ものがたりがたりないもの
穂積 秋
第1話
「昨日のわたしは今日のわたしより幸せでした」
喉から声を絞り出すように、彼女は言った。決して腹から声をださない。だから意志がこもっているようには聞こえない。用意しておいた言葉を声にしたという体だ。棒読み、というのともちょっと違う気がする。棒読みはもっとわざとらしく棒読みだ。彼女は自然に棒読みなのだ。この表現でよいのかどうかわからないが、そう感じた。
「ですから」
彼女の発言は文脈の途中で突然止まる。しばし黙す。
「きっと明日のわたしは今日のわたしよりも不幸せです」
そんなふうに言うもんじゃない、と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。代わりに、こう言った。
「そうしてどんどん不幸せになっていったら、」
言葉が止まる。なぜか次の言葉が出てこない。彼女が私を見ていないことに気づいた。
目は、私を向いている。彼女の眦は間違いなく私を捉えている。しかし、彼女の瞳に私が映っているとはとうてい思えない。私の言葉は、きっと彼女に届かない。
だめだ、私の手に負えない。助っ人を呼ぼう。そう心に決めた。
「なっていったらなんですか」
彼女は、疑問形とは思えないほど抑揚なく発音したので、質問されているのに気づくのに時間がかかった。
なっていったら、なんだろう。自分でもよくわからなくなった。
「…明日、続きを話そう。今日よりも不幸せではなくなっていることを祈るよ」
逃げるように、私は彼女のもとを離れた。
「やあ!カタリィ!」
テーブルの横をとおりすぎるところを無理して底抜けに明るい声を発して彼を呼び止めた。
「テール?テールじゃないか!」
私の声の底をさらに抜いたような明るい声が返ってくる。
「忙しいかい?」
「もちろん!生きるのに忙しいさ!」
いつもの答えだ。
「忙しいところ悪いんだが、頼みがあるんだ」
「いいよ!」
「生きていくのに必要なエッセンスだと思って、頼みを聞いてくれないか」
「うん、わかってる」
「読んでほしい子がいる」
「だれ?」
「コシノサチって女の子だ。十四歳。重度のオービュー・シンドロームに罹っている」
「うん」
「影響されないよう気をつけて」
「だいじょうぶ。いつ?」
「きみの都合がよければ明日の朝にでも」
「んー」
カタリィにしては珍しく迷った。
「やっぱり、やめるか?」
「やるよ」
カタリィは、笑った。
「ぼくの力はそのためにあるんだから」
カタリィの言葉にはほんの少しだけ、翳があった。
オービュー・シンドロームは、魂の病気である。
肉体は健康そのものであるが、魂が弱っていくのである。
心の病、というのも違う。心の病にかかる人は、脳の働き、心のあり方が悪くなっていく。しかしオービュー・シンドロームは脳の働きはとくに問題がない。そのため自覚症状がないことが多い。鬱になるわけでも、自律神経がおかしくなるわけでも、幻覚を見たりするわけでもない。併発することもあるが、それはまた別の理由だ。
魂が弱ると、本人に自覚がなくてもいろいろなところに影響が出る。
主に本人よりはその周りの人に影響が出る。
サチがこの病に罹っていることがわかったのは幸運だったが、いまのサチ自身が幸運かどうかはわからない。難しいものだ。
「おはようございます」
私が挨拶すると、サチはいつもどおり感情のない挨拶をした。
「昨日も、会いました」
「そうだね」私は努力して微笑む。「今日の調子は、どう?」
「それはあなたのほうが詳しいでしょう」
測定器をサチの左腕に巻いて、測定を開始する。
決められた手続きに過ぎない。体温、血圧、脈拍を測って記録したところで、何ひとつ治らない。測定の記録に病を治す力はない。
そして、記録からは患者の調子はわからない。サチはそこを誤解しているのかもしれない。
しかし、私は訂正することもなく、サチも何か言うわけでもなく、測定器が記録していくのを見ていた。
