第四章その6

 熊本県阿蘇郡あそぐん南小国みなみおぐに


 大分県との県境近くの南小国町。母の実家にある離れの小屋で朝霧光は蝉が鳴き、涼やかな風と共に風鈴が鳴り、渦巻の蚊取り線香の匂いが心地好く鼻をくすぐる離れの小屋で、朝から古びた手記を読み耽っていた。

 この離れの小屋は数年前に亡くなった曾祖母がひっそりと暮らしてた小屋で、大きな母屋の方は農業をしてる祖父母と町役場職員の伯父夫婦や従兄夫婦が暮らしてる。

 手記は昨日物置の掃除を手伝って出てきた物で、筆者は朝霧光雄あさぎりみつお

 光の曾祖父で大正八年八月に生まれ、昭和二〇年八月に帰らぬ人となった。

 光にとって一年で一番特別な八月に生まれ、八月に死んだ。今生きてれば一一〇歳近くになってるだろう。

 遠い昔になって行くが、絶対に忘れてはいけない時代を生きた人。

 曾祖母によれば朝霧光雄は農家の七人兄弟の長男坊として生まれ、唯一の女の子だった五つ年下の妹、光夏みつかを甘やかして溺愛する程——今で言うならシスコンと呼んで良い程の優しい兄だったという。

 高等小学校卒業後は農家として汗水を流して働く日々だった。

 ささやかな楽しみが伯父に海軍時代の話しを聞くことと、たまに上空を通過する飛行機を見上げることだったという。

 そんなある日、役場で海軍少年航空兵で後の海軍飛行予科練習生――通称:予科練の募集広告を見て受験を決意すると元海軍の伯父に話して一緒に父を説得して許してもらい、試験は一発合格だった。

 旅立ちの日、甘えん坊でわんわん泣く妹を心配しながら旅立ったという。

 昭和一一年乙種七期生として横須賀航空隊に入隊、同期には後にラバウルの魔王と呼ばれたエースパイロットの西沢広義にしざわひろよしがいた。

 予科練生として厳しい訓練の日々を送るある日、源田実げんだみのる大尉率いる九〇式艦上戦闘機三機編隊の曲芸飛行――通称:源田サーカスを見上げて志した。

 あの源田サーカスのようにいつか退役したら平和な空を自由に飛びたいと心に決めたのだ。

 予科練卒業後は戦闘機搭乗員となるための訓練を受け、晴れて当時最新鋭の零式艦上戦闘機――通称:零戦の搭乗員となる。

 予科練時代から優等生だったこともあって、第一航空戦隊に配属されて空母加賀かがに乗艦。

 加賀での生活は予科練に負けず劣らず非常に厳しく、若手だった光雄は日中戦争帰りの先輩搭乗員達からの凄まじいシゴキに堪えながら、後の日米開戦に備えて「月月火水木金金」に相応しい過酷な訓練の日々を送ったという。

 昭和一六年一一月下旬、光雄の乗った空母加賀は真珠湾に向けて出発。

 一二月六日、真珠湾攻撃の二日前、夕食時の搭乗員室では艦長から整備兵まで多くの関係者が参加した盛大な前祝いが開かれ、一同は作戦成功を祈って乾杯。

 上下関係が厳しい海軍でこの日ばかりは無礼講の宴となり、光雄は日頃の仕返しと言わんばかりに先輩搭乗員や分隊長の志賀淑雄しがよしお大尉にビールを正面からぶっかけ、殴られながらも度胸を褒められたのが自慢だという。


 一二月八日の朝、全ての終わりの始まりである真珠湾攻撃、光はそこから食事も摂らずノンストップで読み続けた。


 真珠湾では自分を使える搭乗員になれるよう、厳しくも可愛がってくれた先輩搭乗員が戦死。

 更に見事な魚雷攻撃を決めた直後、対空放火を被弾して光雄が必死で通じない無線電話機で「諦めるな! 頑張れ!」と叫んだが、帰還を諦め、三人の荒くれ者の搭乗員が穏やかな笑みで敬礼して自爆した九六式艦上攻撃機。

 南方作戦を経て母艦の加賀が沈み、改めて戦いの厳しさと悔しさを痛感したミッドウェー海戦。

 敗戦隠蔽のためしばらく鹿児島に軟禁された後、ニューギニア島の片隅にあるラバウルに配属された。

 ポートモレスビーの戦いや櫛の歯が欠けていくように空中戦の名人と呼ばれた熟練搭乗員達が次々と死んで行ったガダルカナル島の戦い。

 この辺りで二一型から二二型を経て五二型に乗り換えたが、光雄としては二一型の方がいいかなと思っていて、それは他の古参搭乗員も同じようなことを言ってたという。

 戦局が悪化した昭和一九年、空母瑞鶴ずいかくの艦載機搭乗員として参加したマリアナ沖海戦。

 この頃に後輩から教わった「若鷲の歌」に嵌まり、暇さえあれば口ずさんでいたという。

 激戦で損傷した母艦修理のため、一度内地に帰還して休暇を貰い、里帰りすると幼馴染みで、あづちゃんと呼んでいた曾祖母の杏月あづきと結婚、短い結婚生活だったが久し振りに心の底からの安らぎと、自分の守るべきものを実感したという。

