410話 人間と雲泥子

「私は今、雫のこころに話しかけている。そうだな、雫は夢を見ている状態に近い」

 

 夢と言われても実感がない。試しに頬をつねってみた。ちゃんと痛い。

 

 つねった場所を撫でていたら、ハビーさんに変な目で見られていた。そういえば夢の割には温度も感じた。ハビーさんの手はしっかりした温かさがあった。

 

「夢と言われても、全然そんな感じはしないですね」

「まぁ、個人差はあるだろうがあくまでも『夢に近い』だ。全く同じというわけではないだろうな」

 

 からだは寝ているとでも理解すれば良いか。深く考えても答えは出ないだろうから、それ以上は質問しなかった。

 

「それで、どうしてハビーさんが僕の中にいるんですか?」

 

 大事なのはそこだ。何故、のべるの母上が僕の中にいて僕に話しかけてくるのか。

 

「娘のからだから流れてきたのだ。私は今、娘の理力の一部に過ぎない。魂繋のための理力交換の際に……」

「待って待って」

 

 両手を開いてハビーさんの言葉を遮った。

 

 何だか聞き流してはいけないことを聞いた気がする。

 

「ハビーさんは演の理力の一部なんですか?」

「そうだ。……やはり雫は知らないか。魂繋の前に娘のことを知る必要がある」

 

 ハビーさんは何もないところに、まるで椅子がある格好で座った。僕も薦められるままに同じような姿勢を取った。何となく体重を預けても大丈夫な椅子があるような……ないような……。

 

 あると信じて体重を預けた。幸い無様にひっくり返ることはなかった。

 

「私は夫であるゆりに自分の魂ごと理力を託したのだ。娘が私の理力を受け継ぐ際に、魂も継いでしまったのだろうな」

 

 僕の父上も母上に理力の大半を託してから王館の地下に籠ったみたいだから、それと同じようなことだろう。でも魂ごととなると預かる方もなかなか大変だ。

 

「それに私だけではない。この者たちもだ」

 

 ハビーさんは両手を持ち上げて、顔の横でくるくると振った。集中してじっと観察すると、光だと思っていたのは無数の魂の集まりだった。

 

 ここで目覚めたときに、たくさんの理力が近づいてきたように感じたのは、このせいだったのか。

 

「我が夫・ゆりを含む十二人の精霊が水の星から独立した世を作ると言うので、多くの精霊がそれに従ったのだ。だが、本体を失くした者、改変されてしまった者は精霊界に来られなくてな」

 

 天地開闢てんちかいびゃくの話だ。僕はただ愛する方と魂繋をして、救いたかっただけなのに、どうして話がそこまで遡ることに……。


「改変された者は自我を失い、私たちではどうすることもできなかった。だが、本体を失くした者は、魂だけを私のからだに取り込んだのだ」

 

 自分のからだに魂をいくつも取り込むとは俄には信じ難い。自分の意識が乗っ取られたり、壊されたりしないのだろうか。

 

「ハビーさんはそれで大丈夫だったんですか?」

「私は名の通りはびこる者だ。本体は広げることも増やすことも出来る。削ることは出来ないがな」

 

 のべるみたいだ。いや、逆か。のべるがハビーさんに似ているのだ。

 

「その分、持てる理力も余裕がある。それで本体を失った者たちを私のからだに集め、拠り所としたのだ。勿論、それを良しとしない精霊たちも多くいたがな」

 

 きっと漣先生の日記にあったらいさんや九良くらさんだ。確か、雲泥子に気を付けろと忠告を受けていた。雲泥子は魂を集めていて、それを追っていった人間がいた、と。

 

「だが、そうしなければ彼らは人間を襲っていたかもしれない」

「いわゆる魄失はくなしですね」

「ハクナシ? それは何だ? 梨の一種か?」

 

 通じなかった。認識のズレがあるみたいだ。演の中にいたといっても、演を通して世界を見ていたわけではないらしい。

 

「私は人間が好きだ。雲泥子ウンディーネという種族は少し特殊でな。人間と魂繋出来るのだ」

「人間と魂繋!?」

 

 大きな声が出た。ハビーさんの周りが点滅していた。僕の声に驚いたに違いない。

 

「そうだ。人間の場合、魂繋とは言わないが……雲泥子ウンディーネは人間と魂繋をすると自らも人間になるのだ。そうやって人間化した仲間がかつては何人もいた」

「そ、そうなんですか」

 

 身近な例でいうと何だろう。水棲馬ケルピー海豹人セルキーが魂繋?

 

 かちわたさんが海豹人の群れに、もみくちゃにされている様子が浮かんだ。


「人間となった後は短い寿命を生きることになるが、配偶者や子を得て、皆幸せそうではあったな」

「へ、へぇ……ハビーさんは人間と魂繋しようとは思わなかったんですか?」

 

 ハビーさんは顎に手を当てて少しだけ考える素振りをした。でも素振りだけで、もう答えは決まっている顔だ。

 

「それはないな。私は人間として同じときを過ごすよりも、死ぬまで見守っていたいと思うぞ」

 

 ハビーさんにとって人間は配偶者になり得ないらしい。


「若い頃は人間から学ぶことが多かったが、その後は人間に加護を与え、共に生きてきた。だから人間が精霊の存在を無視するようになっても、精霊が人間を襲うことは避けたかった」

 

 ハビーさんは優しい顔をしていた。のべるが僕を見るときの顔だ。本当に人間が好きなのだろう。


「どうして人間が好きなんですか?」

「変わるからだ」

 

 ハビーさんは考えることも迷うこともなく答えた。

 

「私たち精霊は性質が変わらないだろう?だが、人間は学んだり、反省したりすることでガラリと変わる。見ていて面白いものだ」

「はぁ……」

 

 僕が接した人間といえば、私欲のために精霊界に入ってきた者たちだ。ほとんど魄失化していたし、体は精霊界に馴染まず、腐敗して凄まじいことになっていた。

 

 人間に対して好印象を持てていない。もしかしたら、それは沌に人間たちが唆されたからかもしれないけど、今のところ良いイメージを持てていない。


「例えばそうだな。水精は水の中で溺れるなんてことはないだろう? 人間は泳げる者と泳げない者がいる。大抵泳げない者は水が嫌いだ」

「へぇ……」

 

 水精に対して水が嫌いだと言われても、好印象どころか悪印象だ。生ぬるい返事しか出てこなかった。


「しかし、それが努力して泳げるようになると次第に水が好きになる。不思議だろう? 火精が努力して水を好きになることがあるか?」

 

 ない。それはない。ブンブンと首を横に振った。

 

 焱さんが泳ぎの練習をしている姿をちょっとだけ想像してしまった。浮き輪姿が似合わなさすぎる。


「それが人間の面白いところだな」

 

 ハビーさんは歯を見せて笑ったあと、悲しそうな顔をした。口許だけは笑みの形のままだった。


「尤も、人間と契約していたのは私で最後だ。その人間も最期まで見届けることなく、加護の契約を破棄することになってしまった」

 

 ハビーさんの目は闇の向こうの過去を見ているようだった。

 

 その人間を僕は恐らく知っている。

 

「それが……カオスですか?」


 僕の言葉はハビーさんの視線を勢いよく引き戻した。

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