小説の日々
瑠璃
小説の日々
「人間は考える葦である」と、パスカルは言った。この有名な言葉は僕の中で常に生きている。
重い瞼を開け部屋の時計を見ると、短針が十をまわっていた。焦ることはない。普通の学生なら慌てて学校へ行くところだが、僕なので慌てることも無い。ゆっくりと支度して僕は家を出た。雲ひとつない快晴。その晴れ晴れしさを裏切るように冷たい風が吹いていた。朝ラッシュを終えた駅に着くと電車がホームに滑り込んできた。朝ラッシュと言っても比較的人口の少ない地域なので過言だったかもしれない。ボックスシートに引き込まれるように座り揺られながら窓の外を見つめた。いつもは電車の中で寝るのだが、冬の時期は揺れが大きくなり満足な睡眠を取れないので金属の延性に文句を言いたいばかりだ。そんなことを考えてるうちに電車は学校の最寄り駅に停車した。暖房の効いてる車内から出るのは非常に遺憾だ。ボタンを押してドアを開けると見慣れた光景が広がった。葉っぱのない並木道をしばらく歩き、校庭で遊んでいる同級生の目を避けるように教室へ向かった。
僕には友達がいる。たくさんじゃなけどいる。僕は大変誇らしいことだと思っている。同時に、友達は刺激し合うことが出来るからとても有意義だと思っている。そんな友達の一人に春川という男子が約一名いる。その日も慌ただしい廊下の人混みの中で挨拶をしてくれた。気持ちがいい。彼とよく喋るわけじゃないし、おそらく彼は僕に心を開いてることもない。しかし気が合うので友達をしている。なぜ気が合うかって? それは世界七不思議の八つ目だ。考えるのが好きな僕でもこればかりは考えるのをかなり前に諦めた。春川は誰でも認める美青年でありながら存在感は薄く、いつもなにかをぼーっと考え込んでいる。文系の彼は豊富な想像力と語彙を持ち、僕の嫉妬の対象でもある。授業中にぼんやりと脳内に世界地図を展開してるうちに昼休みが到来した。僕は作りかけのヨーロッパを見捨て、席を立った。ざわめく教室を後に人気のない階段裏のベンチへ向かう。そこには春川がいた。まるで一日を繰り返すように同じ場所でパソコンと対面してる。僕の考えだと彼は小説を書いてるか、あるいは淫らな画像を見ている。割合的には前者が圧倒的多数だ。今日は前者だった。一定の距離を空け座った僕は、首を伸ばしてパソコンの画面を覗いた。僕は彼の書く小説が好きだ。別に本をたくさん読んだり、本が大好きな訳でもない。現に部屋には積読本が棚から溢れ出そうなほどある。実はパスカルの有名なあの言葉が綴ってある著書「パンセ」も読んだことがない。もちろん春川には内緒だ。ともあれ、彼の書く小説に刺激を受けることが好きだ。物語の中で読者が考えさせられるのが僕なりの読書の醍醐味であり、春川の小説が好きな理由である。さらに彼は小説コンクールで賞を取ったりと生粋の天才であるのは自明の理だ。ほとんどの昼休みは春川と駄弁って終わる。嫌いじゃない。
数時間後、学校が終わると太陽もだいぶ低くなり寒さが蘇ってきた。特にすることもない僕は来た道を辿って帰路についた。家に着く頃には太陽が地平線に差し掛かり眩い橙色の光が駅前の小さいビル群に反射していた。コンビニで夕食のナポリタンを買ってから僕はやっと家に着いた。部屋に入りベッドに自分を投げつけた。今日は一段と寒かった気がする。そんなことを考えながらレンジで温めたナポリタンを平らげた。うまい。日本で生まれてよかったと思う口実を作ってくれた。だらだらと宿題を片付けて、春川とどうでもいいラインを終えるとやがて僕は眠りについた。