 そして同年一〇月二〇日から始まった史上最大の海戦――レイテ沖海戦に参加し、二五日のエンガノ岬沖海戦で母艦の瑞鶴が撃沈、ミッドウェーでの悔しさを二度も味わうことになった。


 光は持参したタブレットPCでその辺りの出来事を照合すると、全身の肌が泡立って戦慄した。以前から水面下で計画が進んでいた作戦のため、敷島隊、朝日隊、大和隊、山桜隊が編成された。

 それは、飛行機に爆弾を抱えたまま搭乗員もろとも敵艦に体当たりする神風しんぷう特別攻撃隊――通称:特攻隊が編成され、日本軍が狂気と破滅の扉を開けた日だった。


 レイテ沖海戦から命からがら生還した光雄は治療のため内地に帰還、この時に同期で「ラバウルの魔王」と呼ばれた西沢広義が戦死したことを知った。

 光雄は治療を終えると、上官から特攻に志願するか否かの話しを持ち掛けられる。

 この頃になると当時最新鋭の大型爆撃機B29がマリアナ諸島から飛来しては日本各地の都市を火の海にし、特に昭和二〇年三月一〇日の東京大空襲では一夜で一〇万人以上の命が奪われたという。

 昭和一九年末に治療を終えると逡巡の末に光雄は自分が行かないなら誰が行くんだ、と特攻に志願した。

 しかし、日中戦争どころか真珠湾から生き残ってる搭乗員は殆ど残っておらず、経験豊富な凄腕搭乗員だった光雄は横須賀で日本海軍最後の精鋭部隊――三四三海軍航空隊に配属される。

 そこで真珠湾時代の上官で飛行長となった志賀淑雄少佐と再会し、更に戦闘機搭乗員を志すきっかけとなった源田実大佐とも出会う。

 光雄は零戦五二型から局地戦闘機紫電改に乗り換え、感服した。

 この紫電改なら零戦の後を継げると高揚し、絶対に乗りこなしてみせると腹に決めたという。

 光雄は三四三航空隊はラバウル以来の猛者の巣窟だと感じ、自分より歳も経験も下なのに腕のいい後輩達――特に杉田庄一すぎたしょういちや、まだまだ未熟だったが将来有望な笠井智一かさいともかずに暴れん坊の海軍士官菅野直かんのなおしを頼もしく思ったが、ラバウル時代の先輩である坂井三郎さかいさぶろうとの仲が険悪で心を痛めていたという。


 三四三航空隊配属後は本土防空のため西日本各地を転戦した。


 昭和二〇年四月六日~六月二二日まで行われた菊水作戦では出撃のたびに自分よりも若い、まだ頬の赤いあどけさを残す一〇代後半の少年達を二度と帰らない空に旅立ち、そして南の海で死んで行くのを見送る日々だったという。

 そして三四三航空隊も次々と熟練搭乗員や凄腕も戦死し、帝国海軍上層部はラバウルの頃から全く変わってないと痛感。

 光雄も日に日に精神を摩耗していき、若鷲達――伸び代のある後輩や特攻に行った少年達が平和な空を飛べたらと思うと、胸が締め付けられるような気持ちだったという。


 手記は八月七日で途切れていた、B29に自爆特攻で亡くなったとは聞いていたがどのようにして死んだのかはわからない。

 読んでる間に撃墜数を数えてみたが、単独で確実なのは二〇機で不確実を入れると一〇〇機近く、手記によると昭和二〇年八月の時点で共同撃墜を入れると四〇機くらいだと書いていた。

 すると祖父が母屋に入ってきた。

「光、晩御飯できたばい」

「うん、片付けたら行くよ」

 光は何冊もの手記を置いてあった場所に戻し、ゴム草履を履いて離れを出て母屋に上がり、祖父母と伯父さん夫婦や従兄夫婦と、両親の大所帯で夕食を食べる。

 テレビを見ると、小さい頃に比べてあまり特集しなくなった太平洋戦争の映像が流れてる。

 両親と伯父・従兄夫婦に祖父母は世間話に花を咲かせ、光は熱心にテレビを見ていた。

 あの戦争を生き抜いた人々はもう殆ど残っておらず、インタビュー映像も以前取材したもののアーカイブ映像だった。

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