第10話 月の夜
静かな夜だ。
風に木々がざわつく音と、梟の鳴き声だけが聞こえてくる。
夜ってこんなに静かだったかな。今は何故か眠れない。暗闇に慣れた目には部屋の様子がはっきり見えるし、気のせいかカビ臭いにおいもしてきた。
マキノは既に毛布をかぶって熟睡していた。アレクはいつも通り剣を抱えて壁に寄りかかっていて、寝ているんだか休んでいるんだか分からない。どこかの陰ではメイルが毛布の中で丸くなっているだろう。昔からの習慣で光があると眠れないらしい。フィンは、また屋根の上かな。いつも夜の見張り役を買って出てくれて、僕らは安心して休めている。フィンと旅をするようになってから寝込みを襲われた事は一度も無い。
でも、そう言えば。
ショーロの村で喧嘩して以来、フィンの機嫌は悪いままだ。ここ数日はろくに話してもいない。レイとも和解した形で話が落ち着いたけど、それもフィンは納得がいっていない感じだった。単に興味が無かっただけかも知れないけど。
余計な事ばかり考えてしまう。
「レイ、起きてる?」
不意に呼びかけた言葉に、当然のように答えがあった。
「ええ。君は、寝ないの?」
この際だ。少しすっきりしよう。
「ちょっと外に出ない?」
森を吹き抜ける風はほんのり冷たくて心地良かった。湿気が多い森での空にしては、今日はとても綺麗に見える。小屋から出て、なるべく音をたてないように扉を閉めた。やっぱり今は寝ない方が気持ちいい。丁度いい感じに夜の森の空気が張り詰めている。大きく伸びをして、軽く体を動かした。
僕は辺りを見回して一番高そうな樹に登る。これも狼相手に森を走り回って身に付けた物かもしれないな。枝もくぼみも多いし、それほど苦労せずに登れた。葉をかき分けて、鳥の巣を避けて、そろそろ空が近くなる。
「月……」
登り切った時、レイが茫然と呟いた。晴れているおかげでとてもよく見える。ここまで来ると、本当に本が読めるくらい明るい。ちょうど良く太い枝があって、僕は幹を背にそこに腰かける。
目の前に広がる樹海。その先には大きな山々が見えた。これから行こうと話していたのはあの向こうだったのかな。確かに超えるのは厳しそうだ。その反対側、森の途切れる辺りから見える光はショーロの村だ。近隣都市からの支援も来て、今は夜通し救出作業に当たっているだろう。もう僕らの手の届かない事だ。
「もしかして、月を見るのは久しぶり?」
「……ええ。もちろん月明かりは分かるけれど。ああ、そういえば、こんなにも綺麗だったのよね」
「今レイがいるのは、部屋、みたいな所かな。それとも……」
「それともの方ね。狭いし汚いし良い事無いわ。その上、今までは指輪の向こうの景色まで真っ暗だったから。まさか鉱山の中だなんて、なんでそんな所に転がり込んだんだか。嫌になるわ」
牢獄。
想像するだけで心が重い。
誰もいなくて。何もなくて。何も見えない。結局訊けず仕舞だった。いつからいるのか、なぜいるのか。樹の上は森の中より風が強かった。念のため持ってきたマントを羽織る。
「どうしてやめておけなんて言ったの?」
「え?」
「ドラゴンだよ。レイ本人は動けないにしても、僕を人質に取ってみんなを脅迫すれば良かったんだ。あいつを倒せって。マキノもフィンもずっとそれを警戒していたんだ。なのに……」
「偶然だって言ったでしょう。私は自分が助かるために、君達を死なせようとは思ってないわ」
そう、はっきり言った。毅然とした声だ。僕にはレイの事がまだよく分からない。なぜだろう。こうやって明るく話しているレイも、誰とも関われずに日々を過ごす事を寂しく感じているはずだ。牢獄というなら、いつ命を奪われてもおかしくはないのに。
「レイを閉じ込めているのがドラゴンなら、あいつさえ倒せば自由になれるんだろう? いや、そもそもどうして捕まっているの?」
「さあ。あいつの尻尾に噛みついたからだったかしら?」
レイは平静だった。不安になるほどに。この状況を受け入れていると言わんばかりに。それとも閉じ込められているという話は嘘なんだろうか。でも僕に分かる事なんてレイの言葉だけだ。嘘か本当か、分かるはずもない。
「ただ、私はあいつが許せない」
「許せない?」
「言い訳がましく聞こえるかも知れないわね。誰も危険には晒せない。でも放っておけば、あいつは世界に自分の悪意をばら撒き続ける。決して止まらない、誰かが止めるだけよ。でも今のままじゃ誰にも止められない」