普通の患者に対してなら、ここで世間話をするところだ。そしてサチも表向き普通の患者のはずである。
「朝からいい天気だね」
「たしかに晴れています」
良し悪しを使わない答え。サチ自身の判断を入れまいとしているのか。
「今日のようないい天気のとき、何をしたいかな」
「晴れているからと言って特に何もした記憶はありません」
この病気の患者がすべてこのようなそっけない会話をするわけではない。話好きな患者の方が多い。
「でも何か特別なことをしたくならない?たとえば、散歩するとか、運動するとか」
「いいえ」
測定器が音を立て、測定が終わったことを示した。私の質問にサチは答えているし、私はそれ以上の質問を思いつかなかった。もう切り札を切るしかない。
「今日は、紹介したい人がいるんだ」
私はドアの外で待っているカタリィに手を挙げた。
「やあ!」
カタリィがドアを開けて入ってきて、この場の沈んだ雰囲気をぶち壊しにする明るい声を上げた。そう、それこそ望んでいたもの。
「カタリィといいます。サチちゃん?」
「はい」
「ぼくはね、人のものがたりを読むことができるんだ」
「ものがたりってなんですか」
「いろいろだね。読んでみないとわからないけど」
カタリィは勧められていないのに勝手に座った。
「ある人は、それまでの人生がものがたりになって見えた。ある人は、今までではなくこれからのことが見えた。ある人は、その人が考えているものがたりが見えた。サチちゃんはどれかな。読んでみてもいい?」
「どうするんです」
「そんなに身構えないで。ぼくのこの目をみて。ゆっくり、深呼吸しよう」
「わたしは同意していませんよ」
サチが感情を伴わない声で拒絶したが、カタリィの目の焦点がサチの顔から外れたので、読み始めたことを知った。
数分間の沈黙。
カタリィが目を閉じた。
「おっけー。ありがとね。結果はまた後で」
カタリィがそう言ったので私も片付けを始めた。
「どうだった?」
サチの元を出て、すぐに尋ねる。
「んー。困ったね」
「困ったってなにが?」
「あの子、ものがたりがたりない」
「たりないってのは?」
「ものがたりにするほどエピソードが見えなかった」
「そういうことがあるの?」
「そうだね。でも、なんとか努力はしてみるよ。ちょっと協力してよ」
「事務所で?」
事務所じゃないほうがいいというので、目に付いた喫茶店に入った。まずは私が小声で話し始めた。
「今までの例でいうと、すてきな過去を読めた人に対してはこういう花瓶がいい。花を活ける習慣があるかどうかにもよるけど。霊験あらかたな法主の霊力をこめたというこの花瓶。使えば過去を思い出せすことができるわけだ。過去ではなくて未来を読んだ場合は、こういう風景画がいい。もちろん法主の霊力を込めたもの。風景に未来を映して見ることができる。毎日見るところに架けるといい効果が出るはず」
私たちは、ある宗教に従って動いている。オービュー・シンドロームだのなんだのは、嘘か本当か私には判断がつかないが、我々の息のかかった医師が提唱した病名だ。だから、ある一定の説得力さえ出ればいいし、その対処法として法主の霊力を金額にして売ることも間違いじゃない。古来ローマ教皇も行ったやり方なんだから。
「未来に不安がある場合は、この壺だな。壺は水を貯めるものだから、少しずつ善行を貯めていくとかそういう言い方ができる」
それを聞いてカタリィは小声で答えた。
「ぼくは騙りのカタリィなので、本物のカタリィほど力がないんだよ。全く力がないわけじゃないけど、あの子から読めた情報は少ない。本物のカタリィなら本人の意思とは別に話を作っちまえるかもしれないね。もしかして、感情がない子?」
騙りのカタリィがこんな話し方をするとは。
「感情はあまり表には見えないね。だが、親は金持ちだ」
だから、と私は続けた。
「感情はなくてもお勘定はあるはずだよ」
ものがたりがたりないもの 穂積 秋 @min2hod
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