翌朝、僕はきちんと時間通りに学校へ行った。今日は雪が少し混じった雨だった。色とりどりの傘が視界を埋め尽くす。僕は感情をあまり感じない。雨だって晴れだって大して気にしない。けれど今日の雨は少しだけ、ほんのちょっぴりと心を痛めた。いつからだろうか。最近はどうでもいいことに感情を覚えた。駅に着くと同じ電車が、同じ時刻に遠くからやってきた。こうして冬も終わりに差し掛かり、気温も徐々に上がるのが肌に感じられた。春川との関係も続き、いつのまにか彼の小説を欲するようになっていた。週末には彼の家にお邪魔してゴロゴロと意味もない時間を送っていた。彼のベッドに置いてあったクジラのぬいぐるみを見た時、僕は不覚にも可愛いと思ってしまった。触っていいか聞いてみると変な目付きで断られた。僕はこの時間が好きだった。才能のある彼に刺激されて知識を競ったり、人生について喋る時間が。一緒に電車に揺られる時間も、駅前の小さな暗いゲームセンターでお金を無駄にする時間も好きだった。けれど彼は僕に心を開いてくれる気配はなかった。
それはある初春の日だった。放課後に春川と会う約束をしていたので恒例のベンチへ向かった。
「なぁ、ちょっと話があるんだけどいいかい?」
と、彼は言った。春川がこんなに険しい表情をしているのは初めて見たかもしれない。
「―――ちょっと待て、当ててみる。彼女できたんだな」
「僕が恋愛しないのは君も知ってるだろ」
「じゃあ友情関係の悩みか 」
「違う違う。実は今年度限りで転校するんだ」
と、彼は何事でもないように言った。内心そんなとこだろうと思っていたが現実を受け入れたくなかったのだ。詳しく聞くと、ロンドンに引っ越すらしい。有名な大学の付属高校に転校するらしい。奨学金付きで。僕は急な展開についていけてない気がした。これまでは当たり前のようにいた友達は、突然いなくなるのだ。死ぬわけじゃないのに、ちょっと怖かった。考える力にも個人差はあるようで春川はずば抜けていた。そう、ほかよりも高く育った葦のように。それを熟知していた僕からは、「おめでとう」という言葉は発されなかった。
帰り道に僕はまた駅前のコンビニでナポリタンを買った。便利な店と名付けるだけある。むしろ便利すぎてお金を消費してしまうのでもうちょっと不便にしていいかもしれない。帰宅した僕はなぜかベッドに身を投げず、そのままナポリタンを食べた。いつもより不味かった。味蕾が故障しているのかもしれない。少し後悔した。その後春川にラインを送ったがいつまでも返信は来なかった。無理もない。きっと引越しの準備で忙しいのだろう。暇を消化すべく彼の小説を読み直した。春川は僕という人間をどう考えているのだろうか。合理的な彼は僕と付き合うことに利点があると思っているのだろうか。不安で仕方がなかった。きっと心を閉ざしているのにも理由があるに違いない。春川という届かない存在に僕は嘆いた。
二週間後、僕は空港にいた。割と田舎な僕らの地域からは電車で二時間ほどとかなり遠い。しかし寝たので関係ない。しばらくして、縦横無尽に行き交う人々の中から大きなスーツケースを引っ張る春川が現れた。彼は少し下を向いていた。感動的な別れはなかった。もはや毎日しているかのように、簡単に別れを告げた。そしてその後、人生で最も長い二時間を経験した。電車に揺られるのは嫌いじゃない。そんな僕は暗闇に浮かんでは消える民家の明かりをぼんやりと見つめてた。家に帰った僕は暗闇に呑まれるように眠りについた。
次の朝、時計は止まっていた。ただの電池切れだ。僕は何も考えずに支度をし、家を出た。春一番が肌に吹き付ける。地面に疎らに散らばる水溜まりが日光を反射して輝いていた。僕は何も考えず電車に乗り込んだ。いつもと同じ動作でも心が空っぽに感じた。便利なことに、この世にはインターネットがありいつでも会話できる。けれど僕は知っている。会えないのは辛い。インターネット越しの関係はたかが知れている。当たり前のように会っていた人も幻になる。それを恐れていたのだ。春川との思い出が過ぎ去る車窓のように僕の脳内を過った。そして考えた。きっと彼は文学だけに心を開いていたんだろう。
小説の日々 瑠璃 @ntrk37
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