208話 暴走からの昇格
激の胸ぐらを掴んで視線を合わせた……ところまでは記憶がある。
右腕が動かないことに違和感を覚え、振り返る。と、焱さんがものすごい顔で立っていた。焱さんが両手で僕の手首を握っている。
動かなかった原因はこれかと理解し、理由を尋ねようとした。
「もうやめろ」
「何を?」
焱さんが僕に右手を見せる。
「あれ?」
自分の手とは思えないほど血だらけになっていた。痛みを全く感じない。
特に関節付近の損傷が激しい。でも動かせるから折れてはいないだろう。
のんきに眺めていたら焱さんが手早く布で覆ってくれた。帰ったら
「坊主は意外と直情型だな。普段もの静かな奴ほどキレた時に恐ろしい」
「顔の形がかなり変わっちまったが、まぁ、命に別状はないだろう」
煬さんが激の顔を掴んで僕たちに見せる。激は再び気絶している。その頬は裂けて皮膚が捲れ上がり、だらしなく開いた口元は切れていて、更に見える範囲で歯が数本なくなっていた。
「僕がやったの?」
「そうだ。気を付けろよ。前もやったろ」
焱さんに怒られてしまった。金精にベルさまをバカにされて激昂してしまった時のことだ。
あの時は金精の嘘と証拠映像が残っていたから事なきを得たけど、今回は……非常にまずい。
「まぁ、先に襲ってきたのはこいつだから何とでもなるだろ」
「悪いが見送りは出来そうにない。さっきから眠気がすごくてな。俺はここで失礼する」
戦闘が終わってしばらく経つ。煬さんが起きていられるのは有事の時だけだ。もうそろそろ限界なんだろう。
「そうか。……沸、お前も付き添ってやれ。俺たちはもう帰る。見送りは不要だ」
焱さんが煬さんに片手を上げて短く別れを済ませる。煬さんは軽く頷くと、踵を返してしまった。
沸ちゃんは付いていこうとして、一旦煬さんから離れた。そして僕に
「雫、あの、大丈夫?」
「何が?」
被害者の水精を一時保護することに問題ないだろう。特に怪我もしていない。あ、もしかして僕の手の怪我のことか。
「大丈夫。王館に帰ったら薬をもらうからすぐ治るよ」
「いえ、怪我じゃなくって……ううん、やっぱりいいわ。この子をお願いします」
珍しく沸ちゃんの歯切れが悪い。海豹を受け取ると深く尋ねる前に沸ちゃんは、煬さんの所にサッサと戻ってしまった。
小走りで去っていくその姿は、まるで僕から離れたがっているみたいだった。ちょっとだけ心が軋む。
「雫、本当に大丈夫か?」
「別に痛みもないよ」
焱さんが手当てしてくれたから血も止まっている。目の前で軽く手を振ってみた。
「そうじゃねぇ。雫、今の雫は理力余剰だ。俺から見ても分かる。ここは火精の領域だ。なのに何でそんなに水精の理力が高ぶってるんだか?」
「そんなこと僕に聞かれても」
そう言えば仲位に昇格したばかりのころ、
あの時は、
「焱さん、僕、何か
急に怖くなってしまった。
水太子が理違反なんて洒落にならない。
「してたら止めてるぞ」
良かった。
この際、激を殴り倒したことはちょっと置いておこう。抱えた
「よっし! 行くか。全員運ぶの面倒くせぇな」
「三十人くらいいたと思うんだけど……」
辺りを見渡して確認できたのは五、六人だ。集めるだけでも大変そう。
「雫、悪いけど火の王館を経由するぞ。火の王館の牢ならここから直にぶちこめる」
「うん。分かった」
焱さんが頷く。明確な罪があれば他属性の牢に入ることに問題はない。火精の山を犯してるから火の牢でも筋は通る。
「じゃあ、離れてろ。『
広いフロアの至るところで火の手が上がった。一定時間燃え続けると、焼け広がることもなく、煙を残して消えてしまう。
やがて、すぐ近くいた激も、火に飲まれて消えていった。王館の牢へ直接放り込めるなんて便利だ。
「ふぅ……よし、いいぞ。俺たちも帰るか」
「そうだね。この子のこともあるし、早く帰らないと」
出口に足を向けようとすると焱さんに止められた。
「近道しよーぜ。そいつは水球で覆ってやると良い」
近道と
そうこうしていると勢いよく肩を組まれた。何をするのかと顔を覗き込もうとすると、目の前が炎に包まれる。
本来なら驚いて逃げ出すところだ。けど、焱さんの理術によるものなので、恐怖心を飲み込んだ。
全然熱くないと気づいた頃、火はスッと消えてしまった。目の前には見慣れない壁が広がっている。
「よし、到着。悪いけどこっからは自分で帰ってくれ」
「ここって火の王館?」
燃えるような赤や橙で染まった壁に囲まれている。伯位の特権として、自分の領域と王館を一瞬で移動できる。先生や母上も使っていた方法だ。
それは知ってるけど、他人の領域から一瞬で王館と繋ぐことが出来るなんて知らなかった。
「
「それって僕を連れていても可能なものなの?」
実際可能だったのだから疑問系にしたのは変だったかもしれない。
「雫が高位になったから耐えられると思ったんだ。低位だったら途中で
物騒なことを言う。もし、耐えられなかったら今頃ここにいない。
海豹と同じように、念のため水球で包まれてくれば良かったかもしれない。
「雫も
「泉からってこと?」
移動が一瞬で済めば、泉への帰省も楽になる。母上に管理してもらっている泉を自分で手入れできるかもしれない。
「あとは王館から王館への移動だな。
昔、見せただろと焱さんに言われて思い出してみる。
焱さんが水精ではなく火精だと知ったばかりのことだ。漣先生に稽古をつけてもらっているときに火の中から現れたことがあった。あれはそういう仕組みだったのか。
「……っと
「大丈夫だよ。分からなかったら誰かに聞くから」
よく考えたら、自分の王館に帰れない王太子って情けない。それは極力避けたいところだ。
心配そうにしつつも焱さんは慌ただしく出ていった。
「さて、もうちょっとの辛抱だよ」
ベルさま、執務室にいるかな。
ベルさまがいつもの席でいつものように執務に勤しんでいる様子を想像してみた。
「っ!」
視界がグニャリと歪む。目眩に似た光景に海豹を落としそうになった。慌てて抱え直すと、辺りの様子が全く変わっていた。
さっきまで僕を囲んでいた赤い壁ではなく、目に馴染んだ黒い壁だ。更に目の前には僕の執務机が
「ここは……」
執務室だ。状況が飲み込めない。
「おや?」
背後から聞こえた声に海豹が暴れだした。腕からスルリと抜けて、僕の机の下へ隠れてしまった。
捕まえた方が良いだろうけど、ここなら逃げはしないだろう。落ち着くまでそっとしておくとして挨拶が先だ。
振り返ると敬愛する水理王が席についていた。想像通りの姿で想像通り執務中だったようだ。
「ベルさま。ただいま帰りました」
軽く膝を折って帰館を告げる。いつものようにおかえりと言ってもらえるのを期待して……。
「昇格」
ベルさまはビシッと人差し指を突き立てて予想外の宣言をした。
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