一人の本

八ツ波ウミエラ

至高の一篇

 その出来事はカタリィ・ノヴェルが列車に乗っている時に起きた。



 駅に着き、列車が止まる。多くの者が降り、また多くの者が乗り込んでくる。


「隣、空いてるかい」

「ええ、どうぞ」


 髭の生えた三十代ほどの男がカタリの隣に座る。そしてこう言った。


「俺は次の駅で降りるから少しの間だけどよ、良かったら話でもしないか」


 カタリは頷く。ちょうど退屈していたところだったのだ。


「俺の名はホン。変わった名前だと思っただろう。これは書名なのさ」

「書名?」


 男はイタズラっぽく笑う。


「俺という本の、タイトルだ。俺は人々にこうして面と向かって物語を語ることを生業としている。本がページをめくる人だけに物語を伝えるように、俺も目の前にいる人だけに物語を伝えるのさ」

「それは面白いですね。一体どんな物語なんですか?」


 カタリはわくわくしながら聞いた。


「色々だよ。巨人の街の祭りに参加する話だとか、ふかふかの布団を売る妖精の話だとか、殺人を犯したお姫様の話だとか。俺が特に気に入ってるのはな、カタリィ・ノヴェルって奴を探している、ホンって名前の男の話さ」


 列車がトンネルに入った。窓の向こうに暗闇が広がる。


「僕を知っているのですか?」

「ああ、知っているとも。あんたが至高の一篇などという、存在しないもんを探し求めていることも」


 少し離れた座席に座っている子供が泣き出した。暗闇が怖いのだろう。


「至高の一篇なんて、存在するわけがない。どんなに優れた物語だろうと、賞を取った物語だろうと、批判する奴はいる」

「……そうですね」


 男はカタリを睨みながら言った。


「存在しないもんを探し求めるのは、さぞつらいんじゃないか?」

「それ、自分に言ってますよね」


 男の体がびくりと震える。


「とりあえず、僕の答えを言います。僕は、信じている。至高の一篇がこの世界にあることを。僕に出来るのは、探し求めることだけ。つらいなんて思っている暇はありません。あなたとは違う答えかもしれないけど、あなたが一人の本であるように、僕もまた一人の本だ。違う本には、違う物語が書いてあるものでしょう?」


 カタリは微笑みながら言った。列車はトンネルを抜け、窓の向こうには何処までも続く草原がきらきらと光っていた。


「参ったなぁ。まさか言葉で返されると思わなかった。てっきり詠目ってやつを使って俺の中の物語を教えてくれるもんかと……」

「あなた、一人の本である前に、一人の作家でしょう。自分の物語は、自分で書いて下さい」

「はは、その通りだな」


 男は降参したように笑った。



 列車が次の駅に着いた。つまらないことを言って悪かったな、別れ際にそう言って、男はカタリに栞を渡した。


「栞ってのは、あんたと一緒で、物語から物語へ旅するもんだろ?」 


 カタリは栞を受け取ると、男にこう言った。


「至高の一篇の持ち主は、あなたかもしれませんよ。栞、ありがとう」


 列車が進み始める。男はどんどん小さくなる列車をいつまでも見ていた。そして、小さな声で、こちらこそありがとう、と言った。 

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