ただ囚われているだけじゃない。レイはドラゴンを知っているんだ。会って、話をして、どんな相手か分かっている。その上で言ってるんだ。まだ始まったばかりだと。
「でも、フィンが言っていたように、いずれどこかの軍隊がなんとかしてくれるんじゃ……」
「軍隊、か。昔の話だけどね、あいつはたった一人で軍隊を壊滅させた事があったわ。ドラゴンの分身に対して武器が効きづらい事も知っているでしょう。まして本体があの大きさ。ふふふ、間近で見て改めて嫌いになったわ。あんなにゆっくり飛んでいるなんて。完全になめてるわね」
なめてる。
その言葉は僕に違う考えを沸き立たせた。感情がある、意思がある、はっきりとした敵意があるんだ。表情を持たない岩のドラゴンには、台風や雷のような無機質さを感じていたけど。やっぱりあれは「敵」なんだ。ドラゴンの標的はレイの話通りなら、この世の全てだ。
「大がかりな石弓を揃えるならまだしも、軍隊なんてまとめてやられるだけで逆効果よ。やるなら黄金と白銀を探し出して、少数で空から一気に切り込むしか……」
そこでふと、レイは詰まった。
「違う違う! こんな話はどうでもいいの!」
僕も、我に返る。
森や星空がやけに新鮮に感じた。どこにいるかも忘れて話していたんだ。大きくため息をつくと、冷たい空気が肺の中に流れ込んで気持ちが切り替わる。白い息が夜の森に溶けた。
そうだ、こんな話はどうでもいいんだ。
僕は少しとぼけて言ってみた。
「じゃあどんな話をしようか?」
「え?」
話を振られるとは思っていなかったのか、レイが何か難しく考えている。えーっと、と口を開いては考え込む。結構面白い。こういう所はアレクと変わらない年頃の女の子みたいだ。背は僕と同じくらいなのかな、髪は短めだろうか、そういえば魔法使いってことは人間なのかな。
姿が見えないレイを勝手に想像していると、ようやくレイは話を決めた。
「じゃあ、さ。君の事を話したいかな。その姿の事とか」
「ああ、これ? やっぱり分かるかな」
「それはもう。兄弟でもないのに、あのアレクって彼と似過ぎてるわ」
そんなにか。これでも結構変えているつもりなんだけど。
「変わり者って、泉の魔物の事でしょう? どんな姿にでもなれるって聞いたんだけど、変われなくなってしまったのはなぜ? それに変われないのなら、どうやってその姿に?」
「初めてアレクと出会った時に色々あってね。この姿にだけは、なんとかなれるんだ」
あの時は僕も必死だった。メイルを助けようと思って、目の前のアレクを見ながら崩れそうな体を死に物狂いで押し固めた覚えがある。もう一度やれと言われても無理な話だ。思い出しても、つくづくアレクの第一印象は最悪だった。
それにしてもレイは本当に自分の事を話したがらない。
まあ、それでもいいか。
「じゃあついでだし、今は離れているけど故郷の話でもしようかな」
「君の故郷、離れているの?」
「もう、ないんだよ。今はみんなで旅をしているけど、昔の仲間を探すのが僕個人の旅の目的なんだ。でも中々見つからなくてね。オデオン、故郷の一人なんかは昔からそうなんだ。みんなでアカドリの卵を探しに林に入った時も、一人はぐれたきり全然戻らなくて。見つからないって言われていた卵が見つかったのにオデオンはいつまで経っても見つからないんだ」
「アカドリの卵? いつの話か知らないけどよく見つけたわね。そもそも三年に一度しか卵を産まないでしょう。すごく美味しいからって街で買ったら相当はるわよ」
「食べたいって言い出したのは別の奴なんだけど、そう、買えなくて」
「その人達、故郷の人達もみんな君と同じ?」
「いや、変わり者は僕と父さんだけで、それ以外はごく普通の村だったよ。僕らの事に関しては誰にも話していなくて、人間として暮らしていた。でもバレかけた事は何度もあったよ。そうだな、一番ヤバかったのは……」
僕の思い出話。今のレイにとって良いことなのか、余計に暗くさせてしまうのかは分からなかった。でも、あれやこれやと取りとめもなく僕は話して、レイはそれを面白そうに聞いてくれた。
静かな夜に、僕らはひたすら話し続ける。
少しづつ歩み寄っている気がしていた。
いつか実際に会って、一緒に話して、一緒に笑って。
そんな日が来るんだろうか。
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