372話 既視感

 夜空に玉座が見えた……気がする。白み始めた空はベルさまの威厳に添えた後光のようだ。

 

 ベルさまの威圧は僕でも肌がビリビリした。冷たい風に顔を撫でられつつ、太陽にジリジリと焼かれた感じだ。

 

 息苦しさを感じるほどだった。ベルさまに息をするなと言われたら、間違いなく従ってしまう。

 

 潟でさえ既に雲の上で跪いている。多分、条件反射的な行動だ。高位の潟でさえこうなのだから、火精がここにいなくて良かったと心底思う。


「私に……死ね、と……?」

「二度も言う気はない」

 

 いつもよりも低い声だ。

 

 ベルさまの内側から溢れる威厳は分厚い壁のようで、逃げようにも逃げられない。

 

 あり得ない話だけど、ベルさまが敵でなくて良かったと心底思う。理術が効くとか効かないとか、まぬがに判断している余裕はないだろう。

 

 現実的にも、精神的にも。


雲泥子ウンディーネが、そんなことを言うはずがない。私を守護する雲泥子ウンディーネが……そんなはずは……」


 雲泥子ウンディーネまぬがに加護を与えていたというのも事実だったようだ。

 

 ベルさまの母上を悪く言うつもりはない。でも雲泥子ウンディーネが、どうしてこんな奴に加護を与えたのか理解できない。

 

 免の望むように雲泥子ウンディーネが復活して対面できたとしたら……きっと長時間問い詰めていただろう。


「わ……たしは………自害など、しない」

 

 山をスッポリと包む竜巻に怯んだのか。それともただ現実を受け入れたくないだけか。免の声は途切れ途切れで小さかった。


「まぁ、そうでしょうね。ここまで騒がせておいて自害であっさり解決するわけありません。私としてはもっと屈辱を味わってほしいところですね」

 

 潟が跪いたまま述べた。話すことはできても、立ち上がることは出来ないらしい。それだけベルさまの威力が凄まじいということだ。

 

 潟の額から汗が一筋流れ落ちていった。左手で汗を拭っている。右手には僕が引きちぎった免の右腕を握っていた。


「……私はなんのために……こんな…………理力集めを……」

「何のため? 自分のためだろう? まさか雲泥子ウンディーネのためだ、などと戯れを言うつもりではないだろうな」

 

 ベルさまの即答が免の心にグサグサとダメージを与えていく。

 

 僕も既に似たようなことを言っていた。雲泥子ウンディーネが復活したいと頼んだのか、と。


 免が下を向き、顔を両手で覆った。

 灰色の帽子が落ちると、髪が真っ白になっていた。

 

 奥都城が不規則に揺れている。免が顔を両手から浮かせると、灰色の瞳が消えていた。

 

「……カオスか」

 

 ベルさまが呟いた。まぬがの仮面が外れて、カオス本来の姿を現したらしい。瞳のない目はどこを見ているか分からなくて不気味だ。

  

雲泥子ウンディーネが手に入らないなら……こんな世界、無駄です!」


 奥都城がぼんやりとした光を溜め始めた。

 

「原則よ、命じる者は、カオスの名……『無理ノールール』!」

 

 詠唱が予想外に短かった。

 

 奥都城おくつきから熱光が放たれた。四方八方という言葉だけでは足りない。細く枝分かれした光は、地上へ向かって無差別に放たれている。

 

 熱光はすぐに収まったけれど、そこから異変が始まった。

 

「海が……」

 

 潟が頭を抱えながら呆然としていた。口を薄く開いたままだ。ここから海は見えない。でも感じ取ることは出来る。

 

 海が固まっていた。

 青い海も白い波も感じ取れない。凍っているわけでもなく、無機質な固形になってしまったようだ。

 

 沾北海では海豹人セルキーが固くなる海から逃げていた。陸に上がった者は、逃げ遅れて固まった仲間を助けようとしていた。

 

 温泉は熱湯の代わりに冷たい水を噴き出していた。氷のような冷たい水が火山に広がり、突然の寒さに貴燈は震えていた。

 

 川は蛇行して勢いを増し、山を突き破った。月代連山へ浸入した川は縦横無尽に暴れまわっている。月代に残った低位精霊は逃げることも出来ず、ただ濡れていて、溺れないよう岩場にしがみついていた。

