千鶴へ ~ 怪異譚は眼帯の巫女とたゆたう ~
佐久間零式改
千鶴へ
千鶴は今どこで何をしているのだろうか?
数年前、妻は千鶴の事を心配しながら永眠した。
あの頃は妻と一緒に、私も心配していたが、今は違う。
千鶴が生きていて、幸せであるのならば、もう何もいらないと思うようになった。
それは、私が余命宣告を受けて、これ以上心配しても仕方が無いと気づいたからだろう。
千鶴、お前が幸せでいるだけでいい。
私や妻の分まで幸せになってくれているのならば、それ以上は何も望まない。
千鶴。
幸せでいてくれ。
それが私のたった一つの望みだ。
逢うことは叶わないと分かっている以上、そう望むしかない。
千鶴。
生きていてくれ。
幸せでいてくれ。
私達の分まで幸せでいてくれ。
* * *
「ただ捨てただけじゃ呪われるかもしれないと思ったから持ってきたのよ」
東京都北区
初めに対応した私は頭痛が酷かった上、気分が優れなかったため、久喜麻美の話が半分も理解できなかった。
そこで仕方なく、高校から帰ってきたばかりの娘の稲荷原流香に詳しい話を窺ってもらう事にした。
長女の稲荷原瑠羽が亡くなった頃から私は何度も体調を崩してしまっていて、神事をこなせなくなっていた。
最近は、神事を次女の稲荷原流香にやってもらう事が多く、私は半ば隠居の身であった。
本殿の中で、私が久喜麻美と対面するように座っていると、流香が三人分のお茶、水が入ったコップを1つ、それと、四つのフルーツゼリーがのったお盆を持って本殿へと入ってきた。
お茶とフルーツゼリーをそれぞれの前に置いた後、流香は何を思ったのか、フルーツゼリーと水の入ったコップを私と久喜麻美の丁度中間に置いた。
怪訝そうな顔をする久喜に、
「これが作法ですので」
と、流香は説明をしてみせた。
そのような作法などないのだが。
私は心の中でそう言いつつも、流香には私には見えていない『何か』が見えていて、その『何か』のためにフルーツゼリーを用意したのだと悟ってはいた。
娘の稲荷原流香には、死んだ姉の魂が融合してしまっているように私には見えている。
事実、流香が失った左目のところには、瑠羽の魂が居ついている。
それはさほど霊感がない私にも分かっている事実だ。
「それで相談の内容は?」
流香が久喜に話を促した。
「この本を処分して欲しいんです。持っているのも気持ち悪くて」
「どのような本なのですか?」
流香が慇懃にそう訊ねた。
私は置物のように二人のやりとりを見守る。
立会人程度の役割だと思い、全てを流香に任せることにしているのだ。
「カタリィ・ノヴェルという少年が持ってきた本なんですが、私のために書かれている本だと言って渡してきたのよ」
「カタリィ・ノヴェル……噂は聞いています。
流香は自虐的に笑い、
「私の左目はもうなくなってしまっているので、うらやましいです。そのような能力があって」
左目があった場所を覆っている眼帯に手を添えた。
「……」
久喜麻美は言うべき事が見つからないようで、愛想笑いに似た苦笑を浮かべた。
「本の内容はどのようなものでしたか?」
私は流香に代わって、そんな質問を飛ばした。
「私の名前は久喜麻美なのに、この本っていうか、小説? その題名が『千鶴へ』っていうのよ。人違いか、なにかなのよ、だから気持ち悪いの。私の事を千鶴だと勘違いして、気持ちをぶつけてきているの。気持ち悪いったらありゃしない」
「その本、私に読ませてください」
流香がそう申し出ると、久喜は気持ち悪いと心底思っているようで、流香の前にその本を放り投げた。
本は茶色い表紙のハードカバーであった。
厚みは結構あり、壮大な物語が記されている気配があった。
流香はその本を手に取り、三百ページはあろうかと思われる本を開いて、パラパラとめくる。
みっしりと字が書いてあるのかと思っていたが、そうではなく、ほとんどが白紙であった。
流香が小首を傾げたので、私もつい小首を傾げてしまった。
めくっていたページを元へとめくり直していくと、最初の1ページ目に『千鶴へ』という短い文章が書かれていた。
それは小説というよりも、手紙といった様相であった。
「久喜麻美さん、いくつか質問がしたいのですが、いいでしょうか?」
本をパタンと閉じて、流香が久喜の目を見つめる。
「え、ええ……」
流香の視線に射すくめられたのか、若干気後れしたように、久喜は口を開いた。
「一つ目は」
流香はそう言って右手を挙げて、人差し指を立てた。
「お姉さんか、妹さんがいませんでしたか?」
「いえ。私は一人っ子ですが?」
「二つ目は」
人差し指に続いて、中指を立てた。
「お子様はいましたか?」
「いえ。まだ結婚さえしてませんって」
「では、最後に」
流香は手を下ろして、
「三歳の頃、引っ越しをしませんでしたか? どこか知らない場所に」
