第七章その5
日が暮れて辺りが暗くなると校庭で生徒のみんなは花火で遊んだり、キャンプファイヤーで囲んでフォークダンスして過ごしている頃だ。学校から一歩出た所で柴谷太一は穏やかな表情で過ぎ去った――四人で駆け抜けた青春時代の思い出に浸りながらペットボトルの紅茶を飲んでいた。
「あの頃に戻りたいとでも思ってるの? 柴谷君」
思い出に耽ってると同僚の玲子先生が同僚としてではなく、同級生だった頃の言葉で声をかけてきた。
「綾瀬さんは空っぽの青春時代のまま大人になってコンプレックスに苦しむのと、思い出に溢れた青春時代に戻りたいと苦しむの、どっちがいいと思う?」
「柴谷君は後者だと思うわ。あたしも戻れるなら戻りたい、そしてちゃんと青春してちゃんと恋がしたい」
玲子は上着のポケットからイギリスの銘柄の煙草――奇しくも太一の愛読書であるジョージ・オーウェルの小説「1984年」に登場するヴィクトリー・シガレットを取り出した所で太一は止める。
「辞めておけ、また悪用されるかもしれないぞ」
「いいじゃない敷地の外だし喫煙者としてのマナーも守ってるし」
「僕は君がその銘柄を高校の頃から愛用してるのを知ってる」
太一は遠回しに脅迫まがいな警告すると玲子は渋々ヴィクトリー・シガレットをポケットに戻す。
「はいはい、その代わりに訊きたいことがあるの。どうしてあの子たちを庇ったの? 吹奏楽部辞めたのに、復帰させなくてよかったの?」
「ああ、部活や勉強ばかりが青春じゃない。それにあの子たちはあの頃の僕たちと同じ、居場所を学校の外に見出だしたんだ……教室に居場所が無ければ教室の外に、学校に居場所が無ければ学校の外にと、より広い場所に本当の居場所があるんだと、あの子たちは改めて教えてくれた」
「まっ、私は結局学校にしか居場所がなかったからこうして一番嫌ってた仕事に就いたけどね」
玲子は苦笑しながら溜息吐き、かつての同級生と八月最後の夕暮れの空を見上げると、女子生徒が急いだ様子で走ってきた。
「柴谷先生!」
吹奏楽部一年生の栢原さんが普段の練習や昼休みには絶対に見せない輝かしく、愛らしい笑顔で大きく手を振りながら走り寄ってきて、手を取る。
「やっと見つけましたよ先生! 一緒に踊りましょう!」
栢原さんは大胆にもウィンクして腕に太一に胸を押し付けてきた。
「あの……僕、家内がいるんだけど」
太一は苦笑するが彼女は左手の薬指に光るものに目を向けると唇を噛んで、声を震えさせて絞り出すように言う。
「わかってます……でも私、今夜は柴谷先生と一緒に彗星を見上げたいんです」
「モテモテね柴谷先生、奥さんや保護者に見られたら大変よ」
玲子はニヤけながらスマホを出して構えると、栢原さんはキッとした表情になって玲子先生の前に立ち塞がり、スマホを構えて練習の時でも見せない凛とした眼差しと声を響かせる。
「撮るんですか? 撮って柴谷先生の弱みを握ろうなんてそうはさせません!」
「あらあら栢原さん、大人に盾突くつもり?」
玲子は高校の先生ではなく意地汚い大人の笑みを見せるが、栢原さんは一歩も引く様子はない。
「ええ、綾瀬先生……高校の頃、優等生でしたけど裏で喫煙してたって高森先生に言いますよ!」
「えっ? な、何で知ってるの?」
玲子は一瞬で青褪めて固まり、全身から脂汗が吹き出す。攻めるのは得意が攻められるのは弱いのは相変わらずか、仕方ないから白状しよう。
「Big brother is watching you.(ビッグ・ブラザーがあなたを見ている)」
「ぐぬぬぬぬぬ……覚えてなさいよ!」
太一は遠回しに白状すると玲子は悔しそうにスマホをポケットに押し込む、栢原さんはクルリと一八〇度回って悪戯っ子のようにウィンクして少しだけ舌を出した。
「さぁ、行きましょう柴谷先生!」