 

 花茨では水が干上がっていた。急激に水分が奪われて地面にヒビが入っている。移植されたかんば伯の木が、水を求めて喘いでいる。

 

 今手川、今指川、福増川は逆流どころか、空に向かって水を散布させていた。


 そして、華龍河は……燃えていた。

 

 水が火に強いという根本的なルールを無視して、火が水を焼いている。

 

 まるで油を撒かれたみたいだ。炎が広がり、岸まで届いている。火は川面を伝って支流に伸びようとしている。

 

「母上……」


 火が広がるのを母上が必死に止めようとしていた。

 

「ひどい有り様だな」

「流没闘争を思い出します」

 

 ベルさまも潟も眉を寄せていた。

 

雲泥子ウンディーネ……私の雲泥子ウンディーネ……こんな世界が作られなければ、私の元から去ることはなかった……」

 

 カオスはまだ諦めていなかった。雲泥子ウンディーネ縋るように、ベルさまに向かって手を伸ばした。

 

「ふむ」

 

 ベルさまは顎に軽く手を当てて少し考える素振りをしている。

 

 脳裏に嫌な光景が浮かんだ。

 

 地獄タルタロスで見た光景。

 迎えるように手を広げるまぬが……改めカオス

 そこに歩み寄るベルさま。

 

 そしてボロボロの僕。目の横に指を這わせると爪の間が黒くなった。血が黒く固まっているところまで同じだ。

 

 ベルさまが行くわけない。これだけ相手を全否定しているのだ。カオスの元へ行くわけがない。

 

 そう確信しているのに、ベルさまが一歩踏み出しただけで、ドキリとした。

 

「往生際が悪いぞ、カオス。まぁ……だが、ひとつの案を掲示しよう」

 

 ゴォゴォという竜巻の音が耳の近くで鳴っている。でもベルさまの声は遮られることなく、聞こえている。不思議な感覚だ。そんなに大きな声ではないのに、一言一言が全世界に浸透しているようだ。

 

「濡ヶ沼・カオス。精霊界と余……いや、私の愛する者に手を出さないというのであれば、お前と共に行っても良い」

 

 ベルさまが言っていることを理解するのに、時間がかかった。思わずベルさまを二度見してしまった。


 僕はさぞ間抜けな顔をしていたに違いない。じっとベルさまを見ても決して目が合わない。ベルさまはこちらを見ようともしなかった。

 

 一方、カオスは僕とは対照的だ。救われたと言わんばかりに、感極まった表情を浮かべていた。

 

「まぁ、私は雲泥子ウンディーネではないがな」  

「あなたが来てくれるなら、なんでもしましょう! いや、何もしない! この世界のもの全てに手出しはしない!」


 カオスはこれ以上ないくらい目を見開いて、薄ら笑いを浮かべていた。端正な顔のバランスが崩れている。


 ベルさまがカオスに向かって歩を進めた。一歩一歩とじれったくなるほどゆっくりだ。

 

 信じられない。

 悪い夢でも見ているのか?

 

「ベルさま……?」

 

 聞こえたはずなのにベルさまは振り向くことはなかった。

 

 僕を置いていくのか?

 

「御上! 戻ってください!」

 

 雲の上から飛び出そうとした。

 

「ベルさま! 行かないでください!」

 

 潟が止めなければ、ベルさまに手が届いた。

 

「ベルさま!!!!」

 

 カオスがこれ以上ないくらい両腕を広げてベルさまを受け入れる。ベルさまの肩に手を置く動きがとてもゆっくりに見えた。


 

 ベルさまに触るなベルさまに触るなベルさまに触るな!!


 

 指が触れるか触れないかという瞬間、奥都城おくつきが崩壊した。

 

 カオスが驚いて振り向くのを横目に、ベルさまが宙に手を伸ばした。開いた掌に引き寄せられるように水晶刀が飛んできた。

 

 一拍遅れてカオスが再びベルさまと向き合った。ベルさまはその顔に水晶刀を突き立てた。


 ベルさまが振り向く。僕と目があった。

 

「なんちゃって」

 

 ベルさまに水球を投げつけたくなった。


 けど……………………そんな勇気はない。

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