ミルセット報告書

中学12年生

第1話

 地球に潜伏して10年。これまで、あらゆる角度から地球人を観察し、彼らの謎を解明してきたこの報告書は遂に最終回を迎えようとしている。今まで私の正体がバレることなく、このミッションを完遂する間近まで迫ることができたことはまさしく奇跡と言って良い。


 さて、最近新たに地球人たちは認識を改変した。今回は、コミュニケーションに関することのようだ。どうやらインターネットの出現と匿名性の普及に端を発するこの変化は人々と彼らの価値判断に多大な影響を与えた。


 そこで、このミルセット報告書ではそれらの因果関係と現実世界においてその変化がどのような影響を及ぼしているかについての議論を展開する。分かりやすくするために二項対立で論じていくが、これはあまりにも単純で安易な図式なので、興味のある諸君には、自分の目で地球人を観察してみることを勧めておきたい。


 では、早速本題に入ろう。彼ら地球人のコミュニケーション観の変化として、まず押さえておかなければならないことは、彼らが常に集団と会話し時に戦っているということである。そしてその根本原因は、インターネットの存在に由来する。

 今、あなたが自分と異なる価値観を持つ人の書き込みを見たとしよう。例えば、自分が好きな映画に対して「嫌いだ」という類のものだ。この時、従来であれば"この人はこの映画を好きではない"というその人に関する知識として、その意見は自然と吸収されていた。


 しかし、匿名性において、「この映画が嫌いだ」というコメントが指し示すものは、少なくとも1人以上この映画の魅力を解しない人がいるのだというただの情報、いわばデータの1つである。こうして、人々は"少なくとも自分と違う意見の人が1人以上いる"というデータから会話を出発させるようになった。つまり、会話というのは人対人の図式ではなく、人対集団という図式で捉えられることとなったのである。


 このコミュニケーション観は地球人の中で既に浸透しきっている。したがって、彼らの行動や感覚の変化をこの変化を元に論じることに妥当性を見出せる。議論を円滑にするために、変化する前と後での会話観に名称をつけておこう。まず、人対人の図式で行われる会話を「交渉型会話」と名付け、人対集団で行われる会話を「演説型会話」と呼ぶことにしよう。そして次からは、1つ1つ彼らの思考を紐解いて行こう。


1、自らの価値


 交渉型会話の文脈では、自らの価値は相手との会話の中で徐々に確かめられていく。

 演説型会話の文脈では、自らの価値は実際のそれよりもはるかに底上げされている。


 なぜなら、交渉型会話の中では、自分の言葉は他人に向けられたものであり、同様に相手の言葉も自分に向けられたものであるから、そこには保たなければならない謙虚な姿勢と言葉選びの一線が常にある。したがって、自分の意見として稚拙なものを言うわけにはいかないのである。

  一方、演説型会話の中では、自分の言葉は相手の集団に向けられたものである。その集団には、わずかではあるが自分より思考の段階が低いものがほぼ必ず存在する。したがって、自分の意見がいかに稚拙なものであっても、相手集団の一部には有益である可能性が常に存在する。したがって、その可能性が知覚される限りにおいて、演説型会話の文脈では自らの価値は常に底上げされているのだ。


 こうして人々から謙虚な姿勢は忘れ去られ、不遜な言説が幅を利かすこととなった。今なおその姿勢を身につけているのは、盲目的に社会規範に従っている地球人か、あるいは集団を背負っている人のみである。そして後者には常に余計なプレッシャーがかけられ、それが不幸を招き、逆に論理的な会話ができなくなることがある。自分の集団を何としても守らなければならないとして、そのプレッシャーに押しつぶされ、支離滅裂な発言をするようになるのだ。


 そうなると、その集団はリーダーを失ったことで、権威を失い蔑視の対象となる。その集団が支持していた意見自体も同様の扱いを受け、勢力を削がれる。

 リーダーからしてみれば、今まで自分が命をかけて守った集団の構成員から少しの同情もなく裏切られるのである。つまり、人々の間にある信頼関係は徐々に崩壊していったと言える。


 このようにして、演説型会話の文脈で相手を打ち負かしたいのであれば相手集団のトップに人格攻撃をすれば良いのだ、という共通認識が生まれる。こうして地球人の心の底から健全な会話というものが消滅した。


2、被害妄想


 交渉型会話の文脈では、自分と異なる他者は健全な刺激となる。

 演説型会話の文脈では、自分と異なる他者は残酷な刃となる。


 演説型会話をしている人は、常に集団と戦っているのだ。したがって、相手の意見にいちいち耳を傾けていたらキリがない。自分の反論さえ遮られることになりかねない。それを避けるために演説型会話の中では、人々は自分の意見を押し付けるようになる。こうして、他集団の人間は仲間ではない=敵と認識されるようになる。


 そうなると、ある地球人が他集団のメンバーと出会った時、そこにあるのは自分の集団の存在意義を脅かされるかもしれないという不安である。それを退けるために、相手を支える相手集団の存在意義を消し去ろうとする。つまり、演説型会話をする地球人は常に被害妄想に取り憑かれている。


 だから、昨今の地球人は愛を全く軽視している。少しでも犯罪を犯した者がいれば、その原因を遡ることなく、すぐに敵認定して徹底的に排除する。もちろん、その犯罪者を支える家族や仲間も道連れだ。こうして、人々は法律に過大な信頼を預け、愛を侮蔑することによって、自らの不安を一時的に消し去ろうとするのだ。


 こうして、相手の意見を聞き、そしてそれに反論し、相手の再反論に耳を傾けるという段階的なプロセスは消えていった。今行われているのは、自分の意見のみを主張し、それに対する反論には目もくれないというコミュニケーションのみである。