太一の手を取って走り出した教え子の将来が心配だ。
そしていよいよその時がやってきた。
彗星がよく見えるように学校の電気は一部を除いて全て消し、校庭や校舎の窓、屋上から見上げる。
朝霧光達が見上げる場所は既に決まっていた。ネットでは多くの動画サイトやSNSで実況生放送したり、世界各地で写真に上げたりしてインターネット回線がパンクするほどだった。
光はそんなこと気にも止めず屋上に上がると、何人かのグループで見上げてる生徒たちも多くいて、周囲の建物も彗星がよく見えるようになのか、電気を消してる所が目立つ。
屋上の塔屋を出て見上げながら足を止めると、光は目を見開き、口も開いて言葉を失った。
隣で見ている夏海は月明かりのように表情を輝かせる。
「凄い……彗星があんなに綺麗だなんて」
彗星は満月の夜空に魔法をかけるかのように、太く、長く、美しい尾を引いて夜空を虹色のオーロラのように輝かせていた。
冬花の提案で六人は屋上の床に仰向けになって輪を作り、頭を内側にしてお互いに手を繋ぐ。彗星の夜空見上げる光の右手から夏海、春菜、千秋、冬花、望と繋ぎ合うと、冬花は思い出を口にする。
「望君、幼稚園の頃以来だね……こうやって夜空を見上げるの」
「うん、よく覚えてるよ……冬花、あの時の約束……ちゃんと覚えてるから!」
望は懐かしそうな眼差しで告げると、冬花は少し間を置き、嬉しさのあまりに涙を流しそうな笑顔で「うん!」と頷き、春菜が興味津々で訊く。
「ええっ? どんなこと約束したの?」
「私と望君の、ひ・み・つ!」
冬花は「ニヒヒ」と笑うと望も知らないふりすると、春菜もそれ以上は詮索しなかった。
雪水冬花はみんなが抱いてるだろう、ありのままの気持ちを口にする。
「綺麗、こんな夜空をみんなで見られたの……奇跡だよ!」
一人では怖いけど、みんなと一緒なら勇気を出し、一歩ずつ足を動かせば奇跡だって起こせる! この駆け抜けた夏休みの思い出が勇気の証だ!
花崎千秋は六人で見上げることができた喜びを噛み締め、目を閉じると夏海に手を差し伸べられて友達になったあの日から、今日までの思い出が鮮明に甦る。
「奇跡……そう! 沢山の偶然と奇跡が重なって、こうしてみんなで一緒に見上げることができた……私にとって……それが一番の奇跡よ!」
そう、大好きなかけがえのない友達とみんなで見上げる。
当たり前のように思えるけど当たり前じゃない奇跡。
桜木春菜は感慨深そうに今の千秋の言葉に頷く。
「うん、みんなで泣いたり、笑ったり、喧嘩したり、怒ったり、馬鹿やったり、こうして彗星の夜を迎えられた……これがあたしたちの青春ね」
そう、あたしたちは今、青春真っ只中にいる嬉しさを噛み締めていた。
如月望は夜空に輝く彗星と、これからも続いていく幼馴染みやみんなとの物語に心を踊らせる。
「ああ、でもまだまだ終わらない――いいや、終わらせない! これからも光や夏海、春菜に千秋、そして冬花と一緒に楽しいことをやっていきたい!」
女子メンバー全員を名前で読んだが、みんな寧ろ少し嬉しそうに頷いてくれた。
風間夏海は隣で手を繋いでる優しくて、太陽の心を持った男の子の手の感触を精一杯噛み締め、嬉しさに満ちた笑みで目頭を熱くさせながら、奇跡を呼んだ彗星を目に焼き付ける。
「私、やっとわかった気がする……居場所というのは誰かに与えられるんじゃなくて、自分で探して作るものだって」
この終わりゆく夏休み前に居場所を作ろうと、手を差し伸べて恋心を寄せてくれた男の子を見つめる。
そう、あの夏の始まりの日、朝霧光は一目惚れした女の子を一緒に作ろうと声高に言った。
それからみんなでいろんな所に出かけたり、逃げたり、笑ったり、一緒に友達を励まして背中を押した。いつだって大好きな夏海ちゃんと一緒だった。
「うん、そして僕達は恋をして、こうして手を繋いでる」
