卒業

シュート

第1話 俊太と妻を繋ぐもの

 風はさらさらと清潔に流れ、桜の花びらの触れ合う音が聞こえる時期だった。

「パパ、口にごはんがついているよ」

 小学3年生になった俊太に指摘された。私は自分の口に手をやり、そのごはん粒を口に入れる。そんな私の様子を見ていた私の母が

「あら、パパだめじゃない」

 苦笑いをしながら言う。

 食事をしながら、私は洗い流したはずの思い出の中でぼんやりと考え事をしていた。


 私の妻の明美が病気で亡くなったのは、俊太が2歳の時だった。精神が波にさらわれた砂のように少しずつ失われていく感覚だった。しかし、最愛の妻を失った悲しみに打ちのめされていられたのは、妻の葬式が終わるまでであった。悲しみの波に襲われながらも私には俊太とどう生活していくかという現実的な問題が突き付けられていたため、妻との思い出に浸っている余裕はなかった。

 保育園に預けて仕事をするという選択肢もあったが、それだと迎えに行く時間を気にせざるをえず、仕事に打ち込めない。やはり、実家に頼らざるをえなかった。ただ、当時、父と母は必ずしもうまくいっていなかったので、この話を受けてくれるか不安もあった。ところが、母は快諾してくれた。恐らく母もいびつになった夫との関係から逃れる術を探していたのだろう。以来、6年間実家の世話になっている。俊太という孫が介在となったためか、父と母の関係もいつしか修復していた。

 そういう意味で、私が選択した方法は間違っていなかったと思っている。でも、こうしてこれまで流れるように生きてきた私は、最近ずっとこのままでいいのだろうかと考えるようになっていた。

 妻は俊太が2歳の時に亡くなっている。きっと俊太に伝えたかった思いはたくさんあったはずだ。でも、それができずに亡くなった。だから、俊太には母(ママ)の記憶はない。俊太にとってのママは、遺影の中にしかいない。そんな実感できないママを、俊太はどう受け止めているのだろうか。俊太なりに折り合いをつけることができているのだろうか? そのことが、私は気になっている。もっと大きくなれば、“ママがいた”という認識をするのだろうけれど…。

 だから、俊太に“現実のママ(母親)”が必要なのではないかと考えるようになっている。子供を育てる上では、やはり父親だけではなく、母親が必要だと感じている。それは、自分が母親の愛情に、これまで何度も救われてきたからだ。その役割は、おばあちゃんではできない。

 私には、もう1つ悩みがあった。それは、俊太が夜寝る時に、妻が当時2歳の俊太のために買った小さな布団の端を口にくわえないと寝られないことだった。母に話したところ、そんなことはどの子にもあることで、自然に離れるようになるから心配する必要はないと言われた。「あんただって、ぬいぐるみがないと寝ることができなかったでしょう」と言われてしまった。それにしても、そろそろ卒業してほしいと思っている。俊太にもこれまで何回か言っているが、やはり手離せないでいる。でも、一方で、現実的に妻と俊太を今繋いでいるのは、その布団だけだと思うと、俊太がその布団をしゃぶっている姿に涙が出そうになる時もある。

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