久喜は驚いたように大きく目を見開き、
「ど、どうして分かるの?! 三歳の頃に引っ越しをしたらしいんですよ。私は新しい場所になじめなくって、泣いてばかりいたみたいで。当時の事はよく覚えてないんですけど、怖くて泣いてばかりいただけなのはなんとなく覚えていて」
久喜は昔を懐かしむような遠くを見つめる目をして、照れ笑い浮かべた。
「……分かりました」
その質問で何が分かったのだろうか。
「この本は私が保管しておきます。もし、読みたいと思う時が来たら、この神社に来てください。大切に保管しておきますので」
「そんな事、きっとないって。絶対にないって」
久喜はそう言って、ケラケラと笑った。
「訊きたいのですが、何故、この神社にこの本を持ってきたのですか?」
「それはこの本を渡してきたカタリィ・ノヴェルって人が言っていたんです。『この本には切実な願いが込められているから大切にしてください』って。でも、私は千鶴じゃないし、感情が込められた本を持っているは嫌だから、ここで焼いてもらおうかなって」
「……切実な思い、ですか。そうでしょうね」
流香は右目を閉じて、手にしていた本を両手で抱きしめるようにして包んだ。
* * *
久喜麻美が足早で本殿から出て行ったので、私と流香が本殿にそのまま残る形となった。
流香は何も言わずに、誰も手を付けなかった四つのフルーツゼリーを神前へと供えた。
「私には霊感がないから何も見えてはいなかった。見えるという事は、正直うらやましい。私には、この本の意味がさっぱり分からなかった」
「あの女の人には、三歳くらいの女の子の霊がつきまとっていました」
一つ目、二つ目の質問はその少女の霊の正体を突き止めるためにしたのだろう。
姉妹、子供でもないとしたら、親戚か何かの子供だったのだろうか。
「その少女は死んでいる事さえ気づいてはいないようでした。それに、弔われた事がないような気配さえしていました。お父さんなら、その意味が分かりますよね?」
「世間的には死んだ事になっていない。あるいは、最初から存在などしてはいなかった……そんなところか」
弔うとは、死者の霊を慰めるために追善供養を営む事だ。
つまり、死んだ事にされていないため供養さえしていないのかもしれない。
故に、死んだ事さえ知らずにいるのではないか。
「その少女の霊が本当の久喜麻美さんではないのかと私は思い至りました」
「……すり替え、か」
私は三つ目の質問の意味を察した。
あの『久喜麻美』は、死んだ『久喜麻美』の身代わりとして迎え入れられたのではないだろうか。
そして、あの本の『千鶴へ』という文章。
そこに繋がる物語があるとするならば、
「誘拐されたのか。三歳の頃に」
それしかない。
「……ただの推測です」
新しい場所に連れて行かれただけではなく、新しい『親』ができたから、当時の久喜麻美は怖くて泣いてばかりいたのではないか。
それならば、ずっと泣いていたのも合点がいく。
そして、新しい親を本当の親と思い込み、過去の親を忘れる事で現状を受け入れたのかもしれない。
「誘拐された後、両親がどれだけ探し回ったのか、どれだけ心配していたのか、どれだけ再会することを望んだのかを書き記したかったのではないでしょうか。ですが、命に限りがあると知った時、幸せに暮らしているかもしれない千鶴にその真実をこの本によって開示しまうのは、本当の両親の死という事実を突きつけるだけではなく、千鶴を天涯孤独にした上、今の千鶴の生活を破壊して不幸にしてしまうかもしれないと悩みに悩み、あのような短い文にしたのではと私は思っています」
紡がれていた物語はほんの数行ではあった。
だが、そこに込められている思いは、白紙のページ分だけあったのかもしれない。
そこに記すべき物語を記す事ができず、思いを白紙に込めたのかもしれない。
それが親の愛であったのではなかろうか。
「真実にたどり着いた時、久喜麻美さんはきっとこの神社を訪れる事でしょう。それまで、この本は大切に保管します。いいですよね、お父さん?」
「今はこの神社の事は流香に一任している。好きにしろ、としか私には答えられない」
その後、過去に『千鶴』という少女が行方不明になっていないかどうか調べてみると『
しかしながら、その長部千鶴が久喜麻美である確証は何もない。
誘拐された事が事実であるとするのならば、真実にたどり着かない方が幸福であるかもしれない。
その真実を目の当たりにしたとき、この本がきっと必要になるに違いない。
久喜麻美が何者であるかを知る物語が、この本には記されているのだから……
千鶴へ ~ 怪異譚は眼帯の巫女とたゆたう ~ 佐久間零式改 @sakunyazero
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます