぐに忘れるんだ」と彼は言った。ジュラルミンケースの中から彼はブルーシートを取り出した。

「まずこれを敷こう。壁にはサランラップをすればいい。どこかにあるはずだ」

「はいはい」私はカウンター裏に回り、サランラップを探す。あった。

「これを壁に貼ればいいのね?」

「うん」私は彼に言われた通り、壁一面にサランラップを張った。彼は新聞紙とブルーシートを床一面に張り付けていた。

「まあこれでいいかな」

「うん」

「じゃあ、開けようか」彼は適当にワイン棚から一本便を取り出して開け、グラスに注いだ。赤い液体がなみなみと注がれる。

「じゃあ、乾杯」

カチンと音がした。私と彼は何も言わずにそれを飲んだ。

「うん」と私は言った。正直、ワインの味の良さはわからない。

「これ、なんのワインかしら」

「知らない」と彼は言った。瓶の中のワインを次々とグラスに注いでいく。それも一つ二つじゃない。目の前にあるグラスを片っ端から取り出し、左手で器用に注いでいく。

「まあ、なんでもいいじゃないか」と彼は言い、そのまま地面に向かって瓶を放り投げた。ガシャン、と大きな音がした。瓶は床で粉々になり、赤い液体がブルーシートを伝った。

「なんでもいいじゃないか、別に」

「そう?」

「これはおいしいワインだよ。それだけで十分だ」

「そうかもね」

「何年寝かせているとか、銘柄とか、僕にはよくわからないから」

「私も」

 言いながら、私は目の前にあったワイン瓶を取り出し、栓を開けないまま地面に放り投げた。ガシャン、と音がした。

「どうでもいいわね」

「うん」彼はもう一つ瓶を取り出した。

「どうでもいいよ」

 キリキリとしたつんざくような音だけがうるさく響いた。


 どうでもよかった。私が今一人でいることも。

 どうでもよかった。私の家が無く、ホテルで寝泊まりしていることも。

 どうでもよかった。私の家族が交通事故で亡くなってしまったことも。

 どうでもよかった。私の左手の先がスタンガンになっていることも。

 全部全部、どうでもよかった。

 だって四蒙さんが居場所をくれた。彼は私と寝てくれた。私には右手があった。

 あるものを数えるしかないのだ。失った物よりも。


 気づいたら、頬に涙が伝っていた。いつぶりだろうか、泣いたのなんて。ずっと鵜っと泣いていなかった気がした。

「ねえ」

「うん」彼は淡々と地面にワインをまき散らしていた。私もそうしていた。

「コーヒーが飲みたい」

「いいよ」と彼は言った。

「きっと何かあるはずさ。探してみるよ」

「お願い」彼は店の奥に引っ込んだ。


 それから私は一人で合計47本のワインを床に放り投げた。放り投げるたびにガシャンガシャンと音がした。ここでやめたのは、地面が割れた瓶でいっぱいになって、臭いもだんだんきつくなってきたからだった。ビニールシートの上は真っ赤になっていた。なんだからそれは血を連想させた。

「もうそろそろやめるわ」

「そうかもね。酔ってきたよ」彼の顔はだいぶ赤かった。

「窓は開けてもいいのかな」

「やめておこう。たしか飲食店には臭いの規定とかもあったはずさ。ここの店主が怒られたら可哀そうだからね」

「ふうん」

「ごめん、悪いけれどこの店にはコーヒーメーカもサイフォンもないみたいだ」

「そう」

「帰ったら淹れるよ」

「わかった」

 沈黙が訪れた。私は少しだけ汗をかいていた。心地良い疲れが私を襲う。


「あ、もうすぐしずえさんが来る」と彼は壁にかかっている時計を見ながら言った。

「そろそろ帰る時間?」

「そうだね」彼はカウンターの奥から出てきた。

「これは置いていこう」ジュラルミンケースを指しながら彼はつぶやく。

「何が入ってあるの?」

「お金だよ。ただのお金。お金は楽だね。ただのお金なんだから。ワインよりはずっと考えなくていい」

「まあそうね」

 私たちはバーを後にした。入口にしっかりカギをかけて。


 帰り道、彼が私に聞いた。

「ねえ、まだ何かに対して恨んでいる?」

「そうねえ」

 答えは出なかった。何かを恨んでいる気がした。でもそれが何なのかはまだ掴めなかった。

「わかんない」

 私は右手で彼の左手を繋いだ。たった10分だけだけど、彼とつないだ手はほんのり暖かい気がした。今は彼の淹れたコーヒーが飲みたい。ただ、それだけ。

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