 そうなると、当然大衆の議論のレベルは落ちる。そして、民主主義は大衆迎合主義と切っても切れない関係となった。だから、もはや地球人の間で民主主義が正しい判断を下すようになることは無いと言って良い。


3、正義


 交渉型会話の文脈では、正義は形而上学的世界にある。

 演説型会話の文脈では、正義は形而下学的世界にある。


 演説型会話のする地球人は、表面的には一種のダブルスタンダードを用いている。主張するときは、対集団モデルで攻撃的に行い、反論されるときは相手の対集団モデルを用い、再反論を行わない。つまり、相手は自分にではなく、自分の集団に対して反論をしているのだから、自分が再反論する必要はないと感じられるのである。


 したがって、自らの正しさを強調したい彼らは反論ではなくいくつもの主張を展開するようになる。それは常に集団に対して自分1人が行うものであるから、彼らからしてみれば、自分は救われるべき弱者である。こうして、彼らはそんな可哀想な自分が敵を打ち負かし、それに快感を覚えることに正義があると直感するようになる。


 こうして、人々はかくも正義を俗世的な次元に引き下げ、自らのものとしてその概念を拝借するようになった。そして、その俗世的な正義の根拠は当然俗世的なもの、例えば法やモラル等になる。因果関係を遡れば、あらゆる法律はなんらかのパラダイムに乗っているのであるが、彼らはそのことを知覚しない。ゆえに、盲目的にそれらに従い「なぜ、法律を守るのか?」という問いに対して「それが法律だから」などという論法しか人間社会では歓迎されなくなった。

 

4、承認欲求


 交渉的会話の文脈では承認欲求は他者の存在によって満たされるものである。

 演説型会話の文脈では承認欲求は自分の存在によって満たすことができる。


 対集団でものを考える地球人にとって、自分のアイデンティティの拠り所は自らが所属する集団の存在に他ならない。したがって、彼らは自分の承認欲求を集団に訴えて満たそうとする。


 それは、例えばSNSでの過剰な呟きとして現れる。彼らはなぜあんなにも自分の思いを赤裸々に綴り続けるのか。それは自分が所属して良い集団を探し、自分の分身のような仲間(これも実際にはデータに他ならないが)に訴えているのだ。


 常に自分より強大な集団をいくつも相手にしている彼らからすれば、その行為はもはや自分の存在意義を確認することにすらなり得る。ゆえに、彼らは自分でものを考えることをしなくなり、他者の排除に積極的な仲間をひたすら見つめ続けることによって自らの思考段階を上げていくことになる。つまり、自分と同種の人々を見続けることで、賢くなった気に成れてしまうのである。


 こうして本来他者からの承認によって満たされるはずの承認欲求は、自己完結型のものとなった。つまり、他者に対してそれを求めることがなくなった。ゆえに、人々は何らかの集団に形式上は所属していながら、実際には孤立しているといって良いだろう。


5、努力と才能


 交渉型会話の文脈では、才能の存在を認めつつ、努力は決して怠ってはならないものである。

 演説型会話の文脈では、才能の存在を一度認めてしまえば、努力の必要性を完全に抹消することができる。


 演説型会話の文脈では、自分に対して努力を強いるということは、自分と同レベルの「仲間」に対してもそれを強いるということであり、それはいかにも理不尽で無理筋なことと感じられる。その結果「あんな言い回しでは誤解する人が出てくるのも当然では?」と言った、愚かな自分に優しい言説を人々は支持し始める。つまり、努力を怠った自分ではなく、「無理な努力」を自分たちに強いる凶悪な彼らが悪いのだという認識が生まれる。そして、そんな地球人たちにとっては、努力を強いる他者は自分の仲間たちを脅かし、その結果自分のアイデンティティすらも脅かす存在であるから、彼らを排除することは社会正義に匹敵すると思われるようになる。


 一方、才能という先天的な要素について、彼らは非常に楽観している。努力の必要性を排除した彼らにとって、あらゆる能力の差異は先天的あるいは後天的にでも幼い頃の経験に由来するものであり、したがって、それらはもはや不変のものと知覚される。ゆえに、恣意的に定められた階級を彼らは普遍的な差だと考え、自分の愚かさ、努力の必要性を排除した自分自身を正当化するために、その才能による階級に異常に固執する。


 つまり、地球人はもはや才能という概念をこれ以上ないほど敷衍し、それに自分を委ねている。したがって、彼らにとっての優先課題は「いかに自分の能力を増加させるか」ではなく「いかに自分の才能を発掘するか」にシフトし、その結果、彼らは自分のアイデンティティを熱心に発掘しようとして、さらに自分をなんらかの集団の中へと沈めていく。悪循環だ。この無限ループに陥っている限り、彼ら地球人が進歩することなどありえない。


6、結論


 彼ら地球人の平均的な知性は、ここ10年で大幅に低下したと言って良いだろう。対集団モデルで行われる会話、つまり自分と他者との意見交換の中で、彼らは認識を歪め攻撃的になっていった。裏を返せば、どんな媒体を使っていても、どんな議論のテーマであろうと、相手は自分と同じ人間であると認識し続けることが、昨今の地球人に求められている知性であり、倫理である。しかし、彼らはもはやそのことを認識しない。つまり、常に集団というデータと戦い続け、集団というデータと共に生きるのであろう。彼らは誰が敵で誰が味方かを判別するために、好んでレッテルを貼っていく。そして文脈を無視した引用や概念の拝借を恥とも思わない。そんな行為が横行することによって、事実は捻じ曲げられていく。もし、諸君が彼らを救いたいのであれば、一刻も早く対人コミュニケーションの必要性を訴える他ない。しかし、そんな救世主は私が見たところ、当分現れることはなさそうである。

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