光は夏海と見つめ合い、無邪気な笑みを交わす。
ふと、光は屋上で出会った塔屋からはどんな景色が見えるんだろう? 光はすぐに行動に移す。
「ねぇ、夏海ちゃん……もっと近くで彗星を見ようか」
「えっ? どうやって?」
夏海は上体起こして訊くと、光も上体起こして視線を塔屋に向ける。
「あそこ、僕たちが出会った場所だよ」
そう、六月の晴れたあの日に僕たちが出会った場所だ。左で仰いでる望は賛成する。
「名案! さっすが光だよ! いいよ二人で行ってこい!」
「うふふふふ……光君、夏海ちゃん、先越される前に行っておいで!」
冬花も胸をキュンキュンさせてるのか、満面の笑みで背中を押すと千秋も珍しく悪戯っぽく、そして仄かに赤らめながら微笑んでからかう。
「いいね。但し朝霧君、夏海……星空の下でエッチしちゃ駄目だよ!」
光はドキッとして夏海も頬を赤くしてオドオドすると、それ以上に春菜は超新星爆発寸前の恒星のように顔を真っ赤にし、両手で顔を覆って裏返った声になる。
「な、なんてこと言うのよ! 千秋の馬鹿ぁっ!!」
それでみんなが笑う、桜木さん実は凄い純情だったんだ。
幸い塔屋の上に先客はおらず、光はしゃがんで手を差し伸べて夏海の手を握って引き上げると、登校日前日のデート以来ようやく光は夏海と二人っきりになれた気がした。
「やっと……二人になれたね」
「うん、みんなのおかげでね」
夏海は下で見上げてる四人に視線を向けながら頷く、真上にはオーロラのように輝く虹色の巨大彗星。なんて美しい夜空なんだろうと見上げながら腰を下ろす、無言のままゆっくりと時間は流れる。
交わす言葉は必要なく、ただお互いの手を握り合い、同じ気持ちで彗星の夜空を見上げていた。
どれくらいの時間が経ったかわからない、夏海をゆっくりと囁くように言った。
「ねぇ光君」
「うん」
光は隣を見ると、夏海は彗星を見上げたまま訊いた。
「光君は……夏休み――ううん、夏は……好き?」
台詞の前半は躊躇いがちだった、光は勿論だと頷いた。
「うん、大好き……でも今年はもっと大好きになったよ。夏海ちゃんと出会って、みんながいてくれたから、夏海ちゃんまだ夏は嫌い?」
あの六月の晴れの日、ここで夏海は大嫌いだと大声で叫んでいた。
少しの沈黙の後、夏海は光に顔を向けて真夏の太陽のように晴れやかな笑顔で言った。
「ううん……もう一度、大好きになれたよ……光君のおかげで」
すると夏海は立ち上がり、夜空の彗星に向かって大声で叫んだ。
「私、大好きだった夏が大嫌いなっちゃったけど!! 今はもう、また夏が、夏休みが大好きになれて嬉しいいいいいいい!!」
誰かが見て聞いてる――いや、きっと望達も微笑んで聞いてるだろう。光も立ち上がって夜空に輝く彗星に向かって叫ぶ。
「俺も!! この夏が、夏休みが、そして夏海ちゃんが!! 大好きだぁぁあああああっ!!」
恥ずかしいけど凄く気持ちいい、夏海と微笑みを交わして見つめ合って光は夏海の腰に腕を回すと、少し恥ずかしそうに甘く囁いた。
「光君……また、キス……しようか」
同い年の女の子とは思えない官能的な響き、少女から女性になろうとしてる夏海の顔を見つめると、ゆっくり目閉じて光はそっと唇を近づけ、彗星が見守る夜空の下で唇を重ねた。
ほんの数秒間だったが、彗星の夜空の下で一生忘れないの思い出と柔らかい感触を胸に刻んで離すと、おでこをコツンとくっつけた。
「光君……あの時、私を見つけてくれて……好きになってくれて本当にありがとう」
「夏海ちゃんも……来年の夏も――いや、ずっと一緒に歩いていこう」
光は見つめて言うと、夏海ははにかんだ笑みで頷いて抱き合ったまま、いつまでも彗星の夜空を見上げていた。
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