Annabelle (アナベル)  

連城寺のあ

第1話

モノローグ



 彼が優しく背中を撫でる、その感触を今でも憶えている。

 若いくせにしっかりと大人なその手が好きだった。「手だけ?」と、二人っきりの時の低い声で叱られそうだけれど。

 一緒に過ごした短い間に一言でも言っておけばよかった。


 でも、もう会えない。勝手に彼を突き放して姿を消したのは私。あの頃の私にはそうするしか道はなかったけれど、今ではとても後悔している。




 午前八時、朝靄に煙る国道から山道に右折すると、少し道が狭くなる。菜穂子が運転している車は、ローバー時代のミニクーパーだ。

 今時の軽四よりも車体は小さくキビキビ走るので、慣れてくると愛着がわいてくる。パワーステアリングにしてはハンドルが重いけれど、車高が低く道路に近い分、ゴーカートを運転しているみたいで楽しい。それに、このルートは慣れ親しんだ道なので難無く進む事ができる。

 山道を五分ほど走ると前方に父の工房が見えて来た。乳白色の靄の中に佇む工房には幻想的な趣があった。

 菜穂子の家は六十年前から備前焼の工房を営んでいる。大きな窯元で修業していた祖父が工房を興し、父は二代目だ。

 菜穂子が大学に進学するまで、父娘二人でこの工房に隣接する自宅に住んでいた。今は広い実家に父が一人で住んでている。

 隣接する工房の二階には弟子達が住んでいるので、人さと離れた森の中でも寂しくはなさそうだ。


 美術系の大学を卒業後に就職をした菜穂子だったが、激務で体を壊し地元に戻った。その後は市内の中心部にある父の持家を古民家風に改築して、一階をギャラリーに、二階を自宅にして住んでいる。工房には週に二~三回ほど、父の洗濯物の始末や、料理を作るためなどに立ち寄っていた。




 工房では毎年、正月飾りの餅を神棚から下ろした後に、弟子達とお汁粉を食べる習慣がある。今年も菜穂子は、お汁粉の入った大きな鍋を抱えて工房のドアの前に立っていた。重い鍋を持ったまま、どうやって扉を開けようかと思案していたのだ。待っていても、誰も助けに来てはくれないのは判っている。皆仕事中なのだから仕方が無い。鍋を一旦地面に下ろして引き戸を開けようと、腰を屈めた所で突然後ろから声が掛けられた。


「手伝います」


 聞き慣れない声に一瞬戸惑う。


「え?」


 中腰のままで振り向いた菜穂子は、そのまま言葉を失った。


 後で思い返すと……あの時、お汁粉の鍋が地面に転がらなくて本当に良かったと思う。見慣れない人物に驚いて、重い鍋を手にしている事を完全に忘れていたのだ。手の力が抜け、寸胴の鍋はガツンと音を立てて地面に落下した。深い鍋だったので中身は大丈夫だったが、蓋が衝撃で転がった。おまけに、菜穂子の小さなバッグも足元にポトンと落ちた。


 手を離した瞬間、熱いお汁粉が自分の足や辺りの地面にまき散る事を覚悟したが、鍋が垂直に落ちた事で危うい所を免れた。菜穂子はホッと胸を撫で下ろして、声の主を見上げる。




 彼は、端的に言うと、美しかった。


 菜穂子も美を学んだ端くれ、美しさにはある程度敏感だ。左右対称な顔の骨格、真っ黒な瞳の上には形の良い眉、下唇の真ん中が窪んだセクシーな唇。微笑むと、完璧な顔が輝いて、増々人を惹きつける。紐でくくったボサボサの髪さえも、美しい顔を縁取る高級な額縁の様に見えた。国籍不明タイプの超美形。


 落ちた鍋とバッグを拾おうともせず、自分の顔を凝視している女を、彼はどう思っていたのだろう?


