398話 水太子と澗
「澗さん。お久しぶりで……」
「淼さま、止まってください!」
軽く手をあげながら近寄ろうとしたら澗さんが慌てていた。尋常ではない様子に、言われた通りその場で足を止めた。
「どうしました?」
言葉と共に吐き出した自分の息で、目の前が白く曇った。また壁が見えていなかった。せめて自分の姿が映れば分かったかもしれないけど、光の通過も完璧すぎて反射されないらしい。
「触れてはいませんよね。お怪我はありませんか?」
「大丈夫ですけど……」
澗さんが壁のギリギリまで近づいてきた。声が遮られていないのも不思議だ。
「良かった。触れたら名も
……例のアレの仲間入りか。
あまり嬉しくない。この壁は結界と罠を兼ねている類いのものなのだろう。
「とまぁ、それは冗談ですが」
「冗談!?」
つい本気にしてしまった。
「はい、冗談です。でも、あのまま進んでいたら手が壁にくっついていましたよ。凍傷を起こしてしまいます、しかも重度の」
水太子が凍傷など恥ずかしい話だ。氷之大陸での出来事が情報として漏れれば、の話だけど。
「ご忠告ありがとうございます」
「いえいえ」
以前に会ったときは短時間だったから分からなかったけど、元々こういう冗談を言う方なのだろうか。
澗さんは人の良さそうな笑みを浮かべて楽しそうにしていた。
「淼さま、以前仰ったでしょう。『仲良くしてくれると嬉しい』と」
言った。確かに言った。立太子の儀の後だ。残った澗さんに対して、『今後、仲良くしてほしい』と言ったことを覚えている。すぐに断られてショックを受けたこともよく覚えている。
あのときはショックだったけど、氷之大陸の事情を考えれば理解できる。今後、会うことはほぼないと澗さんは言っていたけど、こんなに早く再会するとは思っていなかった。
「本当に、
「おかげさまで」
そういうことはわざわざ確認するものではないと思う。そう告げたわけではないけど、澗さんはやや複雑な顔をしていた。
「申し訳ありません。
「いや、別にそんなことは……仲好くなれて嬉しいです」
澗さんの表情がパッと明るくなった。仲良くなる作法があるなら僕が教えてほしい。大体、仲良くの定義は何だ?
「二度以上会った他人は初めてかもしれません」
澗さんはやや興奮気味だ。澗さんの中では、二度以上会ったら仲良くしてもいいという独自の
それとも幽閉中だから誰かに会えるのが嬉しいだけか。
「澗さん。あの、えーと仲良くなれたところで、色々聞いていいですか?」
「どうぞ、何でも」
澗さんはちょっと目を細めていた。ベルさまの瞳とはあまり似ていない。あまりどころか、かなり違うけど、でも優しい目だ。真っ黒で柔らかく包まれている気持ちになってくる。
きっとこういう視線が弟を見るような目というのだろう。美蛇が僕を見るとき、慈しんでくれたように思っていたけど、その目付きとは全然違う。僕が美蛇が優しいと勝手に勘違いしていただけだ。美蛇とは違って、澗さんの目には何の濁りもなかった。
「淼さま?」
「澗さん、あの……」
チラッと澗さんの奥を覗いたら、鉄格子が嵌めてあって、澗さんが幽閉されている身なのだと改めて感じさせた。
僕がいる側には鉄格子こそないけど、似たようなものだろう。
「御上の真名って何ですか?」
「え、いきなりですか」
弾む会話の中で唐突に本題を切り出した。それを聞く前に、澗さんがどうしてここにいるのかとか、逆にどうして僕がここにいるのかとか、話すことはたくさんあるけど、それはひとまず置いておく。
「御上が危篤なんです。だから魂繋したいんですけど、愛称しか知らなくて
「すみません、淼さま。情報が多過ぎて、私の愚鈍な頭では処理が出来ないのですが」
澗さんは眉を少し下げて困った顔をしている。説明を端折りすぎて、一気に捲し立てたせいだろう。でも急いで帰らないといけない。
「何も聞かずに黙ってベルさまの真名を教えてください!」
「無茶を言わないでください。黙っていたら言えないでしょう」
そっちか。
澗さんって案外天然なのかもしれない。
「とまぁ、冗談はともかく」
また冗談か。余程冗談が好きなのか。それとも僕がからかわれているだけなのか。
「冗談言わないで教えてください。お願いしま
す」
「色々事情がありそうですが、とりあえず危篤の理由は聞きません。理由を聞いたところで事実は変わらないでしょうから。なので、魂繋のことだけ詳しく教えていただけませんか?」
澗さんは興奮した弟を宥めるみたいに、ゆっくりとした声で言った。壁がなかったら頭でも撫でてきそうな雰囲気だ。
「
玄武伯のように怒っているわけではない。ただ確認をされているだけだ。
「大きな戦いがあったんです。それが終わったら、魂繋しようって言ってて……理王の婚姻用の旗も作るって……ベルさまのこと……」
「あぁ、泣かないでください。別に責めているわけではありません」
澗さんに言われるまで泣いていることに気づかなかった。泣くのは父上の仕事だと母上に叱られそうだ。
「自分が情けない……」
袖口で目元を拭った。刺繍がびっしりと施された固い袖は思ったよりも痛かった。
「ベルさまのために何も出来ない……」
「そんなことありませんよ。こうして
「でも、役に立ってない。真名も分からないまま足止めされて……こうしている間にもベルさまが……ベルさまに何かあったらどうしようかと……」
僕がそういうと澗さんは僕から少し距離を取った。
「ふむ。……淼さま、失礼を承知で申し上げますが、御上が理王という立場だから、魂繋を狙っているのでは?」
「……は?」
澗さんは真面目な顔で顎に手を当てていた。冗談を言っているわけではなさそうだ。
「あなたは王太子だ。でも理王という立場を配偶者に迎えれば磐石だ。それを狙っているのではありませんか?」
「何を言って……」
急に突き放された気分になった。何故、突然そんなことを言われるのか、理解できない。
「そうすれば、いずれあなたが即位なさるときも、あなたの息のかかった者を太子に選ぶことができますね」
澗さんの目は冷たい視線に変わっていた。
「これくらいのこと、
「理王なんて関係ない!」
あまりの言いぐさにカッとなった。ベルさまが理王だから魂繋したいなんて、ひどい言いようだ。
「僕はベルさまが理王じゃなかったら出会えていないけど……ベルさまが理王であるかどうかなんて関係ないんです! 理王のベルさまじゃなくて、
僕が捲し立てると澗さんは顎から手を外した。
「その意気です。それを
澗さんは先ほどうって変わって、人の悪そうな笑みを浮かべていた。
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