「この柄……可愛いですね」


 彼はそう言って、バッグを拾うと菜穂子に差し出した。小さなドットを集めた輪の模様が無数に散らばる布製のバッグは、菜穂子の大のお気に入りだ。


「……ありがとうございます」


 重い鍋を軽く持ち上げた彼は、まだ呆然としている菜穂子に軽く首を傾げて微笑んだ。ドアを開けて下さいと言う合図だと、菜穂子が気付くには少し間があった。


「……あっ。ご、ごめんなさい」


 菜穂子は、焦って工房の引き戸を開ける。そのすぐ脇を通って土間に入った彼は、外見とはアンバランスな太く男らしい声を上げた。


「親方、娘さんがいらっしゃいました」


「おぉ、来たか」


 土間の奥に有る、昔ながらの台所に鍋を置いた彼は、直ぐに作業場に戻って行った。その後ろ姿を見送りながら、菜穂子は父に尋ねた。


「お父さん、あの人は?」


「ああ、内野だ。内野うちの 麻耶まや。年明けから、ウチで預かっている。ほら年末に言っていた、砥部の知り合いの親族だよ」


 そういえば……工房に人が増えるとは聞いていた。しかし、預かるとはどう言う意味なのだろう? 弟子では無いのだろうか? 不思議に思い、菜穂子は父に質問を重ねた。


「弟子じゃなくて、預かっているの?」


「弟子はこれ以上とらないつもりだったから、何度か断っていたんだよ。砥部の知り合いから頼まれて、今年の窯出しまでと言う期限付きで来てもらっている」


「そうなの……」


 窯出しの時期は毎年、目の回る忙しさだ。たまに他の工房から応援を頼む事は有ったが、今までは組合内で人を調達していた。それなのに、今回は毛色の違う応援を頼んだという事か。それも他県の知り合いから頼まれたと言うのは、何か訳ありの人物なのかもしれない。まあ、いつもの様に、気にしないでいれば良いだろう……。菜穂子はそう判断して、お汁粉の用意をする事にした。


 鍋に火を付け中火にする。作業場と台所の間に側えつけられた大きなストーブに、金網を置いて丸餅を並べた。後で鏡餅を焼くのだが、それだけでは皆が食べる分には足りないのだ。餅が焼けている間に、お汁粉は丁度良い熱さになるだろう。菜穂子はストーブの側に丸椅子を移動させて座ると、菜箸を手に餅が膨らむのを待った。


「おっ、旨そうですね」


 奥から出てきた一番弟子の天野が、嬉しそうに蓋を開けて鍋を覗き込む。父の窯元には、もともと三人の弟子がいる。いずれも三十代の独身男性で、全員がこの建物の二階に住んでいた。一階には、作業場の他に、台所と風呂、それに洗面所などが有る。二階にそれぞれ八畳ほどの部屋と小さなキッチンが備え付けられているが、皆が利用しているのは作業場に隣接する台所と食堂だ。全員妙に仲が良く、毎晩楽し気に宴会をしているらしい。気のおけない男性ばかりが集まっているおかげで、仲間意識が強いのだと思われる。菜穂子は天野に、新入りの様子を尋ねた。


「新人さんは、どんな感じ?」


 天野が、『ああ』と言う顔で頷いた。


「俺、自分の事は十分変わり者だと思っていたんですけど、麻耶の方が上手うわてでした。まあ……何と言うか、個性派です」


「うまくやっていけそう?」


「それだけは大丈夫です。性格が良い上に、使える奴なんで」


 天野がそこまで高評価を下すのは珍しい。すでに、摩耶と名前で呼んでいる事も意外だった。何か批判めいた話が出るのではないかと思っていたので、菜穂子は、肩透かしを食らった気分だ。なにせあの美貌だ、色々と問題が起きてもおかしくない気がするが、女性がいない職場だから均衡を保っていられるのかもしれない。菜穂子は、色眼鏡で彼を見ていた自分を恥じた。


 それにしても、男同士で何やら楽しそうなのが羨ましくもある。菜穂子は作業の手を止めて、台所のテーブルに集まる彼らを見て思う。週に二~三度、菜穂子が料理を持参する程度で、あとは自由にどうぞ……と放置しているが、それで困るでもなく共同生活を楽しんでいる。給料日には、スーパーからアルコールやオードブルを買って宴会をしたりと、窯元の弟子生活をエンジョイしている彼ら。


 他所で賃貸を借って自由に暮らす事も出来るのに、寮を出て行くと言う選択肢は彼らに無い様で……結構、男同士の気軽な生活を気に入っているのだろうと菜穂子は察していた。


 弟子たちがどやどやと台所にやって来ると、しんがりに新入りの彼がやって来た。


 菜穂子は餅の番を天野に託して、鍋を覗き込んだ後は漬物を切り始める。切った漬物を皿に盛っていると、新入りが大きな鏡餅を手にやって来た。菜穂子の右側に立ち、重いまな板を取り出すと、前の棚に置いた包丁に左腕を伸ばした。


「包丁借ります」


 シャツを捲り上げたむき出しの腕が、菜穂子のセーターの胸元をかすめた。


「あ、失礼」


 微かな身じろぎに気が付いて素直に謝ると、固い餅に包丁をザクリと入れた。包丁の背に手ぬぐいを置き、慎重に餅を切り分けている。


 丁寧なその動きを見る限り、仕事も雑なタイプでは無い気がする。新入りの彼、麻耶は、切った餅をストーブの上に並べると、菜穂子のそばに戻って来た。


「手伝います」


「あ、ありがとう」


 今日初めて会った所為か、それとも整い過ぎた顔の所為か、麻耶と言う男の存在に慣れなくて菜穂子の手は微かに震えていた。感情の揺れが少ない自分にしては珍しい事だと、菜穂子は内心で苦笑する。


 お汁粉が温まって餅も膨らんで来た。菜穂子は椀にお汁粉を注ぐと麻耶に手渡すと言う作業を繰り返していた。菜穂子から受け取った椀を大きなお盆に乗せると、テーブルまで運ぶ。その動作には無駄がなく。キビキビとしている。なるほど、台所仕事をほんの数分手伝ってもらっただけで、天野の評価の理由が何となく分かってしまう。


(気が利いているんだわ。それに手際が良い気がする)


 そう評価した後で、首を傾げてしまうのだ。どうしてこんなに出来る人が、元々居た工房を出てウチに身を寄せる事になっているのだろう? 菜穂子は、麻耶の事がいちいち気になって自然と目が吸い寄せられてしまう。その彼がお汁粉に口を付けると、『あれ?』と言う顔になり菜穂子に目を向けた。他の面々は、菜穂子の薄味料理に慣れている所為か、表情も変えずに黙々と食べている。


「お砂糖がちょっと違いますね?」


 麻耶が、流しにもたれている菜穂子を見上げて言った。ぼんやりと見つめていた相手と目が合い、菜穂子は慌てて返事をする。


「えっ、ええ、てんさい糖です。甘さの違いが分かりますか?」


「何となく……僕、白い砂糖を食べると頭が痛くなるんですよね」


 なるほど。完璧な左右対称顔の彼は、舌が敏感らしい。


「そうですか」


 彼に返事をしながら、菜穂子は騒ぐ心臓を持て余していた。そんな菜穂子の内心など知らない弟子たちは、麻耶をイジリ始める。


「白い砂糖だと頭が痛くなるって? なーに繊細ぶっこいてんの?」


 天野の毒舌に、麻耶は笑って答える。


「ええ、僕は繊細ですよ。少なくとも、親方から貰った酒粕を、昨夜食べきった天野さんよりは」


「えっ、天野あれを全部食べたのか? 今から焼いて食べようと思っていたのに」


 父親がガッカリした顔で嘆く。菜穂子の亡くなった母の実家から送って来る初しぼりの酒粕は、父の大好物だ。先日届いたものの一部を工房に持って来ていたのだが、酒と甘いもの両方がイケる天野が、全部食べてしまったらしい。


「親方、すみません。美味しかったのでつい……」


「夜中に一人で、このストーブの上で焼いていたんです。白砂糖を山ほど乗せて食べてました。僕もお相伴にあずかったんですけど、それを食べて頭が痛くなったんですよね」


「お、おまっ、麻耶! そこまでバラさなくても良いじゃないか」


「僕は粕汁にしたかったのに、天野さんが全部食べるから……」


「あー、僕も汁が良かったな」


 他の弟子も麻耶に賛同する。親方ときょうだい弟子に責められて、天野は頭を掻く。見かねた菜穂子は助け舟を出した。


「私の家に残りが有るから、明日また持ってきますね。粕汁もついでに作っておきますから、それでいい?」


「お、菜穂子、残っていたのか? 汁の他に一枚持って来てくれよ。焼いて食べたい」


「はいはい」


 呑気な父に、菜穂子は苦笑する。


 父の工房の弟子たちは新入りを入れて四人、麻耶はどうだかわからないが、古参の三人はすべてオタク系男子だ。一番の古株で、映画やアニメのオタク天野と、御当地アイドルの追っかけが二名。おっかけ二人は共に長髪に黒縁メガネで外見が似ている為に、菜穂子は密かに彼らを『ドルオタツインズ』と呼んでいる。腕の良い職人なのに、今時の男子としては残念な三人だが、気が優しい人物たちで付き合いやすい。その中に、超絶美形の麻耶が加わって……年明け早々、何やら嵐の予感の様な、落ち着かない思いが菜穂子を襲っていた。


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